日本の合戦には「○○の乱」、「○○の変」、「○○の役」、「○○合戦」など、いろいろな呼び方があります。
「壬申の乱」はなぜ乱なのか?
「本能寺の変」はなぜ変なのか?
モンゴルから敵が襲来した元寇の「文永の役」はなぜ役なのか?
いったい、その呼び方はどのように定められているのでしょうか。
そして、呼び方にルールのようなものはあるのでしょうか。
この記事で解説いたします。
日本の合戦の呼び方
日本史上では戦争や戦闘があったことを示す用語として「○○の戦い(合戦)」、「○○の乱」、「○○の変」、「○○の役」というように区別されていますが、厳密な呼び方のルールがあるのでしょうか?
日本史上では一般的に以下のように分類されています。
- 乱(らん)…失敗したクーデター
- 変(へん)…成功したクーデター
- 役(えき)…外国・辺境地での戦争
- 戦(たたかい)…日本国内での戦争
- 陣(じん)…局地的な戦闘や城攻め
しかし、「乱」と「変」、「役」と「戦」と「陣」などの区別はあいまいな部分が多く、結論を言うと特に「この戦いはこう呼びなさい」という明確なルールはないそうです。
ちなみに「変」という呼び方は比較的最近になって定着した呼び方らしく、「本能寺の変」は「明智光秀の乱」だったり「山崎の戦い」に含まれたこともあったそうです。
明治時代になって教育の制度が整うまでは、今と違って有名な戦いになればなるほど「~の戦い」を省略する呼び方がされていました。
天皇が勝者なのに壬申の「乱」
先ほど説明したとおり、「○○の乱」は失敗したクーデターのことを言います。
しかし、これはどうにもおかしいと思います。
飛鳥時代に「壬申(じんしん)の乱」という乱がありました。
壬申の乱はまだ皇太子の身分だった天武天皇が現行の政権に反乱して内戦に勝利した戦いです。
天皇が起こす戦いは聖戦であり、反乱だったとしても大義名分のため「戦」や「陣」と改めるべきです。
日本書紀には壬申の乱の様子が書かれていて、その原文には「壬申年之役(じんしんおとしのえき)」と「役」という字を使用しています。
もともとは壬申の乱は「乱」ではなく「役」の扱いだったわけです。
ところが私たちは壬申の「乱」と授業で習いました。
その理由は、歴史研究が進んで明治3年に敗者の大友皇子(おおとものおうじ)が弘文天皇(こうぶんてんのう)として「天皇」に認められているので、「天皇に対する皇子の反乱」ということにせざるを得なくなったからです。
そのため、もともとそれまでは「壬申の役」が一般的であったのに、「壬申の乱」と改訂することになりました。
反乱になることは分かった、しかしクーデターを起こした側(天武天皇)が勝利し、クーデターに成功しているので、「変」になる方が自然ではないか?
