余りにも先進しすぎて、母国アルゼンチンではその評価が今も真っ二つに分かれるアストル・ピアソラですが、国際的にみれば、クラシック界から絶大な支持を受けています。
名ヴァイオリニスト、ギドン・クレーメルなど、そうそうたる面々がこぞってピアソラの作った楽曲を好んで演奏しています。
ピアソラの楽曲を聴くと解りますが、もはやピアソラのタンゴは”踊れないタンゴに昇華しています。
それはジャズやクラシックをピアソラ流に融合した唯一無二の作品で、ピアソラの後継者は残念ながら、今のところ現れていません。
それだけ、ピアソラの音楽は独創的で先進的でおいそれとは真似ができないものなのです。
ここではそんなピアソラの魅力を書いてゆこうと思います。
アストル・ピアソラの略歴
アストル・ピアソラは1921年3月11にアルゼンチンのマル・デル・プラタでイタリア移民三世の子として生を享け、1992年7月4日にアルゼンチンで死去しています。
享年71です。
- ピアソラは4歳の時にアメリカのニューヨークに一家で移住し、ジャズに親しんでいました。
このころは、まだ、タンゴにはほとんど興味がありませんでした。 - 1931年、ブロードウェイのラジオ局で、ピアソラの生涯の相棒となるバンドネオンの民族音楽を録音し、これ以降、ピアソラはバンドネオンの演奏をするようになります。
- アルゼンチンに帰国後、ピアソラは父親が開いたレストランでバンドネオンやハーモニカを演奏して過ごします。
- 1938年、ラジオから何がれてきたエルビーノ・バルダー楽団の先鋭的なタンゴに衝撃を受け、タンゴに目覚めます。
- 1940年から5年間、アルベルト・ヒナステラに師事して音楽理論を学び、「ピアノ・ソナタ」のようなクラシック作品を残しています。
- 1944年、それまで在籍していたトロイロ楽団を脱退、以降、自身の楽団を結成して先進的なタンゴを演奏するも、ピアソラはタンゴの限界にぶち当たり、表舞台からしばらく消えます。
- 1954年、クラシックの作曲家を目指して渡仏します。
- パリでナディア・ブーランジェに師事しますが、初めのうちはピアソラは自身がタンゴ奏者であることを伏せていました。
しかし、ナディアにタンゴこそがピアソラの音楽の原点と指摘され、ピアソラははっと目が覚め、”タンゴ革命”という壮大な夢を抱くようになります。 - 1955年7月に帰国後、ピアソラはそれまで考えられもしなかったメンバーとしてエレキギター奏者を迎えて、ブエノスアイレス八重奏団を結成します。
しかし、当時のアルゼンチンの民衆からは「タンゴの破壊者」と罵られ、また、命を狙われるなどしました。 - ブエノスアイレス八重奏団は結果として成功を収めることなく解散し、ピアソラは1958年に再びニューヨークに移住します。
- 1959年、父が死去し、父に捧げたピアソラの代表作「アディオス・ノニーノ」が作られます。
誰しも一度は聴いたことがあると思いますが、この「アディオス・ノニーノ」は激しい悲しみが爆発するかのような峻厳としながらも心をなでるような優しさも併せ持った感情が高ぶる名曲です。 - 1960年、アルゼンチンに帰国し、「アディオス・ノニーノ」を初演し、また、バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、エレキギターによる五重奏団を結成します。
これ以降、ピアソラはピアソラが望む理想の音楽を追求するために、楽団を結成しては解散を繰り返します。
しかし、ピアソラは、名曲を次々と生み出し、いつしかアルゼンチンが誇る音楽家の一人に数えられるようになりました。 - 1992年、ブエノスアイレスの病院で死去。
アディオス・ノニーノ
ピアソラが追及した”タンゴ革命”の行きついたところは?
端的に言ってピアソラの音楽は”踊りの音楽”であるタンゴからは逸脱しています。
しかし、ピアソラの作り出した音楽は、踊れずとも心が躍る熱情的なもので、ピアソラ後期の音楽は、例えば「Libertango」のように、先鋭的で壮大な思いがあふれ出す魅力に満ちた楽曲となっています。
なんといってもピアソラの音楽には「熱」が充満していて、今にもその「熱」が破裂しそうな危うさもあり、ハラハラドキドキのタンゴ風の現代音楽がピアソラの音楽の神髄ではないでしょうか。
「タンゴの破壊者」と罵られながらも、最後まで、ピアソラ自身が望む音楽の追及はやむことはなく、ピアソラ亡き後に時代はやっとピアソラに追いついた感があり、そのどこまでも先鋭的なタンゴ風な現代音楽は時代の最先端を今も走っています。
世界で称賛されるアストル・ピアソラの音楽
ピアソラの音楽はクラシック畑の人が取り上げる機会が多いように思えます。
もちろん、ピアソラはあらゆることを楽譜に書いたので、ピアソラ風なバンドネオンの演奏ができる人はいますが、それは表面を取り繕っただけの中身のない音楽といえ、ピアソラ風な演奏を再現しただけで終わっている場合が多いのです。
しかし、クラシック畑の人がピアソラの楽曲を取り上げることに、ピアソラが生きていたならば、たぶん、大喜びだっただろうと思われます。
それだけピアソラの音楽には人間が持つ情動に作用してやまないピアソラ自身の溢れんばかりの熱情が凝縮していて、聴くものの心の琴線に触れては心震わせる音楽なのです。
しかしながら、ピアソラの音楽には、熱情ばかりでなく、切なさもたっぷりと注ぎ込まれてあるので、それだけ聴くものの心を感動の渦に巻き込むのだと思います。
とにかく、ピアソラの音楽は先鋭的ながら非常にドラマチックで、そして劇的にその表情を変える曲の展開は、天下一品と言わざるを得ません。
ピアソラの音楽を一聴すれば、もうそのピアソラの音楽が発するいい意味での「毒気」に当てられて、完全に酔いしれるしかないのです。
つまり、ピアソラの音楽はまるで蟻地獄のような「魔力」を秘めていて、一度、ピアソラの音楽にはまってしまうと、もうそこから抜け出せず、後はピアソラにいいように料理されるだけなのです。
それ故にピアソラの音楽は普遍性を持っていて、世界中の音楽家を虜にしているのだと思います。
ピアソラは、亡くなってしまいましたが、その死後、ピアソラの評価は高まるばかりで、世界の人々を魅了してやみません。
まとめ
余りに先進的な音楽だったために、その生前は晩年を除き必ずしも評価が高かったわけではなく、一部に熱狂的なファンがいただけのアストル・ピアソラは、その死後、評価はうなぎのぼりです。
ピアソラの音楽からあふれる熱情や悲哀など、そのドラマチックな曲調に魅了された人は今や世界中に広がり、ピアソラはタンゴの枠を軽々と超えて現代音楽の作曲家の一人としてみなされる場合が多いです。
それほどまでに先進的であったピアソラの音楽にやっと時代が追いつきつつあります。
アルゼンチン・タンゴを革命しようともくろんだピアソラの情熱は残された音楽作品に凝縮していて、今もピアソラの演奏を聴けば血沸き肉躍ること間違いなしで、哀惜漂いながらも溢れる熱情の音楽は普遍的な音楽なのです。
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