1941年12月8日、大日本手国の誇る空母6隻、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴を中核とする機動部隊がハワイ、オアフ島のアメリカ海軍・真珠湾攻撃を実施しました。
搭載された艦上機第一波空中攻撃隊183機、第二派空中攻撃隊171機はほぼアメリカの真珠湾に停泊するアメリカ太平洋艦隊を壊滅したのです。
アメリカ側は戦艦3隻が沈没、2隻大破、航空機は190機近くが破壊され、損傷機と合わせればその数は340機以上となりました。
対して日本の被害が、未帰還29機、損傷74機という軽微な被害すぎません。大作戦の割には非常に少ない被害でした。
さて、この数字の上では大成功に思われる真珠湾攻撃なのですが……
戦後になると、かなり批判されることが多くなってきます。
- 第三派の攻撃をなぜ送らなかったのか?
- 石油タンクや港湾施設、工廠を攻撃しなかったのはなぜか?
- 居座って空母を探して、叩くべきだったのではないか?
- そもそも、ここでハワイを占領するほど徹底的にやるべきではなかったのか?
いろいろな意見が飛び交っています。
その批判対象は、計画者であった連合艦隊司令長官・山本五十六大将や、艦隊指揮官であった南雲忠一中将に向かいます。
さて、真珠湾攻撃は、本当に失敗だったのか?
歴史のIFが成立するよちがあったのでしょうか?
今回はその点を検証してみたいと思います。
真珠湾攻撃は不徹底だったのか?
真珠湾攻撃により少なくともアメリカ艦隊は身動きができなくなりました。
そして、責任をとってキンメル提督は太平洋艦隊司令官の職から更迭され、新たに着任したのがチェスター・ニミッツです。彼は日本軍の攻撃を分析させます。
その被害は凄まじいものでした。戦艦5隻を含む30万トンの艦船が戦闘不能となり、基地の航空隊はその数を30%程度にまで減らしました。
つまりは70%の飛行機を破壊した計算です。普通30%減ったら大事で「壊滅」という被害になるのです。
数字でみれば壊滅以上。ほぼ全滅です。
しかし、ニミッツは「意外に被害は少なかった」と書き残します。
これが、戦後の真珠湾攻撃の評価に大きな影響を与えたのではないかと思います。
はっきり言って、ニミッツの発言は「強がり」、「士気を立て直すための強弁」のレベルを出ていなかったはずです。
ニミッツは「450万バレルの燃料が無傷だったこと」、「空母が無事だったこと」「軽巡、駆逐艦の被害が少なかったこと」などから、真珠湾攻撃は不徹底といいます。
しかし、この攻撃には日本は第三波の攻撃隊を編制して出さねばなりません。
このときの南雲長官の心情とすれば、「十分に戦果は上がっている」「第二派の攻撃の被害が大きい」「地上の爆煙で、目標の視認が困難」、「敵空母簿所在が不明」という状況だったわけです。
しかも虎の子以上に大事な空母6隻と熟練搭乗員は、少ない被害でまだ残っている。
そもそも南雲長官の理解は「真珠湾攻撃は南方作戦の支援」であり、アメリカ太平洋艦隊の行動が不可能になれば「作戦目的」は達成できています。
これ以上、居座って戦果の拡大を狙うのは、空母の所在が分からないことや、敵の地上の状況が視認できないこと、敵の反撃が強くなっていることを考えると難しかったのではないでしょうか。
ここで攻撃を継続するよりは艦隊の保全を図るというのは、一定の合理性があるでしょう。
そもそも、真珠湾攻撃の作戦目的は「南方作戦の支援」なのですから。それ達成しているならリスクを犯さないのもひとつの選択肢です。
石油タンク・港湾施設や工廠への攻撃は?