これについては以下の可能性が考えられます。
まず、乱が起きればたいてい天皇か将軍が官軍(朝廷軍)を派遣して鎮圧します。
職業軍人VS臨時兵士なので当然軍配は官軍に上がります。
そのため一般的な分類法である失敗したクーデターというのは以上が要因の可能性があります。
壬申の乱の場合は朝廷軍VS朝廷軍です。
皇太子による反乱で「乱」が使われていると上に書きましたが、内乱という意味で「乱」が使用されている可能性があります。
「壬申の乱」以外にも内乱という意味で乱が採用されているのは、平治の乱、保元の乱(これも天皇が勝者です)、応仁の乱(これは決着がついていません)があります。
そして、「変」というのは最近になって定着したもので、明治に改定されたときはまだなかったものと考えられています。
そのため今後、壬申の乱→壬申の変になることも考えられ、ただ呼び方が古いまま改定されていないだけという見方もされています。
日本史上初の独立戦争「平将門の乱」
平将門(たいらのまさかど)の乱は「将門(まさかど)の乱」、同時期にあった藤原純友(ふじわらのすみとも)による反乱と合わせて「平将門藤原純友(たいらのまさかどふじわらのすみとも)の乱」とも呼ばれることがありますが、こちらの記事では「平将門(たいらのまさかど)の乱」と統一します。
平将門(たいらのまさかど)の乱は平安時代初期に平将門が関東で「新皇(しんのう)」を名乗った日本史上初の独立戦争です。
平将門は武士にとって憧れの存在であったり、守り神としても祀られたので死後すぐに彼の一代記である「将門記(しょうもんき)」という伝記が書かれました。
その中では平将門の乱のことを「国を傾ける謀(はかりごと)」や「彼の賊難」といっており、○○の乱とする用語は使われていません。
のちの時代になって平安時代後期の歴史物語に初めて「将門が乱」、鎌倉時代初期の軍記「保元物語」では「将門(まさかど)、純友(すみとも) 東西にて乱逆いたし」とあるので、「乱」の字を用いるのはOKな例(まさに失敗したクーデター)です。
放火されただけなのに「変」
西暦866年には「応天門の変」という変がありました。
応天門の変とは都の門であった応天門が放火された事件で、とくにこれといって戦闘は起きていません。
それなのに成功したクーデターを意味する「変」とはどういうことなのでしょうか?
「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」では「応天門を焼くこと」、「伴大納言絵巻(ともえだいなごんえまき)」では「貞観(じょうがん)の応天門炎上の段」として、「変」というよりも「火災・炎上」という描写が印象強いです。
この事件は放火犯とされた貴族が冤罪である可能性が高かったり、事件ではなく「政変」という印象が強いので、放火事件を変と呼ぶようになったではないかと考えられています。
「役」、「合戦」、そこの呼び方が重要なのだ
1051年からの「前九年の役」、「後三年の役」は東北の豪族と源氏が長年にわたって戦闘を繰り広げた戦いです。
「役」に辺境での戦争という意味が加えられたのにはおそらくこの戦争と、明治時代に九州で起きた「西南の役」が影響していると思われます。
それでは、明治時代以前はどのように習っていたのかと言いますと「前九年」、「後三年」というワードが「前九年の役」と「後三年の役」を意味していました。
今ではすっかり「役」というのが一般的になってしまいましたが、鎌倉時代の説話集「十訓抄(じっくんしょう)」では前九年の役のことを「たびたびの合戦に」とあります。
後三年の役については「保元物語」に「後三年の御合戦」や「後三年の軍(いくさ)」、「太平記」にも「後三年の軍の時」という記述が見られるので、「役」というよりも「戦(合戦)」という呼び方をするほうが正しいのではという見方もされています。
関ケ原の戦いは「陣」?
西暦1600年、天下分け目の戦いが火蓋を切りました。
江戸時代の学者である井原西鶴(いはらさいかく)は関ケ原の戦いのことを関ケ原の「陣」としています。
しかしながら、江戸時代の人々は「関ケ原」と聞いただけで「関ケ原の戦い」であることがすぐにわかっていたので、関ケ原は「陣」ではなく「戦(合戦)」という呼び方が定着しています。
まとめ
結論から言うと昔からの呼び方が定着しているものもあり、「乱」、「変」、「役」、「戦(合戦)」、「陣」の呼び方に関する厳密なルールはないようです。
その為、「壬申(じんしん)の役」が明治3年に「壬申(じんしん)の乱」に改訂されたように、今後も歴史研究が進む中で、呼び方が変わる可能性があります。
基本的な分類ルールはあるようですが、すべてがそのルールに当てはまるということもなく、なんだかスッキリしない結論になってしまいました。
ただ、歴史にはいろいろな解釈、見方がある以上は仕方がないことなのかもしれません。
いつか「乱」、「変」、「役」、「戦(合戦)」「陣」が分かり易く整理されることを願っています。
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