『独眼竜・伊達政宗』眼帯の理由とは?伊達政宗の眼帯のヒミツ







戦国時代末期から江戸時代初期に東北一の権勢を誇った伊達政宗は「独眼竜」という二つ名がつけられていたことで有名です。

隻眼(片目)であったためにこの二つ名がつけられていたのですが、彼は悪い方の右目を隠すために眼帯を常用していたと言われています。

 

最近の戦国時代ブームでキャラクターとして描かれる際には、眼帯をしている姿で描かれることの多い伊達政宗ですが、まず、本当に眼帯を着用していたのでしょうか。

もし本当だとしたら、なぜ伊達政宗は眼帯をすることになったのでしょうか。

そして実際にはどのような眼帯を着用していたのでしょうか。

 

今回は、伊達政宗がしていた眼帯について知識を深めましょう。

 

独眼竜伊達政宗は本当に眼帯を着用していたのか?

 

伊達政宗は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて東北一の権勢を誇った戦国大名です。

幼名を梵天丸(ぼんてんまる)といい、元服する際に伊達藤次郎政宗と名を改めました。

 

伊達政宗は隻眼(片目)の戦国武将として知られる人物で、ドラマや漫画に描かれる際は刀の鍔(つば)を眼帯にして悪い方の右目を覆っています。

ところが、彼の居城があった仙台市の博物館にある伊達政宗の肖像画や瑞巌寺所蔵の「伊達政宗公甲冑倚像」という甲冑姿の等身大木像での伊達政宗は眼帯をしていません。

それどころか、「白濁していた」、「小刀で摘出した」などと言われている右目がきちんと黒く描かれている画像まで現存しています。

 

一般的なイメージや通説と肖像画・木像にある伊達政宗の姿に矛盾が生じているのですが、真実はどうだったのでしょうか。

 

伊達政宗が隻眼(片目)になった原因

 

なぜ、伊達政宗が隻眼(片目)になったかと言いますと幼少期に患った疱瘡(天然痘)が原因です。

疱瘡もとい天然痘とは、天然痘ウィルスを病原体とした非常に強い感染力をもつ伝染病です。

疱瘡に感染すると、全身に膿疱が生じ、40度前後の高熱、ひどい頭痛、腰痛などの症状があらわれます。

 

伊達政宗の場合、膿疱ができたのは顔の右側で高熱の症状が出たそうです。

疱瘡の致死率は20~50%と言われているので、伊達政宗も生死の境を彷徨いました。

幸い一命はとりとめたもののその代償として、右目の失明と眼球の白濁、瞼や眼の周りにブツブツとした瘢痕が残りました。

 

 

伊達政宗の眼帯の素材

NHK大河ドラマや漫画などに登場する伊達政宗は刀の鍔を眼帯として右目を隠すために使用しています。

実際伊達政宗は眼帯を常用していたのですが、刀の鍔の眼帯は完全な誇張です。

 

考えてみるとわかりますが、刀の鍔は金属でできています。鋼で作られた刀身から手を守ったり、鍔迫り合いで刀身を押し上げる、押さえつけるなどを目的として装備されている部品なので、頑丈に作られています。

鍔の重さは少なくとも700~1000gはあるはずなので、それだけの質量のものを右目にかけていたら誰しも重度の肩こり症になってしまいます。

 

伊達政宗の眼帯は実際どのような素材でできていたのか?

 

秋田藩の武士佐竹家のことを記録していた文書「佐竹文書」には当時伊達政宗がしていた眼帯のことをこのように記述しています。

「白き布にて右目を隠し~以下省略」。

そのほかにも「包帯のような布を幾重にも袈裟懸けで巻いていた」、「さらしを切り分けて使っていた」など実際にはただの布で右目を覆っていたことが判明しました。

 

私個人の意見としては、伊達政宗が「眼帯を刀の鍔で右目を隠していた」という通説は、「伊達男(オシャレなメンズ)」の語源になるほど伊達政宗がオシャレさんだったことを誇張している面が強く、後世の人によって後付けされた情報であると考えています。

 

伊達政宗が眼帯をするようになった理由

疱瘡を患い右目の光を失い、顔に醜い痕が残ってしまった伊達政宗は内気で人目をさけるような少年へと成長しました。

いつしか“いじける”ことが癖になってしまい、伊達家中では「次期当主ともあろう方がこんな姿では人望は得られないな」、「弟のほうこそ次期当主にふさわしい」という声が上がるようになりました。

 

伊達政宗が10歳のときです。

失明した右目は白く濁っていて眼球が飛び出していたそうです。

いつものようにいじけ虫になっていた伊達政宗に「若、当主となる者がいつまでもそのようにしてはなりません」と叱りつける男がいました。

この男こそ伊達政宗の右手となって生涯股肱の臣となる片倉小十郎でした。

 

片倉小十郎は伊達政宗の守り役として仕えはじめ、伊達政宗よりも10歳年長の家臣です。

伊達政宗はしくしくと泣きながら自分の右目の醜さが原因で母親から嫌われていること、飛び出た眼球を見たときの周りの人々の反応が心を傷つけていたこと、「みんなから醜いと言われる原因を作った右目なんかいらない」とまで話したそうです。

すると片倉小十郎は三国志に登場する盲夏侯こと夏侯惇元譲ら隻眼でも立派に武功を立てた将軍の話を言って聞かせ励まそうとしました。

しかし、伊達政宗は「自分にはできっこない」とまたふさぎこんでしまいます。

そのため、片倉小十郎は実に過激なアイディアを提案しました。

 

「若、その右目が原因でみんなに嫌われていると思しめされているのなら、私が切り落としてしんぜましょう」

 

伊達政宗がそれを承諾すると片倉小十郎は小刀を取り出して伊達政宗の右目をつぶして切り取りました。

それから伊達政宗はすっかり別人のように明るい性格となり、人前に積極的に出るようになりました。

そうすることで、右目を隠していれば誰も怖がったりしないことに気が付き、元服に備えて眼帯をするようになりました。

 

まとめ

仙台市に残されている肖像画や木像が眼帯をしていなかったり、右目が描きこまれているのは伊達政宗本人の意向らしいです。

「後世に残るものなので、偽りの姿を残すわけにはいかない」という考えから、眼帯を外した姿を描かせたり「顔や体に欠けたる姿を残すは親不孝にあたる」ということで、右目を黒く描かせたと伝えられています。

 

伊達政宗は眼帯を常用し、イメージは崩れますが眼帯の素材は布であったことがわかりました。

そして眼帯をしていた理由は、もともと悪かった右目を片倉小十郎に切り取らせ、その傷を隠す為という理由でした。












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