戦国大名たちが心を落ち着かせて休まるときなどありません。
他国への侵攻、侵略からの防衛に成功しても、家臣からの謀反や自らが治める領民たちの一揆があったり、貿易や行政など悩みがつきることはありません。
そこで部下の統制をとり、領地支配の体制を整えることは必要不可欠でした。
その為に整備されたのが分国法という、戦国大名が独自に考えた法律です。
今回はそんな分国法について解説していきます。
戦国大名たちが悩んだ末に思いついた分国法
戦国大名たちが心を落ち着かせて休むことのできる日はありません。
領土拡大のための他国への侵攻。隣国から受ける侵略行為からの防衛。
それが済んだかと思えば部下からの謀反や行政に不満を抱いた領民たちからの一揆など悩みの種は尽きることがありません。
そこで戦国大名たちは分国法を定めることで部下の統制をとり、領地支配の体制をしっかりと整えようとしました。
分国法とは各国で独自に定められた法律のことで、その土地柄に適しています。
今でいう各県が制定する条例のようなもので、天皇陛下が公布するものではなく戦国大名が自国のルールとして定めたものです。
その分国法には、大名の権限を明記するものや領民たちの租税に関するもの、武士の在り方などさまざまです。
代表的な分国法をご紹介
まずは代表的な分国法をご紹介します。
聞いたことがあるものがあるかもしれません。
国:陸奥(むつ)
分国法:塵芥集(じんかいしゅう)
戦国大名:伊達稙宗
特徴:分国法の中で最大の規模で171条ある。
国:駿河(するが)
分国法:今川仮名目録(いまがわかなもくろく)
戦国大名:今川氏親・義元
特徴:東国では最古。訴訟や土地の取り決めに関する法律が多い。
国:甲斐(かい)
分国法:甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)
戦国大名:武田信玄
特徴:代表例は喧嘩両成敗法。
国:越前(えちぜん)
分国法:朝倉景高条々(あさくらたかかげじょうじょう)
戦国大名:朝倉景高
特徴:家訓の色が強い。
国:近江(おうみ)
分国法:六角氏式目(ろっかくししきもく)
戦国大名:六角義賢・義治
特徴:他国のものとは異なり、大名の権限を制限する法律。
国:土佐(とさ)
分国法:長曾我部元親百箇条(ちょうそかべもとちかひゃっかじょう)
戦国大名:長曾我部元親
特徴:喧嘩やばくちの禁止令や相撲見物の禁止。武士としての道を心がけることを法律内に盛り込まれている。
これらの分国法は有名なものですが、史料としては消失してしまいどんな法律だったのか確認できないものもあります。
ひとりの大名が制定して伝統的に引き継がれた法律もあれば、今川氏や六角氏のように父や祖父が考えたものを時代に合わせたように改変や追加を行って完成させた法律もあります。
そんなのわざわざ法律にしなくても…他愛のない分国法
分国法は天皇陛下と朝廷の大臣たちがしっかりと話し合って制定した法律ではなく、戦国大名たちが勝手に自国を取り締まるために定めた法律であることは先に記しました。
分国法はなかなかうまくできた法律ですが、わざわざそんなこと法律として明文化しなくてもよいのでは?と思ってしまうことも明記しています。
次の見出しからはそのような実に他愛もない法律です。
食事の手順を法律に 今川仮名目録(制定者:今川義元)
今川氏親と義元の親子二代で完成させた今川仮名目録には武士の食事の手順に関する記述があります。
その法律とは「食事の際、いちばん最初にごはんの頂上部から箸をつけること」。
なぜ頂上部から食べなければいけないのか、その理由はいまだ謎のままです。
今川義元は母親が公家の出身者だったので、部下の行動や言動にも雅さを求めました。
そのため、勝手な推測ですがごはんの頂上部から箸をつけることが一番上品な食べ方だと義元が考えたからではないかと思います。
喧嘩したものはどちらも厳罰に処す 喧嘩両成敗法(制定者:武田信玄)
武田信玄は生涯を通して家臣たちが働きやすい環境を整えようと考えた戦国大名でした。
武田信玄は晴信と名乗っていたころ、父親の信虎を追放し、兄と家督争いをした経験があります。
そんなとき武田家の家臣は晴信派と兄派の派閥に分かれたのですが、結果として武田晴信(後の信玄)に軍配が上がりました。
兄の派閥に行った家臣たちは己も一緒に自害しようとしたり、隠居や辞職を申し出る家臣もいました。
武田信玄は有能な人材を失うことは自分にとってマイナスであるということを心得ていたので、兄派についた家臣たちを罰することなく、何事もなかったかのように職場復帰させました。
すると今度はもともと晴信派だった家臣たちが不満を募らせるようになります。
それに危機感を覚えた武田信玄はその家臣たちを要職に就けたり、権限を与えることで回避しました。
次にクリアするべきは家臣たちの人間関係です。
そして考案されたのが「喧嘩両成敗法」です。
「喧嘩をしたものはどどちらが悪いのかその程度を問わず、両方を厳罰に処す」。
簡単に言うと「どちらが悪いのかは関係なく、喧嘩をしたものはどちらも罰しますよ」という法律を作りました。
武具に氏名を書いて大切に管理しなさい 長曾我部元親百箇条(制定者:長曾我部元親)
戦国武将たちは武具を大切にしているようなイメージがありますが、意外にもその管理はずさんだったらしいです。
長曾我部元親家中の実情は、侵攻や侵略、一揆の鎮圧などで準備や後片付けをする暇もなく戦闘に赴かなければいけなかった家臣たちは武具を散らかして政務に戻ったり、バタバタしている混乱の最中、近くにあった誰のものかもわからない武具を「これでいいや」という感覚で勝手に奪ってしまうようなこともしばしばあったそうです。
その様子を快く思わなかった長曾我部元親は分国法に「武具に氏名を書いて大切に管理しなさい」という法律を追加しました。
そしてその条に続く文言には、どれだけ怒っていたのか心中を察することのできる言葉が続きます。
次に示すのはその法律を口語訳したものです。
「己の武器、具足に氏名を注記し大切に保管すること。もしこれしきも怠るような者がいれば、私はその者を軽蔑し、ことあるごとにその名とずさんな管理方法を人前に晒して立ち直ることのできないほどの恥辱を与えてやる」
長曾我部元親の定めたこの法律は効果覿面で、制定された以降武具を紛失する者や盗った盗られたで喧嘩をする家臣がすっかりいなくなりました。
まとめ
戦国大名たちが定めた分国法は部下や領民の無駄な衝突や不満を未然に防ぐとともに、自分がどのように統制するかの方針を示す役割も担っていました。
喧嘩両成敗法や食事の手順を示すものなどくだらないと思われる法律もありますが、当時は戦国大名たちを悩ませるリアルな課題だったのです。
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