天下五剣のひとつ童子切安綱とは?童子切安綱の歴史







戦国武将たちは己の誇りや権威を象徴するため、戦で使用する具足や武器に相当なこだわりをもって、莫大な費用を費やしました。

そしてそのうちのひとつに平安時代末期から伝来する「童子切安綱」と呼ばれる名刀があります。

今回の記事では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国の三大英傑の手を渡った「童子切安綱」について解説します。

 

天下5剣とは

 

平安時代~鎌倉時代に活躍した刀鍛冶職人によって生み出された刀剣には、後世に伝わる名刀がいくつも存在します。

そのなかでも特に優れた切れ味や風格を醸し出す5本の名刀は、室町時代以降「天下5剣」と言われ、称えられるようになります。

そこに名を連ねるのが大原安綱作「童子切安綱」。またの名を「童子切」です。

 

ちなみに天下五剣は以下のものを指して呼びます。

  • 『大典太光世(おおでんたみつよ)』
  • 『三日月宗近(みかづきむねちか)』
  • 『数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)』
  • 『童子切安綱(どうじぎりやすつな)』
  • 『鬼丸國綱(おにまるくにつな)』

 

刀鍛冶職人 大原安綱

 

大原安綱は鳥取県西部にあたる伯耆国(伯州)に住んだ平安時代の名工です。

在銘作が現存しているなかでは最初期のひとりに列席し、伯耆国刀工の始祖とも言われている人物です。

安綱作は比較的多く伝わってきましたが、「童子切安綱」は安綱の力量を顕著に示す大傑作の名刀です。

 

童子切安綱の諸元と斬味

童子切安綱の刃渡りは約80センチ。立ち姿は腰反りが高く踏ん張りがあり、厚い地溝の小板目に小乱れの刃文を緩急をつけて焼かれています。

反幅約3センチ横手約2センチ刀身の厚さが約0.6センチ太刀です。

柄を取りつける際に打つ目貫付近に「安綱」の二文字が彫られています。

その斬味は、稀代の名工・正宗も理想として刀を鍛えたと伝わるほどに凄まじいものでした。

 

江戸時代に徳川幕府の町田長太夫という人物が「童子切安綱」の試し切りを行ったときの話です。

死刑囚6名の遺体を重ねて振り下ろしたところ、難なく6体の遺体を一刀両断したのだとか。

さらに、それだけにとどまらず、刀身が遺体を固定していた土台まで達していたと伝えられています。

 

「童子切安綱」は源雷公が酒呑童子の討伐に使用

源頼光と四天王

「童子切安綱」の刀名は、平安時代中期の武将、源雷公(みなもとのらいこう)こと源頼光(みなもとのよりみつ)酒呑童子(しゅてんどうじ)の首をこの刀を用いて切り落として退治したことに由来します。

酒呑童子といえば、日本最強とも恐れられる伝説の悪鬼です。

 

源雷公の酒呑童子討伐

酒吞童子(しゅてんどうじ)

酒呑童子は人間として越後(現:新潟県)で生まれ、外道丸の名で稚児(ちご)として預けられて育ちました。

美貌を持つために多くの女性を惚れさせていたのですが、その女性たちは次々と謎の死を遂げます。

そして、外道丸がそれまでにもらった恋文を焼き捨てようとしたとき、謎の死を遂げた女性たちの怨念のこもった煙にまかれてしまい、美男子から鬼の姿へと変貌を遂げてしまうのです。

以降、外道丸は人里離れたところで余生を送ろうと京の大江山に移住しました。

鬼の頭領として数多くの鬼を従えて夜な夜な京の町に降りて行っては暴虐の限りを尽くし、女性たちをさらっていきました。

 

しばらくして時の天皇陛下は酒呑童子討伐を源頼光に任命します。

源頼光は頼光四天王とうたわれた渡辺綱坂田金時(金太郎のモデル)碓井貞通卜部季武を従えて酒呑童子討伐に向かいました。

そして大江山に行く道中で出会った老人に助言を受け、正体がバレないように山伏に変装して酒呑童子の屋敷を目指しました。

 

屋敷に到着した源頼光は、酒吞童子に「道に迷ったのでここに泊めてほしい」と頼みました。

酒呑童子はこれを快諾し、源頼光が鮭を差し出すと酒盛りをはじめました。

酒呑童子は大の酒好きだったのですが、酔いが回るとなぜか身体の自由がきかなかくなっていきました。

実は頼光が差し出した酒は鬼が飲むと強力な毒に代わる特製の酒だったのです。

そこで源頼光は思いのままに童子切安棚を振り回し、勢いよく酒呑童子の首をはねて成敗しました。

 

童子切安綱の所在遍歴

源頼光は酒呑童子の首を斬り落としたので、この刀に酒呑童子を斬った刀+作者の安綱の名を刀の銘としました。その名が『童子切安綱』です。

この太刀は名だたる武将のたちの手に次々と渡っていくことになります。

 

まず、最初にこれを所有したのが、蝦夷討伐の際に征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂です。

作者の安綱は坂上田村麻呂に太刀を献上するために童子切安綱を制作しました。

その後は坂上田村麻呂はこれを伊勢神宮へ奉納され、時を経た平安時代中期になって源頼光に「貴公にこの刀を与える。これを家宝として子々孫々に伝え、天下を平らかにすべし」と天皇陛下から与えられました。

その後、童子切安綱は源平合戦で有名な源氏の家宝として伝来します。

それから足利尊氏が室町幕府を開くと、童子切安綱は室町幕府将軍家が所有するところとなり、織田信長によって足利義昭が追放されると、この刀は織田信長の手に渡りました。

その後、織田信長から豊臣秀吉、豊臣秀吉から徳川家康、徳川家康から徳川秀忠というといった時の権力者の手に移り、その後は越前松平家の高田藩へ。

高田藩から津山藩に渡り、家宝として継承されました。

 

1933年には重要文化財として指定され、第2次世界大戦勃発後、刀剣商へ売却されることになりました。

売却後は刀剣コレクターの個人所蔵のものとなり、1951年に国宝へ指定されました。

その後は個人から文化財保護委員会(現:文化庁)がこれを買い上げ、現在では東京の上野にある国立博物館に所蔵されています。

 

まとめ

 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった戦国の三大英傑の手を渡った童子切安綱について解説しました。

平安時代から1000年以上たった現在でも名工安綱の打った童子切安綱は1ミリたりとも欠けることなく、その美しさを保っています。

この刀は国立博物館の常設展として展示されていますので、ご覧になりたい方はぜひ国立博物館でご覧になってみて下さい。

見られる時期などの制限がある可能性があるので、ホームページで確認してから見に行くようにして下さい。

東京国立博物館ホームページ










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