現在世界には190カ国余りが存在し、その大半が法治国家となっています。
我が国日本も法治国家のひとつであり、むしろ現代では法治国家でない国の方が珍しいでしょう。
日本が法治国家となったのは、西暦701年に発布された大宝律令が制定されてからであり、法治国家となってからはまだ1300年程しか経っていません。
それでは、大宝律令が制定される前、つまり法治国家となる以前の日本社会はどのように運営されていたのでしょうか?
本記事では日本が法治国家となる以前の国の運営について説明します。
法律のもと国家経営をする法治国家
法治国家とは王や帝、または首相が基本的には変更されることのないあらかじめ定められた法律によって国民を統治し、その権力を拘束されている国家のことをさします。
現代における法治国家の概念はドイツ法学に起因するものであり、国家における意思決定や善悪の判断などはすべて国家が定めた法律に基づいて行うという主筋があります。
日本が法治国家となるのは『大宝律令』制定以降
我が国日本が法治国家の体制を敷くのは西暦701年に天武天皇によって発布される大宝律令の制定からです。
大宝律令が制定されたことにより、日本は中国とほぼ同じ水準となる律令国家、もとい法治国家の仲間入りを果たします。
それ以前にも聖徳太子が17条の憲法や冠位十二階を制定するのですが、それはあくまで朝廷に仕える官吏の心構えや官吏登用制度に関するもので、刑罰や税制に関することは一切触れられていませんでした。
日本が法治国家になったのは他の国と比べて遅い?
世界に視野を広げてみると、法律に関して日本はけっこう周りの国々から遅れています。
まず、法治国家を形成するためには「法律が必要だ」という法の精神に気づかなければなりません。
そこになかなか日本は気付くことができなかったのです。
法律を語る上で切っても切れない世界的に重要な史料があります。
それはメソポタミア文明の盛栄を語るに欠かすことのできないハンムラビ王が制定した「目には目を、歯には歯を」のフレーズで知られるハンムラビ法典です。
ハンムラビ法典は現在では解読することができるものがほんの一握りと言われる楔型文字によって表記され、形として現存する法律としては世界最古のものであると言われています。
そしてこのハンムラビ法典が制定されたと考えられている年代が紀元前1795年~紀元前1750年。
なんとバビロニアという王朝では日本よりも約2000年以上も前から法治国家を形成していたのでした。
そしてアジア諸国でいち早く法治国家となったのが黄河文明の栄えた中国です。
中国では紀元前250年頃に三国志で有名な曹操孟徳に仕えた荀彧文若の11代前の祖である荀子が興した諸子百家のひとつ法家の李斯が秦の始皇帝の命を受けて法律によって国家を治める法治国家を実現させました。
これが日本で大宝律令が制定される約1000年前の出来事です。
法治国家になる以前の日本
ここからが本題です。
飛鳥時代に大宝律令が制定されるまで、日本には法律と呼べるものが存在しませんでした。
法律がない中で当時はどのようにして国家運営がなされていたのかと言うと、占いやご神託を政治に取り込んで国家運営を行っていました。
その代表的な例が占いによって邪馬台国を統治した女王卑弥呼(ひみこ)や巫女だった皇后に己の進めようとする方針や政策の善悪を占い政治に反映していた雄略天皇(おりゃくてんのう)です。
日本は中国から孝行の精神や礼儀を引き継いだ国家であり、法律ができるまでは天皇や豪族など一部の豪族の裁量と各人が持つ良心のもとで社会が回っていました。
簡単に言うとやってはいけないことやするべきことは各人が自分で考えて行動を起こし、もし罪とみなされた場合は一部の支配層の者が勝手に決めていたということです。
また、政治に占いを反映させていただけのことはあって罪人を裁く際にもおまじないの類が用いられました。
実際、大宝律令が制定される直前までの日本における裁判がどのように行われていたのかと言うと、罪人にグツグツに煮えたぎった釜の中へ手を入れさせ、火傷をしたら有罪にし、火傷をしなかったら無罪を言い渡す、などの方法もとられていたようです。
これでは100%誰しもが火傷するだろうと思いますが、手は赤くなったが火傷をしなかったというケースもあり、本当に心根が清い者は火傷をしないと信じられていました。
民族性を利用した人々の取り締まり
今でこそ個性を尊重されていますが、日本人という民族は古来より戦闘民族であるくせに周りの人々と異なることを嫌う性質があります。
また、中国からの影響もあって親や年配者を大事にしようという思想の者が多く、国家を統治する側や国民の上に君臨する者たちからすれば操りやすい性格をしていました。
今となっては考えられないことですが、もし村人が罪を犯してしまった場合、当人とともになぜか村の首長となる村長も一緒に罰則を与えられました。
古代の日本では人々を取り締まるため、朝廷から地方に派遣された郡司という豪族が各自治体の罪人や税を取り締まっていました。
その郡司たちは村長に村民の監督義務を強制し、もし村民が罪を犯した際には当人と同じ刑罰を与えることで村長は自分が罰を与えられないように村民の動向を常に把握し、村民たちは村長に危害が及ばないように自分たちの行動を慎んで生活しました。
- 郡司:朝廷から派遣され、村長を監視する
- 村長:村民が罪を犯してしまった場合、一緒に罰が与えられるため、村民の監視、しつけをする
- 村民:村長に危害が及ばないように慎んで生活をする
おそらく、このシステムがあったことによって日本はそこそこの治安が守られていたのでしょう。
しかしこのシステムがあったせいで日本は法律の必要性に目を向けるのが回りの国々に比べると遅くなってしまったのではないかと考えられます。
まとめ
日本が法治国家となる西暦701年までの日本社会は政治に占いやご神託を取り込むことで国家が運営されていました。
また、罪人らの取り締まりや政治の意思決定は一部の支配層の者の裁量と各人の良心が基準となっていて、罪人の裁きにまで占いが用いられていたり、民族性に付け込んだ取り締まり方法がとられていました。
今となっては考えられない事ばかりですが、法律が制定されるまでは原始的な方法で国家運営がなされていました。
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