豊臣秀吉により「信長の葬儀」が執り行われた寺として知られる大徳寺。
織田家の菩提寺が建立されたことから、多くの戦国大名や茶人が塔頭(たっちゅう:小寺院や別坊)を設け、繁栄した大禅林(ぜんりん:禅宗寺院)です。
創建以来、帝の庇護のもと発展した大徳寺でしたが、やがて室町幕府に反発し衰退してしまいます。
その後、応仁の乱などで伽藍が焼失した大徳寺を復興し、禅の教えを実践したのが、とんち話で有名な一休さんこと一休宗純(いっきゅうそうじゅん)でした。
そして、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の人柄に心酔した茶人「村田珠光」の茶の湯を受け継ぎ、禅修業のなかから「侘茶(わびちゃ)」を大成させたのが千利休です。
史上の人物とのエピソードには事欠かない大徳寺は、文化財の宝庫でもありますが、4つの塔頭以外は通常非公開です。
多くの塔頭が「拝観謝絶」を掲げる大徳寺は、今なお厳しい禅修行の道場なのです。
観光寺とは一線を画す禅寺の歴史と見どころ、ゆかりの人物たちとの逸話をお届けします。
紫野(むらさきの)に建つ、京都随一の禅寺「大徳寺」
平安時代、高貴の色と好まれた紫を地名とする「紫野」。
かの地は御所に近く、歴代の天皇たちが若菜摘みや狩猟を楽しんだ、緩やかな傾斜地です。
かつて、この紫野には、第53代淳和天皇(786-840)の離宮紫野院が営まれていました。
鎌倉末期、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が建立した小庵を起源とする大徳寺は、南北朝の帝の帰依を受け、大寺院となります。
室町時代には衰退するも、一休宗純による再興の後、多くの戦国武将や茶人たちとの関わりを持ち続け発展しました。
700年間受け継がれた、厳しい禅の教えを伝える大徳寺は、今も24の塔頭寺院を擁する、臨済宗大徳寺派の大本山です。
「本朝無双之禅苑(京都五山の第一位)」と呼ばれた大徳寺の略年表
- 正和4年(1315)大燈国師(宗峰妙超)のために、播磨国守護職 赤松則村が草庵を建立したのが始まり
- 正中元年(1324)後醍醐天皇から土地を寄進され、伽藍の建造が始まる
- 正中2年(1325)花園上皇、後醍醐天皇の帰依を受け、祈願所となる
- 正中3年(1326)法堂の完成とともに、大徳寺と命名される
- 嘉暦4年(1329)鎌倉幕府の祈願所になる
- 建武元年(1334)後醍醐天皇より、京都五山の第一位(南禅寺と同格)に列せられる
- 興国2年・暦応4年(1341)後醍醐天皇と争った足利尊氏が開いた室町幕府の庇護を受けられず、足利直義により、五山十刹のうち十刹の第九位に落とされる
- 正平13年・延文3年(1358)後光厳天皇により再興される
- 永享3年(1431)五山の制からの辞退を願い出て、自ら官刹より離脱し、在野の禅寺になる
- 享徳2年(1453)諸堂を焼失
- 文明5年(1473)応仁・文明の乱(1467-1477)により多くの伽藍を焼失
- 文明6年(1474)後土御門天皇の勅命により、一休宗純が住持となり、堺の豪商 尾和宗臨らの協力を得て復興に尽力
- 永正6年(1509)大仙院が創建される
- 天文4年(1535)大友宗麟が瑞峯院を創建
- 永禄9年(1566)三好義継が聚光院を創建
- 天正10年(1582)豊臣秀吉が織田信長のために、17日間にわたる盛大な葬礼を行い、菩提寺の総見院を創建
- 天正16年(1588)秀吉が母のために天瑞寺を建立 小早川・毛利氏が黄梅院を創建
- 天正17年(1589)千利休が三門の二階を増築 「金毛閣」と名づけられ、寺が上層に利休の木像を安置した 石田光成らが三玄院を創建
- 天正19年(1591)千利休が秀吉の命により切腹 大慈院が創建される
- 慶長7年(1602)細川忠興が高桐院を創建
- 慶長11年(1606)黒田長政が龍光院を創建
- 慶長14年(1609)沢庵宗彭(たくあんそうほう)が大徳寺住持となる 前田利家夫人と利長が、芳春院を創建
- 慶長17年(1612)小堀遠州が龍光院内に孤篷庵を創建
- 元和元年(1615)幕府は、朝廷を牽制し大徳寺などを抑圧するための法度を制定するも、大徳寺はこれに抗った
- 寛永6年(1629)紫衣(しえ)事件 住持・沢庵宗彭は上山(山形)へ流罪となる
- 寛文4年(1664)仏殿が再建される
- 寛文5年(1665)本堂が造営される
- 寛文7年(1667)徳川家光が仏殿本尊を寄進する
- 宝永4年(1707)雲林院が再興される
- 明治元年(1868)神仏分離令後の廃仏毀釈運動の結果、塔頭の破壊や統廃合が行われる 仏像や経典などが破棄され、文化財なども焼失
