「京の五条の橋のうえ~」の歌い出しから始まる童謡「牛若丸」の影響もあってか、『弁慶』と『牛若丸こと源義経(みなもとのよしつね)』が出会ったのは、京都の五条通りある五条大橋であるというのが世の中の通説となっています。
ところがこの童謡の歌詞にある「五条大橋で出会った」というのは実は真実ではありません。
それでは、いったい弁慶と牛若丸(源義経)の出会った真実はどういったものなのでしょうか?
この記事で詳しく解説いたします。
いろいろな書物に華々しく記録された弁慶と義経
『弁慶』と『牛若丸こと源義経』は日本人なら誰もが知っているであろう歴史上の偉人です。
弁慶と牛若丸(源義経)は平安時代の最末期を生きた武将で、源平合戦時には最前線で戦い源頼朝が鎌倉幕府を開く際に最も功績の大きかった二人です。
弁慶と牛若丸(源義経)は両名の死後、多くの武士達の憧れの存在となります。
平氏の盛衰記である『平家物語』や源氏視点から見た源平合戦の軍記である『太平記』、鎌倉時代に国の公式な史書として編集された『吾妻鏡(あづまかがみ)』などにも弁慶と牛若丸は登場します。
その数々の書物で弁慶は僧侶なのに学問や功徳を積まず、ヘビー級の薙刀を扱う破戒僧。
牛若丸(源義経)はイケメンで華奢なのに超人的な身体能力で強者を撃退するトリックスターとして描かれています。
一般的に知られる弁慶と義経の出会い
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「京の五条の橋のうえ~」という歌い出しから始まる童謡の「牛若丸」は1911年に小学校の音楽で習わせる歌として明治政府が定めた歌です。
その歌詞には弁慶と義経が五条大橋の上で出会い、刀狩りをしていた弁慶と義経が橋上で激闘を繰り広げた末に、弁慶が敗北を喫して降参する様子が表されています。
そのため、一般的には「弁慶と義経は京都の五条大橋で出会った」と言われています。
弁慶と義経は五条大橋で出会っていないのが真実
しかしながら、既にご紹介した史料(平家物語、太平記、吾妻鏡)には弁慶と義経が出会ったことに関する記録は一切ありません。
源義経に関する情報で最も詳細な情報が掲載されている源義経の一代記、義経記(ぎけいき)に弁慶と義経の出会いに関する記録が見られます。
義経記(ぎけいき)には五条大橋は一切出てこないし、むしろ弁慶と義経が出会う場面ではまったく別の場所であったことを記録しています。
義経記には弁慶と義経の出会いは2度あって初見(最初)は五條天神という神社、2度目は清水観音(清水寺)であるとしています。
そして、弁慶と義経は2度出会っているという記録から、童謡では弁慶と牛若丸(義経)は出会ってすぐに戦い、決着がついたようにうたっていますが、真実はそうでないことが明らかになっています。
弁慶と牛若丸の本当の出会いとは?
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ある日の夕暮れ時、五条通にひっそりとたたずむ五條天神に異様な僧侶が参拝していました。
その僧侶は身の丈がおよそ7尺(210センチ)。
腰には何本も太刀を佩(は)き、右手には薙刀(なぎなた)を背中には刀、槍、鎌などがギュウギュウに詰まったカゴを背負っていました。
ガラガラガラ。パチンッパチン(拍手をする音)。
「五條天神よ、昨日は999本目の刀を賜り感謝申し奉る。今日は記念すべき1000本目を得られるよう、どうか我にご武運をお与えください」。
両手を合わせて五條天神に深々と頭を下げて必勝祈願をしているこの僧侶の名は『武蔵坊弁慶』でした。
するとどこからかピーヒャラピーヒャラと笛を吹く音が聞こえてきます。
その音の主は白い狩衣を身にまとい、腰にはいかにも高価そうな太刀を佩(は)いていました。
その若武者は顔立ちがまるで女の子のように色白で、身の丈は5尺程度と見るからに弱々しい容貌をしていました。
この若武者こそ後に源平合戦で源氏の総大将を務める『牛若丸(源義経)』でした。
(しめしめ、今日はついてるぞ。あの若武者が記念すべき1000本目の標的だ)と決心した弁慶は、その若武者の前に立ちはだかり、
「ここで会ったが運の尽き、俺の記念すべき1000本目にお前のその太刀を加えてやる。そいつをよこせ!」
と義経に斬りかかりました。
すると、義経は弁慶を蹴飛ばして塀の上にヒラリと飛び上がると、所持していた太刀を自分の足で踏みつけ折り曲げ、「そんなに欲しくばくれてやるわ」と弁慶に向けてその太刀を放り投げました。
「この武蔵坊弁慶を馬鹿しやがって~」。
立腹した弁慶は牛若丸目がけて力任せに薙刀を振り下ろしました。
すると牛若丸は塀の上から飛び降りると今しがた斬りかかった弁慶の薙刀を蹴ってヒラリと舞上がりました。
この技こそ、鞍馬天狗直伝(くらまてんぐじきでん)の六韜(りくとう)という秘術(ひじゅつ)です。
その後、義経は何度も何度も弁慶に斬りかかられるのですが、そのたびに六韜(りくとう)を使ってヒラリヒラリと避けていき、弁慶を翻弄(ほんろう)しました。
そしてゼェゼェ肩で息をしている弁慶を振り返り様に見た義経は、フンッと鼻で笑いその場を立ち去りました。
弁慶と義経は清水寺の縁日で再び出会う
初対面の日の翌日、終始あしらわれっぱなしで恥をかかされた弁慶は、なんとしてもその仕返しをしてやりたいと首をかしげて考えていると「そうだ、今日は清水寺の縁日だから昨日の男も来るにちがいない」という名案を思いつきました。
そして、薙刀を携えて清水寺の門の前で待ち伏せする作戦をとったのです。
するとどうでしょうか?
