戦国大名が武将に贈った恩賞とは?戦による恩賞とは何だったのか?







戦国武将は戦で活躍することにより、自身が仕える主君から領土や金銭、武具などを下賜(かし:物を与えられること)されました。

当時の俸給は金銭ではなく、お米や所轄の土地などが与えられることが一般的で、武士たちは所轄する土地を守りつつ、その領土を拡大すること、そして毎年支給される俸禄以外の臨時収入として恩賞を求めました。

 

今回の記事では、戦国武将が主君から与えられた恩賞について解説していきます。

 

戦功がある武将に贈られた恩賞とは

 

恩賞とは、合戦において武将のあげた戦功に対し主君が与えたご褒美のことです。

その種類には、領地や禄と呼ばれる給料と刀や槍などの武具がありますが、武将が最も欲しがったのは領地の加増でした。

戦国大名は家臣たちからの忠誠心を確保するために、合戦に勝利して領土を拡大することは必須条件でした。

また、戦功のあった家臣に感状と言われる戦国大名からの感謝の言葉が書かれた書状が贈られました。

 

もちろん金銀や銭も戦の恩賞に使用されました。

豊臣秀吉は天正小判を発行し、恩賞として伊達政宗や福島正則などの武将に与えました。

また、織田信長は恩賞のひとつとして茶道を政治的に利用し、名品と称された高価な茶道具を自身の抱える武将たちに授けたりもしました。

 

武将たちが賜った恩賞の種類

 

次に、武将たちが戦であげた戦功により、主君から贈られた恩賞を具体的に紹介します。

 

高級な武具

刀や槍、鎧など戦に参加する武将たちにとっては必要不可欠なアイテムです。

戦国大名は自分が所有していた名品と称される刀や槍、鎧などを息子や家臣たちの武将に授与することで、信頼の証としました。

また、黒田長政のようにかつて自分の命を助けてくれた恩人の竹中半兵衛の兜のように、自分の尊敬する人物が所有していた武器や武具を所望する武将や、かつて父親や祖父の代に戦に敗戦したことで取り上げられてしまった先祖伝来の宝刀などを所望する武将もいました。

織田信長は長篠の戦いで戦功のあった奥平信昌に恩賞として長篠一文字(国宝)という名刀を授けています。

 

金銀、銭

武将に対する褒美として、金銀や銭も与えられました。

金銭を授与した具体的な例としては、豊臣秀吉が発行して戦功の大きかった武将たちに配布した天正小判があります。

金銀、銭が下賜物として与えられるということはご褒美として武将に割譲する領地が少なくなってしまったことが起因します。

諸大名たちは領土拡大のため、近隣諸国への侵攻を試みるのですが秀吉はこれを全面禁止したため、領土に代わるものとして金銭や物品を恩賞として与えました。

 

茶道具

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戦国時代は茶碗や茶釜、茶壷などの茶道具の価格が想像を絶するほどに高騰しました。

茶釜や茶筅のようなお茶をたてるためだけの道具が、一国一城よりも価値のあるものとして扱われていたのです。

また、戦国時代に茶道をできるものは織田信長が認めた武将や大名だけだったので、朝廷に取り入ったり、権力者である織田信長とより近づくためにも、全国の戦国大名や名だたる武将は茶道具を求めて大金を費やしました。

そんな茶道具も戦の恩賞として下肢されることもありました。

 

恩地・加増

主従関係を結んだ主君が、家臣の武将に新たに与えた領地のことを恩地(おんち)といいます。

武将たちの立場からは恩地をもらい受けることを拝領(はいりょう)といいました。

戦国大名は武将に対して御恩の一環として支配権ではなく、土地そのものを与えました。

ただし恩地には誓約があり、私領には軍役と城普請(しろぶしん)が課せられるだけでしたが、恩地にはそれ以外のさまざまな負担が課せられ、さらに主君が定めた独自の分国法により、土地の売却なども制限されました。

 

また、合戦後に褒美として新たに領地をもらい受けることを加増(かぞう)といいました。

武将たちは恩地や加増で与えられた領地の領民から年貢やその他の税を徴収して収入としました。

そのため、己が統括する所領が増えることは収入が増加することを意味しています。

継続的に得られる収入が増えるとあっては、どこの武将であろうと躍起になるのは当然至極です。

 

叙任(じょにん)

戦国大名が武将への恩賞として、贈ったのは土地や物だけではありません。

功績の恩賞としては官位を名乗る権限を許しました。

朝廷には無断で与えられることもありました。

 

官位には、どのような役職においても上から長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん)の4階級があり、これを四部官(しぶかん)と呼んでいました。

戦国大名も朝廷に対し金品を献上して官位を得ることがありました。

戦国大名は一国を治める役人の国司に該当し、一番上の位から守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)がありました。

 

豊臣秀吉は織田信長の重臣時代に信長の許しを得て筑前守(ちくぜんのかみ)を名乗り、明智光秀も日向守(ひゅうがのかみ)を名乗っています。

このように官位を名乗るためには朝廷工作、いわゆる朝廷への献金や朝廷への交渉、朝廷へ圧力をかけられる人とつながりがなければできないことなので、叙任された官職を名乗ることは武将のステータスとなったのです。

 

安堵・本領安堵

主君が家臣に対して領地の所有権を認めること安堵(あんど)、または本領安堵(ほんりょうあんど)と言います。

主君に対して奉公することは、先祖代々受け継いだ土地である本領を安堵してもらうためでもありました。

鎌倉時代には幕府にとって、安堵は御家人の忠誠をつなぎとめるための重要な要素でした。

 

この制度が戦国時代の主従関係にも導入されることになり、武将が新しい主君に鞍替えするときは、所領を安堵されることが重要視されました。

織田信長は浅井・朝倉軍と対決して勝利した後、戦功のあった有力な土豪に対して安堵状を出して主従関係を結んでいます。

領土を安堵されるということは間接的に収入や身分の保証してもらうことを意味しています。

その保証があるのとないのとでは、働く意義に雲泥の差があります。

 

まとめ

 

戦国大名が武将たちを統率するために必要な信賞必罰のうちの信賞である武将たちに贈られた恩賞について記事を書かせていただきました。

 

戦国武将たちが死をも恐れず、戦に参加して我も我もと武功をあげた理由はすべてこれらの恩賞を得て、子々孫々が何不自由なく生活していけるようにするためだったのです。

また、その子孫たちは先祖が残した土地や財産を守り、増やすことの大義名分のためでした。










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