武士の鏡 赤穂浪士が吉良上野介を討った忠臣蔵赤穂事件の一部始終とは







西暦1702年12月14日、時は犬公方と呼ばれた徳川綱吉(とくがわつなよし)が将軍を務めていた頃に忠臣蔵赤穂事件(ちゅうしんぐらあこうじけん)は起こりました。

忠臣蔵赤穂事件は大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を始めとする元赤穂藩士たちによって吉良上野介(きらこうずけのすけ)が闇討ちされた事件ですが、その一部始終を知れば、ただのテロ事件の一言では片づけられない主君と家臣との間にある強い絆を見ることができます。

 

本記事では、そんな忠臣蔵赤穂事件の一部始終を解説いたします。

 

忠臣蔵赤穂事件の動機となった松の廊下事件

忠臣蔵赤穂事件が起きる前年の西暦1701年に江戸城内の松の廊下にて、とある事件が起きます。

ある日、高家筆頭の吉良上野介が松の廊下を歩いていると、赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が「この間の遺恨覚えたるか!」と叫んで突然吉良上野介に斬りかかり、刃傷沙汰を起こしました。

吉良上野介はこの時、額と背中を斬られ一時重体となりましたが、なんとか一命を取り留めます。

 

事件を起こした浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は即日切腹

時の将軍徳川綱吉は命を大切にせよという生類憐みの令を24年に渡って出し続けた将軍です。

徳川綱吉は「殿中で刀を抜くとは言語道断」と大激怒し事件を起こした浅野内匠頭即日切腹、赤穂藩は御家取り潰しとなり赤穂藩士たちは路頭に迷う羽目になりました。

 

一方の吉良上野介(きらこうずけのすけ)はというとなんのお咎めもなし

喧嘩両成敗が当たり前だったこの時代、一方の吉良上野介はなんのお咎めもなしでした。

この松の廊下事件の後処理は不平等この上ないものだったのでした。

 

赤穂藩の家老、大石内蔵助はかたき討ちを計画

そして赤穂藩の筆頭家老だった大石内蔵助は、「主君の恨み晴らしてくれようぞ」と47人の元赤穂藩士とともに主君の仇討ちを一年かけて計画します。

 

このような経緯で忠臣蔵赤穂事件は始まっていくのですが、なぜ赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は高家筆頭の吉良上野介に突然切りかかったりしたのでしょうか。

まずは浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介に突然切りかかった理由から説明します。

 

忠臣蔵赤穂事件で討たれた吉良上野介と松の廊下事件を起こした浅野内匠頭

浅野内匠頭

 

吉良上野介という人物は高家筆頭で朝廷との連絡や将軍家の儀式を執り行う役職のトップで今川氏や織田氏など室町時代からの名門でなければ就くことのできない役職でした。

その高家たちの指導のもと儀式の会場設営やお供え物の仕入れなどを担当していたのが赤穂藩士の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)

 

わかりやすく例えると吉良上野介は元請けの大企業の会長で浅野内匠頭は下請け会社の中小企業の社長のようなもの。

浅野内匠頭が現場を直接指揮し、吉良上野介がその監督をするという立場でした。

 

吉良上野介は儀式の「ぎ」の字も知らないような藩主たちを指導する方だったので、その授業料として袖の下(賄賂)を要求します。

高家の指導を受けていた藩主たちは大金や地元の特産品を持参して「これでどうかご指導をよろしくお願いします」と頭を垂れに行くのですが、赤穂藩主浅野内匠頭は鰹節をたった2本持参したばかりでほんの気持ち程度の献上をしました。

すると吉良上野介はそのことを根に持って、わざと嘘を教えたり、現場に来ては難癖をつけて浅野内匠頭をいじめたりしました。

 

浅野内匠頭は日頃から過度のストレスがたたって突然激怒したり、ハイテンションになって騒いだりと狂乱してしまう持病がありました(統合失調症と思われます)。

それに吉良上野介のいじめや吉良上野介が嘘を教えたことによって恥をかくといったことも重なり松の廊下事件を起こしたのです。

いわゆる吉良上野介の日頃の行いにつけが回ってきたということです。

 

用意周到な赤穂浪士による『吉良上野介』暗殺計画

大石内蔵助

 

赤穂藩元藩士の筆頭家老である大石内蔵助をはじめとする47名は主君の仇討ちのために用意周到な吉良上野介暗殺計画を立てます。

御家取り潰しによって赤穂浪士となった47名は一年間かけてスパイや密偵を放ち、吉良上野介を討ち入る計画を練りました。

 

さらに大石内蔵助は夜な夜な遊郭に通ってポンコツな家老を演じ、昼行燈(昼間に灯る行灯のようなボヤ―っとしている仕えない奴の意)のあだ名をつけられるほどの自作自演をして吉良側からは舐められる立場に徹しました。

 

吉良上野介は松の廊下事件以降、仇討ちを避けるべく江戸には常駐せずに方々で仕事をし、時には養子に出した米沢藩の世話になることもありました。

つまり赤穂浪士からすればいつ吉良邸に闇討ちをすればよいのかわからない状態でした。

しかし、そのときあらかじめ放っておいたスパイがよい働きをします。

 

