日本に仏教が伝来した時の宗教対立。仏教と神道、蘇我氏と物部氏







現在日本人の大半は仏教を信仰しています。

しかし、日本における最古の宗教は八百万の神を祀る神道です。

 

教科書では「仏教は飛鳥時代に中国から日本へ伝来した」とさらりと言ってのけていますが、日本に仏教が伝来したとき、恐ろしい事件が度重なりました。

今回はそんな仏教が日本に伝来した時期の神道と仏教との宗教対立について紹介していきます。

 

中国から日本へ伝来した仏教

日本史の教科書では「仏教は天竺(てんじく)で生まれ、シルクロードを通って中国に伝来し、中国からの渡来人や遣隋使・遣唐使によって日本に伝えられた」というふうに記述されています。

日本に仏教が伝来したとき既に日本は飛鳥時代に突入していました。

その時の日本は大和政権の勢力がまだ日本全土に行き届いておらず、国民や領地の支配は全国各地に点在する有力豪族が治め、その上に代表者として天皇陛下が位置するという形式だけの統治でした。

 

そして、数ある豪族の中で最初に大きな権力を手にしていたのが物部氏です。

物部氏は代々神道を基盤とする神官の役割を担っており、冠婚葬祭を執り仕切る豪族でした。

豪族No2だった蘇我氏は仏教が日本へ伝来したことをよいことに仏教を持ち出して物部氏に対抗するようになりました。

 

仏教伝来は仏教派と神道派が対立する事件の発端となった

日本へ仏教が伝来すると神道を基盤として勢力を伸ばしてきた物部氏は危機感を感じました。

そして一方の蘇我氏は仏教の伝来はこれ幸いというように仏教を保護して物部氏に対抗するようになります。

 

仏教の伝来は日本最古の宗教である神道を守ろうとする物部氏を代表とした神道派と、新しい学問として仏教を取り入れようとする蘇我氏を代表とした仏教派が対立する事件を引き起こす発端となったのです。

 

仏教派と神道派、宗教対立のはじまり

 

宣化天皇(せんかてんのう)のあとは弟の欽明天皇(きんめいてんのう)が皇位を継承しました。

欽明天皇(きんめいてんのう)が即位してから10年たったとき、百済(くだら:現代でいう北朝鮮)の聖明王(せいめいおう)が使者を遣わしてお釈迦様の仏像1体と幡蓋若干(はたきぬがさ)、経論若干巻(きょうろんがさかん)という経典を贈呈しました。

仏法の功徳について聞かされるや、天皇は大いに喜んだのですが一人で決めるわけにもいかず、仏法を受け入れるべきかどうか、朝議(朝廷の会議)で臣下たちに相談しました。

 

これに対し、蘇我氏の始祖となる仏教派の蘇我稲目(そがのいなめ)はこのように言いました。

「西の諸国はみな仏教を崇拝しています。日本だけがそれに背くべきではありません」と。

 

それに対し、神道派だった物部大連尾輿(ものべのおおむらじおこし)中臣鎌子連(なかとみのかまこむらじ:中臣鎌足の祖先)はこのように反対します。

「我等が帝(みかど)は常に天地社稷(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそがみ)を、春夏秋冬にお祀りなさることが仕事です。いま邪教の神を拝むことになれば、おそらく八百万の神からお怒りを受けることとなりましょう」と。

 

そこで天皇は秘密裏にしばらく蘇我稲目(そがのいなめ)に仏具を授けて試験的に礼拝させてみることにしました。

すると、なんとその時期に国に疫病が広まり、多くの民が死んでいったのです。

物部大連尾輿(ものべのおおむらじおこし)と中臣鎌子連(なかとみのかまこむらじ)は「ほれ、見たことか」と言わんばかりにこれらの災厄は仏教のせいだとして天皇の許可を得たうえで仏像を難波(なにわ:大阪)の堀江に捨てて、寺に放火をしたとされています。

 

仏教派と神道派の対立が皇位継承争いの事件につながった

 

欽明天皇(きんめいてんのう)の後は、その子の敏達天皇(びたつてんのう)が、そして敏達天皇の後はその弟の用明天皇(ようめいてんのう)が皇位を継承しました。

 

用明天皇は聖徳太子の父親で、仏教派の天皇でした。

「いつか仏教の寺を建立したい」という志を果たせぬまま在位わずか2年でこの世を去ってしまいます。

聖徳太子はそんな父の望みを叶えるべく自身も仏教派となって蘇我氏と協力しながら政治を行っていくのです。

 

用明天皇の死後、物部守屋(ものべのもりや:物部大連尾輿の子)が、欽明天皇の皇子である穴穂部皇子(あなほべのみこ)を天皇に擁立しようとしました。

これに対し蘇我馬子(そがのうまこ:蘇我稲目の子)は阻止しようと、物部守屋(ものべのもりや)を滅ぼそうとします。

皇位継承争いの事件では、またもや仏教派と神道派の2大勢力に皇子と群臣が分かれて対立し、激しい争いとなりました。

 

当初この事件では蘇我氏が代表する仏教派が押され気味でした。

そこで、危機を感じた聖徳太子は釈迦如来に仕える四天王に祈りを捧げます。

そうすると、物部守屋(ものべのもりや)を代表とする神道派の軍勢が崩れて、穴穂部皇子(あなほべのみこ)と物部守屋(ものべのもりや)は首を討たれ、物部氏は滅亡したとされています。

 

仏教派の蘇我氏は天皇暗殺事件を引き起こす

 

仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏との対立した事件が収束すると、蘇我氏が天皇配下の豪族の頂点に台頭しました。

聖徳太子を味方につけ、天皇に自分の娘を次々と結婚させて天皇とのつながりを強固にしていった蘇我馬子(そがのうまこ)は強大な権威を持つようになります。

 

欽明天皇の後を継いだ崇峻天皇(すしゅんてんのう)は蘇我馬子の娘ではない后が生んだ子でした。

自分の娘が生んだ子は在位わずか2年で他界した用明天皇です。

自分の意見を政治に反映させるのに崇峻天皇を邪魔だと感じた蘇我馬子は下手人を遣わして崇峻天皇を暗殺し、自分の姪にあたる日本史上初の女帝である推古天皇(すいこてんのう)を擁立するのです。

天皇系図
(29)欽明天皇(父)→(30)敏達天皇(息子)→(31)用明天皇(息子)→(32)崇峻天皇(息子)→(33)推古天皇(娘)

 

まとめ

 

仏教が日本に伝来したとき、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏が対立した事件や仏教によって権勢を伸ばした蘇我氏による天皇暗殺事件が起きました。

仏教の伝来は権力争いと宗教対立が同時に起こり、皇子同士の皇位継承争いの事件などを引き起こす発端となりました。

戦国時代にキリスト教が日本に入ってきたときよりも仏教が伝来したときは平和にいかなかったということです。










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