- 明治9年(1876)臨済宗諸派が独立し、大徳寺派の本山となる
「大徳寺」第47代住持、反骨の禅僧 一休さんは人気者
1474年、大徳寺第47代住持となった一休宗純(当時80歳)は、江戸初期に刊行された「一休頓知咄(とんちばなし)」のモデルになった、臨済宗の禅僧です。
後小松天皇の皇子とされ、少年期から漢詩をつくり、狂歌や書画の才にも長けていました。
戒律で禁じられた男色や女犯、飲酒や肉食など、自由奔放な奇行で知られ、風狂(ふうきょう:禅宗において評価される常軌を逸した行為)の生活を送ったと言われます。
これらは、当時の腐敗した仏教界への抵抗であり、体制に対する反骨精神の表れと捉えられており、多くの庶民の共感を呼んだようです。
実際に一休さんの人気は高かったようで、大徳寺の住持になると評判を呼び、無心をせずとも多くの浄財が集まり、伽藍を再建する事ができました。
1479年には仏殿を再建、現在の建物は1665年に京の豪商の寄進により建造されたものです(重要文化財)。
南扉は常時開放されており、ご本尊の釈迦如来坐像(徳川家綱が寄進)が安置された内部を、外から拝観できます。
天井には、狩野元信による雲龍図が描かれていますが劣化がすすんでおり、歴史を感じさせます。
仏殿前には、再建時に植えられた、樹齢約350年のイブキの巨木(京都市天然記念物)があり、見ごたえがあります。
境内北東に、一休宗純を開祖として創建された「真珠庵」があります。
応仁の乱により焼失するも、延徳3年(1491)に堺の豪商 尾和宗臨によって再興されました。
通常非公開ですが、特別拝観時は、方丈に安置された一休像や長谷川等伯筆の襖絵、茶室「庭玉軒」や方丈東庭「七五三庭」が公開されることがあります。
拝観後の京都土産には、名物「大徳寺納豆」がおすすめです。
一休さんが大徳寺に伝え残したとされる伝統食で、お寺の保存食として今も作り続けられています。
赤味噌を香ばしくしたような味で、酒のつまみやご飯の友、味噌汁や炒め物、和え物に混ぜても美味しくいただけますよ。
※大徳寺納豆の詳細はコチラ
大徳寺納豆本家磯田 http://www.honke-isoda.com/
4つの公開塔頭は、逸話も見どころも満載
大仙院(だいせんいん)
1509年、古岳宗亘(こがくそうこう)を開祖とし、近江守護職 六角政頼が「大仙院」を創建しました。
禅宗の方丈建築では最も古い、国宝の本堂は、1513年に完成しました。
1530年ごろ造園された、方丈を囲む巨石と白砂の庭園(国の史跡・特別名勝)は「禅院式枯山水」、創建当時の姿を今にとどめる傑作です。
方丈内の狩野元信筆の襖絵「四季花鳥図」や、玄関上部に施された透かし彫りの細部装飾は、一見の価値があります。
ちなみに、7代目住職は沢庵和尚です。
拝観時間は、9:00~17:00(12月~2月は16:30まで)、拝観料は400円です。
※参照 http://www.b-model.net/daisen-in/index.htm
龍源院(りょうげんいん)
「龍源院(りょうげんいん)」は、能登の守護大名 畠山義元らにより、永正年間(1504-1521)に建立されました。
本尊の釈迦如来像や日本最古の禅院式方丈、創建当初の唐門や表門は重要文化財です。
室町時代に造営された、方丈を囲む4つの庭はそれぞれ趣が異なり、見る者を飽きさせません。
方丈東側に位置する、わずか4坪の日本最小の壺石庭「東滴壺(とうてきこ)」は、「大海の水も一滴から(日常の積み重ねが大事)」という禅の教えを表しています。
書院には、秀吉と家康が対局したと伝わる四方蒔絵の碁盤や、天正11年の銘がある種子島銃などが展示されているので、お見逃しなく。
拝観時間は、9:00~16:30、拝観料は350円です。
※参照 http://torapi.fc2web.com/201009ryogenin.htm
瑞峯院(ずいほういん)
1535年、「瑞峯院(ずいほういん)」をキリシタン大名の大友宗麟が創建しました。
方丈や唐門、表門は創建当時のもので、重要文化財に指定されています。
名作庭家による貴重な枯山水が、方丈を囲みます。
南側の「独坐庭」は、大海や入り江を表す白砂や苔が配された、禅の教えに基づく枯山水です。
北側の「閑眠庭」は、「十字架の庭」とも呼ばれ、配置された7個の石が十字架をかたどり、万民の霊を弔っているとのことです。
晩年キリスト教に深く帰依した、大友宗麟の思いが偲ばれますね。
千利休が作った日本最古の茶室を復元した「平成待庵」は、事前に予約(抹茶付拝観料:1,500円)すれば見学することができます。
拝観時間は、9:00~17:00、拝観料は400円、茶室でいただくお抹茶も400円です。
※参照 http://chakatsu.com/shop/kyoto_zuihoin/
