江戸幕府が定めた武士の法律『武家諸法度』制定した人物やその内容は?







一般的に『武家諸法度(ぶけしょはっと)』は江戸幕府が定めた武士の法律という認識であり、テストに名前が出てきてもその内容についてはあまり知られていません。

 

『武家諸法度』がなぜ日本史の教科書に載っているのかと言うと、江戸時代までの武士たちは鎌倉幕府の定めた御成敗式目(ごせいばいしきもく)によって約500年縛られていたのを、時代の遷移に合わせて『武家諸法度』へと法律を一新したからです。

 

本記事ではそんな江戸時代に制定された武士の法律『武家諸法度』について、定めた人物、そしてその内容について解説しています。

 

武家諸法度を定めた人物は江戸幕府2代将軍『徳川秀忠』

徳川秀忠

 

武家諸法度を定めたのは江戸幕府2代目将軍、徳川秀忠(とくがわひでただ)です。

 

戦国時代をあの織田信長(おだのぶなが)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)とともに渡り歩き、江戸幕府を開いた偉大な父徳川家康(とくがわいえやす)

そして、「余は生まれながらの将軍である」の宣誓で有名な名将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)という息子

両名の影に隠れてあまりパッとしない印象の2代将軍徳川秀忠

 

参勤交代を定めたことで武家諸法度を発布したのは徳川家光だとよく勘違いされますが、武家諸法度を発布したのはこちらの徳川秀忠です。

 

『武家諸法度』ができるまでの武士の法律は『御成敗式目』

 

武家諸法度ができる以前までは、武士を縛る法律は鎌倉幕府が定めた御成敗式目(ごせいばいしきもく)でした。

御成敗式目は発布されてから約500年間使われ続けた武士の法律でしたが、君主のために命を懸けて働く御恩と奉公の関係から成り立つその法律は乱世を経て平和な世を手にした江戸幕府の世情にまったくマッチしていませんでした。

 

簡単に言うと義理人情で回っていた社会が実力主義、資本主義な社会へと変わってしまい、いままで通用していたルールが機能しなくなってしまったのです。

鎌倉時代に制定された御成敗式目(貞永式目)の内容と制定された経緯

 

しかし、武士道は源頼朝(みなもとのよりとも)らの精神(ヤクザ者、荒くれ者の精神)が基盤となっています。

徳川秀忠はヤクザ者のような武士を束ねるための従来の法律である御成敗式目から、サラリーマン武士たちを束ねるための新しい法律を作る必要があると考えました。

 

また、情状酌量によって同じ罪を犯しても処遇がバラバラならば、武士同士でトラブルが発生するということも予知していました。

そこで、恩賞必罰の基準となる明確かつ普遍的な法律のもと、厳しく取り締まらなければ統治が難しいということも加味したうえで江戸幕府に仕える武士たちをまとめるための法律である武家諸法度を制定したのです。

 

武家諸法度の内容

 

徳川秀忠が発布した武家諸法度は当初その時の元号を用いて「元和令(げんなれい)」として公表しました。

元和令は徳川秀忠が大坂夏の陣で大阪城が落城してからわずか2カ月後に出した法令で、大名の行動を取り締まり、かつ謀反を起こさせないことを目的として作られました。

この法令は13条からなり、臨済宗の僧侶である金地院崇伝(こんちいんすうえん)が作成にあたりました。

 

元和令は武士にとって大変厳しいもので、もしこれを違反すると厳しい処罰が待っていました。

さて、それでは当初発布された武家諸法度の13条の内容を以下に示しましょう。

 

武家諸法度13条の内容

(1)諸大名は学問と武芸を磨かなければならない

(2)大勢で酒を飲んだり遊んではいけない

(3)法令に違反した者を匿ってはいけない

(4)自国に謀反人や殺人犯が現れたら国から追放せよ

(5)領地内に他国の者を居住させてはいけない

(6)城を修繕する際は必ず幕府に届け出ること、また新築は固く禁ずる

(7)隣国でなにか妙な動きがあれば幕府に報告すること

(8)諸大名は幕府の許可なく結婚や婚約をしてはいけない

(9)参勤交代の際定数以上の家臣を連れて来てはならない

(10)服装や装飾品は身分相応にすること

(11)身分の低い者は勝手に駕籠に搭乗してはいけない

(12)武士は倹約に努めること

(13)諸大名は有能な人材を採用して善政を行わなければならない

 

以上13条、うち(9)は徳川家光によって加筆修正されたものです。

 

武家諸法度は何度か改正されている

徳川家光

 

江戸幕府の将軍は軍隊を統率する指揮官というよりも現在の内閣総理大臣のように国の政治家の頂点に君臨し国の首相としての役割が大きいです。

首相は世情に合わせて政治の方針や罪と罰を定義し、それに見合った法律を新設したり修正する権利と義務があります。

江戸時代には経済的な改革や庶民の反乱などが度々起きました。

その際には武家諸法度も改正されています。

 

まずはじめに改正されたのは武家諸法度を制定した徳川秀忠の息子、徳川家光の時代です。

この時に諸藩の大名と家臣は年に一度領地と江戸を往復する参勤交代が定められました。

 

次に4代将軍の徳川家綱(とくがわいえつな)の在任期、生類憐みの令をメインとして発布した5代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の在任期、新小判製造をした徳川家宣(とくがわいえのぶ)の在任期、享保の改革を行った徳川吉宗(とくがわよしむね)の在任期と、武家諸法度は合計5回に渡って改正されています。

 

「〇〇はご法度」は武家諸法度が語源

 

よくルール違反することや禁止事項を無視することを戒めるために「〇〇するのはご法度だぞ」という言い方をしますが、ご法度の法度が何を指しているのかというと武家諸法度が語源となっています。

 

武家諸法度は武士にとって絶対的な法律であるとともに、違反したものは厳罰に処されました。

罰金がいくらとか、10年単位の禁固刑というような生易しいものではありません。

 

例えば、豊臣秀吉恩顧の武将として戦国時代を生き抜いた福島正則(ふくしままさのり)は大地震の後城の改修工事を勝手に行った(実際には幕府に報告済だったが将軍が知らなかっただけ)として安芸広島藩49万石から高井野藩5万石へと減封されました。

また、江戸城で刃傷沙汰を起こし当時の大御所吉良上野介(きらこうずけのすけ)に怪我を負わせた赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は即日切腹、赤穂藩は御家取り潰し(武士としての地位、屋敷、役割などのすべてを剥奪すること)となり多くの武士が路頭に迷いました。

 

まとめ

 

武家諸法度を発令した人物は2代将軍の徳川秀忠です。

 

武家諸法度が制定される前の武士の法律は御成敗式目でしたが、君主のために命を懸けて働く御恩と奉公の関係から成り立つその法律は、すでに平和な時代に突入していた江戸時代の世情にまったくマッチしていませんでした。

その為、時代に合わせた武士の法律を制定し直す必要があったのです。

 

そして、武家諸法度が作られた目的は諸藩の大名の行動を取り締まり、江戸幕府に対しての謀反を未然に防ぐことでした。

また、歴代の江戸幕府将軍が度々武家諸法度を改正して整備していったことが約300年間幕府の基本的な法律として機能し続けた要因でしょう。










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