今からさかのぼること約150年前。
西暦1853年にアメリカ海軍の提督ペリーは黒船に乗って日本へ来航しました。
日本史の教科書では必ず掲載されるペリー(黒船)来航ですが、「開国」、「ペリー」、「黒船」、「日米和親条約」などと覚えるべきキーワードがたくさんあって具体的にペリーが何のために日本へ来航して日本で何をしたのかを認知している方は少ないと思います。
本記事ではペリーが日本に来航した「目的」と「実際に何をしたのか?」について解説します。
ペリー(黒船)が日本に渡った目的

ペリーの出身国アメリカは当時世界一の捕鯨大国でした。
アメリカは鯨の肉を食べるだけでなく、ランプの燃料として鯨の油を使っていたので鯨は生活に欠かせない動物でした。
ところが、長年鯨を乱獲したためにアメリカが主に漁をしていた大西洋では鯨があまり獲れなくなりました。そこで困ったアメリカは太平洋に進出することを決定し、目を付けたのが太平洋に浮かぶ島国の日本だったのです。
つまり、アメリカは捕鯨船の水や食料、燃料の補給と遭難船の救助のための拠点を日本に置きたいと考えたのです。
ところが、ペリー(黒船)が日本へ来航した頃、日本は江戸幕府3代将軍の治世から続く鎖国の体制をとっていました。
鎖国とは中国、朝鮮、オランダを除き外国と交易をしないようにした貿易体制です。
そのためアメリカは日本に鎖国を解かせ、開国させるためにペリーを代表として当時アメリカの最先端技術を駆使した黒船で日本を威圧したのでした。
ペリー(黒船)は日本に2度来ていた

ペリー(黒船)来航は1度きりかと思いきや実際は西暦1853年6月とその翌年の3月の計2回ありました。
一度目の来航では、ペリーを乗せた黒船はアメリカを出発し、北アフリカ→南アフリカ→インド→東南アジア→中国→朝鮮を経由して日本へ到着しました。
その期間なんと7カ月という大航海でした。
長期間航海をした理由はペリーが未知の航路であったためです。
2度目はしっかりと航路を把握したので真っ直ぐ日本へ渡航してこれました。
1度目の来航でペリーが行ったこと
1度目の来航でペリーはかなり強気な態度で日本に3つの要求をします。
以下にペリーが日本へ要求した3点を示します。
【ペリーの要求】
(1)遭難船の救助を日本が行うこと
(2)アメリカの船に水・食料・燃料の補給すること
(3)長崎の出島以外の港の開港
特に3つ目の要求事項は当時鎖国中だった日本を困らせます。
さらにペリーは日本に対し「この要求をのめないと言うのなら、アメリカは日本と戦争するぞ!!」と脅しました。
このような外交のことを恫喝外交(どうかつがいこう)と言います。
ペリーはアメリカ海軍の名門の出身でいわゆるエリート軍人でした。
対して日本側から交渉を行ったのは現代の内閣総理大臣のような役職である老中首座の阿部正弘(あべまさひろ)です。
阿部正弘は若干26歳で老中のひとりに選抜され28歳でその筆頭となったエリート官僚でした。
このようにペリーが最初来航したときはアメリカのエリート軍人ペリー対日本のエリート官僚阿部正弘の交渉が行われました。
日本側では阿部正弘が独断で開国するか鎖国を続けるか決断することができなかったので、江戸幕府将軍の名のもとに諸大名が江戸城に緊急召集されました。
諸大名たちの話がなかなかまとまらないのでペリーは回答を待ちきれず、アメリカ大統領からの国書を江戸幕府に送付し「一年後にまた来航する」と言ってアメリカに帰国してしまいました。
1年後と言っていたのに半年あまりでペリーは再び来航
日本はペリーらアメリカに対抗するため1年間かけてアメリカと抗戦する体制を整えようとしました。
オランダから軍艦を購入したり、現在フジテレビの本社があるお台場に対軍艦用の大砲を設置するための台場を急ピッチで建設していました。
ちなみにお台場という地名はこのときに作られた台場から来ています。
しかし「一年後また来航する」と言っていたペリーがわずか半年あまりで再び日本に来航ししたので、江戸幕府はびっくり仰天します。
2度目の来航ではペリーによる接待大作戦が!?