高桐院(こうとういん)
1602年、利休七哲の一人細川忠興により創建された「高桐院(こうとういん)」は、4000坪の敷地を誇る細川家の菩提寺(ぼだいじ:先祖代々のお墓のあるお寺)です。
本堂の西に佇む、忠興とガラシャの墓標の灯篭は、千利休が切腹する際に細川忠興に譲った形見です。
利休の屋敷を移築した書院「意北軒(いほくけん)」に隣接する茶室「松向軒(しょうこうけん)」は、秀吉が催した北野天満宮の大茶会時に忠興が設けたものです。
客殿西側の庭にある袈裟型の蹲踞(つくばい:石製の手水鉢)は、加藤清正から贈られたもので、忠興は参勤交代の際も持ち歩いたと伝わります。
方丈南側の庭は、初夏は緑の苔、秋は紅葉、そして冬は雪の「無の庭」となり、秀逸の美しさです。
また、50mの参道は紅葉の名所ですので、モミジ狩りの際はぜひお訪ねください。
拝観時間は、9:00~16:30、拝観料は400円です。
※参照 http://www.uetoku.com/visit/kotoin1.html
信長の葬儀は、秀吉のパフォーマンス
1582年10月11日、豊臣秀吉が織田信長の葬儀を大徳寺で行い、菩提寺となる総見院を創建しました。
本能寺の変が1582年6月2日なので、実際は100カ日法要になりますが、1万を超す兵が警護する中、17日間にわたり盛大に執り行われました。
15日目には、信長の棺とその前後に連なる三千人の行列が、葬送のパレードを行いました。
その際、信長の位牌と、遺品の不動国行の太刀を持ったと伝わる秀吉の行動は、次の天下人は自分だと他の武将や民衆に誇示するものだったのでしょう。
総見院の本堂には秀吉が奉納した、等身大の木造織田信長公坐像(重要文化財)が安置されています。
坐像は香木で2体制作され、1体は遺骸の代わりに、葬儀の際荼毘にふされました。
墓地には信長をはじめ、織田家7基の五輪塔が建っています。
境内に残る秀吉遺愛の樹齢400年を数える侘助椿(わびすけつばき)は、日本最古の胡蝶侘助とされています。
通常非公開ですが、特別公開時には本堂や信長公坐像、信長公一族の墓やお茶室などが拝観できることがあります。
※大徳寺 総見院 特別公開の情報はコチラ
京都春秋 http://kyotoshunju.com/?temple=daitokuji-sokenin
侘び茶を守るため、死を覚悟した利休
1591年2月28日、天下一の茶人千利休に、秀吉から切腹の沙汰が下りました。
70歳の利休は、3000もの兵が警護する屋敷の中で、静かに茶を点てて、使者の到着を待ったといいます。
信長の茶頭(さどう:貴人に仕えて茶事を司る茶の師匠)だった利休(当時は宗易)は、信長没後、秀吉の茶頭となり格別の信頼を得ました。
1589年、利休は大徳寺三門の二層部分を寄進し、草履を履いた利休の木像を祀りました。
寄進に感謝した当時の住職の発案だったのですが、利休は面映ゆいと辞していたそうです。
完成後1年以上たってから「天皇や太閤がくぐる門の上に、自身の像を安置するとは、利休不遜なり」と、秀吉の怒りをかったとされています。
茶人利休の名声が大きくなり、政治にも関与するようになった茶頭を、疎ましく思う者(石田三成など)も多くいたようです。
利休が茶器の売買で暴利を貪った、娘を秀吉に仕えさせることを拒否したなど、諸説ありますが真実は不明です。
秀吉の怒りの根底には、自らの芸術へのコンプレックスと、利休の秀吉に対する内なる蔑視があったのは確かでしょう。
秀吉は利休がひざまずくのを待っていたようですが、この誇り高き天下一の茶人は、一言も詫びることなく、潔く自刃しました。
千利休の菩提寺「聚光院(じゅこういん)」は、1564年三好義継により創建されました。
利休の宝塔をはじめ、三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)歴代の墓所となっています。
通常非公開ですが、年によっては特別公開されることがあります。
春と秋の特別公開をお見逃しなく
体制に反発した一休さん、秀吉に詫びることなく自刃した千利休、江戸幕府の圧制に抗議した沢庵和尚など、権力に媚びない姿勢を貫徹した人物たちと、ゆかりの深い禅寺「大徳寺」の歴史は如何でしたか。
4つの塔頭以外は通常拝観謝絶という、観光寺には無い頑固さが魅力の大禅林ですね。
歴史好きなら、何度も訪れてみたい名古刹のひとつでしょう。
京の花見やモミジ狩りの際には、春と秋に催されることが多い特別公開をお見逃しなく。
普段非公開の襖絵、庭園、茶室などを拝観できる満足感はまた、格別です。
ぜひ、日程を合わせての京都旅行をおすすめします。
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