吉良上野介の趣味であった茶道を通じて吉良上野介に近づいた者が12月14日に年忘れのお茶会を催すので、その日は江戸の吉良邸に宿泊するという重要な情報を掴みます。

そして忠臣蔵赤穂事件の決行は12月14日の夜となったのです。

闇討ち当日にはダンダラ模様の火消装束を全員着用して夜中集団で歩いていても怪しまれない恰好をして吉良邸に侵入しました。

 

忠臣蔵赤穂事件当日、赤穂浪士47名VS吉良上野介以下100余名の戦い

大石内蔵助率いる赤穂浪士の47名は皆赤穂藩を代表する剣豪ばかりで結成されていました。

対する吉良上野介の配下も常に江戸の吉良邸に常駐させた剣豪は100名以上でその中には二刀流でこの者の右に出るものはいないと言われた清水一学(しみずいちがく)などもいました。

赤穂浪士はあらかじめスパイとして放っていた密偵を中心に大工を本業とする者を10名吉良邸に侵入させておきました。

そして作戦決行当日、吉良上野介の配下が寝静まったころ、常駐していた藩士や剣豪の眠る居室の戸に釘を打ち付けて出られないような工作をします。

 

一方大石内蔵助らは吉良邸の北門と南門から侵入し、物理的な足止め作戦の甲斐もあり吉良側の6割を閉じこめることに成功し、実際に戦闘したのは赤穂浪士20名と吉良側40名。

そのうち赤穂浪士の死傷者は0で、吉良側は19名が死傷し戦闘不能1時間足らずで吉良邸を赤穂浪士が制圧しました。

しかし、当の仇吉良上野介がなかなか見つかりません。

 

赤穂浪士はついに『吉良上野介』を討つ

吉良邸をわずか1時間足らずで制圧した後、赤穂浪士は総出で主君の仇、吉良上野介を探します。

赤穂浪士からすると吉良上野介の首をとるまでこの闇討ちは終わらせることができません。

 

制圧から1時間かけて邸宅内を捜索したところ、なにやら炭小屋から人の気配が感じられました。

赤穂浪士が炭小屋の前まで到着するとその中から清水一学と吉良の家臣が飛び出してきました。

 

赤穂浪士との戦闘の末、清水一学は斬られて死亡、その後炭小屋から脇差を振り上げて出てきた者を入り口近くにいた赤穂浪士の間宮氏が槍で背中を刺したところその者こそが吉良上野介だったことが判明しました。

深手を負わせた赤穂浪士はすぐに大石内蔵助に報告。

大石内蔵助は息も絶え絶えであった吉良上野介の首を自らの手で斬り落とし見事主君の仇討ちに成功します。

 

忠臣蔵赤穂浪士事件のその後

 

吉良上野介の首を討ち取った赤穂浪士たちは寝ることもなくそのまま主君、浅野内匠頭が眠る江戸の泉岳寺へと吉良上野介の首を持参して参拝しました。

 

時の将軍徳川綱吉はこのことを聞きつけて赤穂浪士たちの忠義の心に感銘を受けます。

そして天下の法武家諸法度を重んじるべきか、武士道精神を重んじるべきか頭を悩ませた結果、法を曲げるわけにはいかないということで徳川綱吉は赤穂浪士たちに切腹を言い渡します。

 

しかし、あくまでも罪人としての切腹ではなく武家諸法度を違反した武士としての切腹としてその体裁を守らせました。

結果として処分の対象としたのですが、彼らの忠義心に免じてその立場を守ったのです。

 

赤穂浪士たちは武士の鏡?江戸の人々のヒーローに

 

切腹させられた赤穂浪士47名の仇討ちは戦争のない世の中となった江戸の人々を感動させました。

「この時代に主君がため危険を犯すとは…彼らこそ武士の鏡だ」これは時の将軍徳川綱吉が残した言葉です。

江戸の人々も徳川綱吉の感性に違わず赤穂浪士たちをヒーローとして見ます。

そして忠臣蔵赤穂事件を起こした赤穂浪士たちを悲劇のヒーローとして歌舞伎や人形浄瑠璃の演目とし、後世に「武士とは偉いものだ商人とは違うんだ」ということを代弁するエンターテイナーとして現在までその名と事件を伝えることとなります。

 

まとめ

 

忠臣蔵赤穂事件は松の廊下事件によって御家取り潰しとなった赤穂浪士たちによって高家筆頭の吉良上野介が殺害された事件です。

松の廊下事件も忠臣蔵赤穂事件もみな吉良上野介の日頃の悪行が祟った事件ですが、形式上それを起こした赤穂浪士47名はすべて切腹を言い渡され命を落とすこととなります。

 

赤穂浪士47名は吉良上野介を討ったことにより主君浅野内匠頭への忠義を尽くして自分たちの役目は終わったと納得して切腹しました。

その後、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士たちは武士の鏡、人々のヒーローとして現在までその名と偉業を残しています。










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