どうしても日本を開国させたいペリーは当初強気で傲慢だった態度を改め、威圧だけではうまくいかないだろうと考えていました。
そこでぺリーが考えた作戦が接待大作戦です。
ペリーは実際に「条約を締結させる秘訣は接待にかかっている」と言っています。
さて、それではペリーがどんな接待を行ったのかをご紹介していきましょう。
【オリジナル名刺の配布】
ペリーは阿部正弘をはじめとする日本の役人に名刺を配布しました。
その名刺にはペリーの役職と名前が漢字の当て字で書かれており、日本の役人たちの気を引きました。
【1/4スケールの蒸気機関車の体験搭乗】
次にペリーは円形にレールを組み、アメリカから持ち込んだ1/4スケールの蒸気機関車(遊園地や動物園にあるようなサイズのもの)に日本の役人たちを載せました。
当時日本ではオランダから蒸気機関車のことを聞き及んでいたのですが、実際に見たのはこれが初めてで、馬や牛が引かない蒸気機関車に大喜びしました。
【銅板製ボートで驚かせる】
次にペリーは銅板製のボートを贈り、海に浮かべて見せました。
当時の日本の船は木製しかなく、日本の役人たちは「どうしてこんなに重いのに水に浮くのだろう」と驚きました。
【モールス信号通信機の実演】
ペリーはアメリカからモールス信号とその通信機を発明したモールスを日本に連れて来ていました。
モールス信号は現在でも猟師や軍隊に使われている信号音の長さによって情報を伝達するものです。
しかし、当時の日本の役人は電気そのものがまったくわからず「電気?なにそれ?目に見えないから信じない」と理解不能でした。
ペリーがモールスに指示してモールス信号の実演を行わせたとき、中国語、オランダ語の3つをすべて情報伝達することができたので日本の役人はただただ驚くばかりでした。
【プレゼント攻撃】
ペリーは個人的なプレゼントについても抜け目がありませんでした。
まず老中首座の阿部正弘にはコルト社製のリボルバー式拳銃を贈ります。
阿部正弘は連発できるリボルバー拳銃にとても感動しました。
なにせ当時の日本では連発できるのはガトリング砲と呼ばれる大型機関銃しかなく、小銃や拳銃はすべて単発銃でした。
ついで阿部正弘の正妻には西洋の香水と石鹸をプレゼント。
さらにときの将軍の正室だった宮崎あおいさんが演じたことで有名な篤姫(あつひめ)には大型の姿見を贈りました。
ペリーの接待大作戦の極めつけは宴会
接待の極めつけはなんと言っても宴会でしょう。
それは今も昔も変わりません。
ペリーは船上に日本の役人を招き、大宴会でさらに日本の役人を驚かせます。
ペリーが宴会の席に用意したのは当時の日本にはないご馳走でした。
【ウイスキーとブランデー】
当時の日本にあるお酒は米から生成される清酒や麦や芋、キビなどから生成できる焼酎です。
清酒はアルコール度数が10~15%前後、焼酎は20~25度程度しかありません。
ペリーの用意したウイスキーとブランデーはアルコール度数が40度なので日本の役人たちはこれらに驚きました。
あまりに強かったので日本の役人たちはウイスキーとブランデーに砂糖を大量に入れ、味をごまかしながら飲みました。
【パンとバター】
日本にも小麦から作られる食べ物がありましたがパンのようなふわふわな食感をしたものはありませんでした。
パンについてはすぐに食べ物だと分かったようなのですが、バターについては日本の役人たちはどのようなものなのか全くわかりませんでした。
余談ですが、誰かが鬢付け油(力士や武士が髷を結うときに使う整髪料)だと言い出したため、日本の役人たちはバターを髪に塗ったという笑い話が残されています。
【ケーキ】
ペリーは小さなホールケーキにひとつひとつ旗を刺しました。
お子様ランチのチキンライスに刺さっている小さい旗のイメージです。
その旗にはなんと日本の役人たちそれぞれの家紋が描かれていたのです。
なんとペリーは事前に日本の役人ひとりひとりの家紋を調べていたのでした。
これに対して役人たちはみな感激しました。
ペリーは日本の開国と日本との条約の締結に成功

以上のような接待を受けた日本はアメリカとの文明の差を実感せずにはいられませんでした。
兵器も技術も開いた口が塞がらなくなるほど最先端をゆくアメリカと戦うことはできないと日本は判断し、開国へと考えを転換させます。
西暦1854年3月3日、ペリーはアメリカと日本との初の条約である日米和親条約の締結を成功させ、日本は200年以上続いた鎖国を解いて開国に踏み切りました。
まとめ
ペリー(黒船)が日本に来航した目的は太平洋で捕鯨をするために日本を開国させることでした。
ペリーは一度目の日本来航では3つの要求を強気な態度で示しましたが、2度目の来航では手の平を返したように接待大作戦を行いました。
ペリーによる接待大作戦で日本はアメリカとの文明の格差を見せつけられ、日米和親条約の締結と開国を受け入れます。
もし、ペリーが強気の姿勢を保ったままであったら日本は条約と開国を受け入れられず、アメリカと戦って滅亡していたかも知れません。
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