弁慶が予想したとおり、義経がスタスタと歩いてくるではありませんか。
弁慶は薙刀を構えて、のほほんと歩いている義経の前に立ちはだかりました。
「やいやい、おのれ昨日はよくもやってくれたな。」と文句をつけると、いきなり斬りかかったのです。
ところが、弁慶の一撃はまたもやヒラリとかわされてしまいます。
義経は軽い足取りで清水寺の中に逃げ込みました。
それでも諦めない弁慶は義経を追いかけます。
そして行き着いたのが清水寺の本堂にある清水の舞台です。
このときから約1000年後には修学旅行では定番のスポットとなるのですが、ここで弁慶と義経は死闘を繰り広げました。
弁慶が薙刀を振り回して終始攻撃をするのですが、義経はヒラリヒラリ身を翻(ひるがえ)してなかなかとらえることができません。
「これで決めてやる」と言わんばかりに渾身の一撃を浴びせようと弁慶が薙刀を振ると、義経はヒラリと舞台の欄干(らんかん)に飛び上がり薙刀が宙を斬りました。
そして、その平行移動している薙刀の切っ先に飛び移った義経はそこからまた飛び上がり、さらに宙でフワリと再び飛び上がると上を見上げて呆気にとられている弁慶の顔面目がけてパチーンと扇で叩きました。
「ぐっ」痛みでつい目をつぶってしまった弁慶を義経は目にも止まらぬ速さで取り押さえました。
弁慶もさすがに義経に敵わないと見て降参し、「あなたこそ私が仕えるべき人です。どうか私を家来にしてください」と両ひざをつき、額を地面に擦り付けてお願いしました。
牛若丸?義経?真実は名前が違う
弁慶と義経が出会ったとき、義経はまだ少年で牛若丸と名乗っていたというのが通説です。
しかし、史料をもとにしてこれを考えた場合、名前に矛盾が生じています。
たしかに、義経の幼名は牛若丸であることは事実です。
これには異論がないのですが、義経は15歳で元服したのを機に名前を「遮那王(しゃなおう)」と改名します。
翌年には鞍馬寺を出て奥州平泉の藤原秀衡を頼りそこで「義経」と改名します。
平泉から京都へ赴いたときには義経は18歳となっていて、すでに義経を名乗っていたことが真実です。
そのため、京都で弁慶と出会ったときは牛若丸ではないという結論が出ます。
五条大橋は弁慶と義経の存命中には存在していなかった?
現在京都の河原町にある五条大橋には弁慶と義経の決闘をイメージした石像が立てられています。
鴨川流域の五条河原にかかる大きな橋だったので五条大橋と名付けられたのですが、この橋は1590年に太閤豊臣秀吉が鴨川の上流にあった橋をこの場所に移築したものです。
つまり、弁慶と義経が生きていた1100年代には、まだ五条大橋は存在していなかったのが真実です。
まとめ
さて、弁慶と義経の出会いにまつわる通説を真実に塗り替えていきましょう。
《通説》
弁慶と義経は五条大橋で出会う
《真実》
出会いは2回。最初は五條天神、次が清水寺。
《通説》
弁慶と義経存命中に五条大橋はかかっていた
《真実》
五条大橋は弁慶と義経の死後、400年後に作られたもので、彼らの存命中には存在していなかった。
《通説》
弁慶と出会ったとき、義経はまだ少年で牛若丸と名乗っていた。
《真実》
弁慶と出会ったときの義経は少なくとも18歳。すでに元服を果たして立派な大人。名前はすでに義経に改名していた。
以上が、弁慶と義経の出会いの真実です。
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