では、第三派の攻撃隊を編成し、残された石油タンク、港湾施設を攻撃した場合どうであったかという部分です。
まず、石油タンクですが、一部に重油火災を起こすことはできたはずです。
後に南雲機動部隊は、敵基地の燃料タンクの攻撃も実施しています。
しかし、ハワイに貯蔵されているのは、数カ所に分かれた450万バレルの燃料です。これを全部燃やすのは無理でしょう。
また、今も残っている真珠湾の石油タンク写真には、タンクが升目に設置され、重油が外に漏れださないような構造になっています。
日本軍の対艦用徹甲弾(通常弾)では効果が低いので陸用爆弾を使うことになるわけですが、それでも敵に与えた被害はさほど大きくはならなかったでしょう。
そして、工廠、港湾施設にまで戦力を分散したら、大した被害を与えず、こちらの被害は大きく拡大していた可能性はあります。虎の子の航空機や搭乗員をここで大量に失っていたかもしれません。
実際に、第三派で出せる程度の攻撃では、それほど大きな被害を与えることは物理的に不可能であったでしょう。
また、450万バレルといっても、これは平時では大きい量ですが戦時になれば、それほど大きな量でもないのです。
当時アメリカもタンカーは不足していましたが、もし、石油タンクに被害を受けていたら、ドラム缶でもなんでも使って、強硬輸送してくるはずです。
アメリカが甘い相手ではないのは、史実が証明しています。
やられても、その対策を必ず立ててきます。
戦艦の砲撃は可能であったか
そもそも、航空機だけの攻撃だったので、破壊力が足らなかったのだという論も戦後に故・小室直樹氏などが主張しています。
つまり、戦艦部隊を投入して、艦砲射撃を行うことを主張したのです。
戦艦の砲弾は36センチ砲で680キログラム、長門の41センチ砲で1000キログラムです。
当時、大和はまだ実戦には投入できる状況ではなかったものの、日本には41センチ砲戦艦が2隻、36センチ砲戦艦が8隻ありました。
どうせ、本土で遊んでいたなら、これをハワイ攻撃に同行させ、艦砲射撃で滅多打ちにすれば、石油タンクも、港湾施設も、工廠の問題も解決するだろうということです。
一見、素晴らしい案かと思いますが、これは、後世の人間からは、真珠湾攻撃が敵に途中で発見されず、無事ハワイに到着したという事実を知っているから言える話です。
そもそも、こんな大艦隊を組んだら発見される可能性は、飛躍的に跳ね上がります。
このような大艦隊を動かしたら、秘匿は困難でしょう。
当時の人からすれば、空母6隻の艦隊をハワイまで敵に発見されずにもっていくということがもはや奇跡に近いという感覚です。
それなのに、ここで戦艦まで投入して艦隊を発見されやすくするという選択肢はないでしょう。
また、ハワイにはべトンで固められた16インチ(40センチ)の要塞砲が周囲を固めていました。
要塞砲と戦艦が撃ちあうのは当時の軍事常識からすれば、戦艦にとって必敗の悪手以外のなにものでもなかったのです。
宣戦布告が間に合えば
そして、真珠湾攻撃が戦略的に間違っていたとされる大きな理由に、宣戦布告の遅れがありました。
なぜか、日本人は真珠湾攻撃で宣戦布告が遅れたのでアメリカ人は「だまし討ち」解いているのかと勘違いしています。
アメリカ大統領ルーズベルトは、明らかに交渉している最中に艦隊を動かし、交渉するふりをして、アメリカをだましていたと主張したわけです。これは、演説を聞いてみればわかるかと思います。
宣戦布告が間に合っていようが間に合ってながろうが、そもそも、「ジャップに喧嘩を売られた」というのは、当時のアメリカにとっては屈辱だったのです。
経済制裁しておけば、折れるだろうし、アメリカに対抗できるような高性能の兵器など層は持っていないと高をくくっていたともいえます。
実際に、真珠湾攻撃ではドイツ人パイロットや、なぜかメッセ―シュミットの目撃例があります。
根底に、日本軍に攻撃され、いいようにやられているという事実を受け入れられない層がいたのでしょう。
とにかく、「劣った亜人」である日本が「神に選ばれし国家」であるアメリカに牙をむくこと自体が無礼なわけですね。そのときの多くの人の人種意識は今とは全く違います。
そのような人種意識のベースがありますので、どのような形での戦争となっても、アメリカは日本を糾弾し続けたしょうし、国民は燃え上がったと思われます。
史実では、ヨーロッパ大陸優先の連合国の合意がアメリカ国民に批判されています。
ようするに、もっと生意気なジャップを叩き潰せということです。
そもそも戦略的に実施すべき作戦だったか?
そもそも論として、真珠湾攻撃はやらないでいい作戦ではなかったという意見もあります。
しかし、それをいうなら、日本はアメリカと戦う必要があったのか? という疑問につながってしまいます。
当時の日本の戦争計画は、その見通しが甘いとか、ドイツ任せだという批判はあっても、南方資源地帯を確保して、太平洋方面は長期持久をする。
そして、その中で何とか承認を得たのが真珠湾攻撃作戦です。
山本五十六が短期決戦のためといっても、ハワイ攻撃で戦意をくじくことなどできないのは、十分承知だったのかもしれません。
彼は書簡で「討ち死にする所存」があることを書いて残しています。
アメリカが短期で手を上げるとは内心思っていなくとも、それしか日本の勝ち目は無いと信じていたのでしょう。
仮に真珠湾攻撃が行われてなければ、アメリカ太平洋艦隊は、存在するというだけで、日本の南方攻略作戦や、フィリピン攻略作戦に掣肘を与えていた可能性もあります。
実は、アメリカ内部でも、軍事的に真珠湾攻撃を賞賛する声もあるのです。
アメリカ陸軍長官ヘンリー・スティムソンや、アメリカ極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサーはその意味を知り少なくとも軍事的な部分では真珠湾作戦を成功と評価しています。
最終的にどのような形をとったとしても、日米があの時点で開戦すれば、日本の敗北は必至であったろうと思われます。
それよりも、日米戦回避の方向を探れなかったのかという思いが強く残ります。
真珠湾攻撃時、大和は本土に居たとお思いですか?
真珠湾攻撃の前に各空母の攻撃隊指揮官が赤城に集められ草鹿参謀長よりの厳命として、海軍工廠は一般工員の居住区で病院や、学校があり、一切の攻撃はまかりならぬと通達されたんやな。
この通達が終戦後、米軍の知るところとなり、真珠湾攻撃に関しては、戦犯の対象外となったんとちゃうか。