無敵の武将『本多忠勝』と愛槍『蜻蛉切(とんぼぎり)』の歴史







大河ドラマやゲーム戦国無双などにも登場する有名な戦国武将『本多忠勝』、通称『平八郎』は徳川の家臣にして『徳川四天王』と呼ばれた非常に強い武将でした。

愛槍の『蜻蛉切』は刀剣乱舞などのゲームにも登場し、今注目を浴びています。

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徳川最強、『本多忠勝』は超有能な家臣

 

13歳から本多忠勝は徳川家に仕えていました。

14歳になった頃、戦場で叔父の忠真が敵を槍で刺し「こいつの首を取ってお前の功績にしろ」と言います。

すると忠勝は「何故叔父の手柄を自分の手柄にしなくてはいけないのか」と父からの言葉に反発し、敵陣に飛び出し自ら敵の首を落としたのだそうです。

 

この時に、父の忠真は「忠勝は只者じゃない」と後の成長を見越して恐れすら感じたそうです。

まだ子供のうちから、忠勝は三河武士としての性格や戦闘力を発揮していたのです。

その後も本多忠勝はどんどん功績を上げて、『本多忠勝』の名が世に知れ渡っていきます。

 

小牧長久手の戦いでは、苦戦している徳川軍のために囮になろうと8万の秀吉軍の前に僅か500人の兵を率いて立ちはだかります。

そんな忠勝を見て秀吉は泣きました。

「姉川の戦いで大きな功績を上げた忠勝が少数の兵しか連れず立ちはだかるというのは囮になるために違いない。あれだけ強いのになんという忠誠心か。忠勝は討ち取らず仲間にしたい。」

そう言って忠勝を討ち取ることを禁じたそうです。

家康も忠勝を大変気に入っていて「お前は本当に優秀だ」と何度も褒めていたそうです。

 

戦では『最強』かすり傷ひとつ負わなかった本多忠勝

 

本多忠勝は小さな戦も含めて57回の合戦に参加しましたが、かすり傷すら負うことの無い無敵の武将でした。

兜には和紙に漆を塗って作った『鹿の角』が付いていて、遠くから見てもそこに本多忠勝がいると分かります。

合戦での活躍は敵味方問わず称賛されるほどで

「蜻蛉が出ると蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角の凄まじき。鬼か人か、確と分からぬ兜なり。」

という川柳まであります。

 

しかも本多忠勝は非常に采配が上手く、配下の武将たちに「忠勝の指揮で戦うと盾を背負っているようだ」と言わせるほどだったようです。

愛馬は刀剣乱舞にも出てくる『三国黒(みくにぐろ)』です。

三国黒は関ヶ原の戦いで島津の銃撃を受けて死んでしまったそうです。

 

戦場では無双の槍使いだった本多忠勝ですが、苦手なこともありました。

それは道場などで槍術を人に教えるということです。人に槍術を教えるには本多忠勝はあまりに不器用で苦手だったようです。

完璧すぎないところにも好感がもてます。

 

蜻蛉切(とんぼぎり)

本多忠勝が戦場で傷を負わなかったのは、長く凄まじい切れ味で祈りの梵字が刻まれた蜻蛉切のおかげだったのかもしれません。

また、忠勝は斬った敵兵を弔おうと首から数珠を下げていたそうです。

楽しくて人を殺すわけではなく、全ては家康のためだったのでしょう。

 

忠勝の最後

本多忠勝は目を病み、60歳頃に隠居します。

亡くなったのは63歳でした。

眼病を患う前から病にかかっていたと記録に残っていますが、何の病気だったか詳しくは分かっていません。

一部では糖尿病にかかっていたのではないかと言われています。

 

持ち物に小刀で名を掘っている時に、戦で一度も傷を負わなかった本多忠勝が手を傷つけてしまいます。

この時「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と呟いたのだそうです。

その3日後に、その言葉通り亡くなったといいます。

 

病にかかり免疫力が低下していたとしたら、その傷が原因で感染症にかかった可能性があります。

破傷風であれば潜伏期間が3日から数週間ですので、もしかしたらその怪我が死因になってしまったのかもしれません。

 

『蜻蛉切』は村正一派の槍

本多忠勝の愛槍『蜻蛉切』は徳川家を苦しめた妖刀『村正』と同じ刀派です。

妖刀村正と違い、蜻蛉切は『忠義の槍』『常勝の槍』と評価されてきました。

『蜻蛉切』という名の由来は、戦場で槍を立てていたところに飛んできた蜻蛉が当たり、真っ二つに切れてしまったからです。

 

刃長43.7cmの大笹穂槍で、3つの梵字と三鈷剣が彫られています。

  • 人々の苦悩を包み込む慈悲の心を表す地蔵菩薩『カ』
  • 限りない繁栄と栄光を表す阿弥陀如来『キリーク』
  • 苦悩から救うという意味での観音菩薩『サ』

 

三鈷剣は不動明王が持っている弱い心を断ち切る剣であり何事にも動じない心を表しています。

 

柄の長さは通常の槍は4.5m程ですが、蜻蛉切は6mもありました。

本多忠勝も年齢を重ね、6m以上ある槍を振り回すのは大変だということで、約90cm蜻蛉切の柄を短くしたそうです。

それでも通常の槍より随分と長いですね。

実際6mの槍とはどのくらいなのか、愛知県岡崎市『岡崎城』内にある『三河武士の館、家康館』に等身大のレプリカがあり、持ち上げることが出来ます。

 

戦場であれだけ重くて長い槍を振り回されては、敵は近付くことすら出来なかったでしょう。

写しの蜻蛉切は、現在『東京国立博物館』が所蔵しています。

そして真作の蜻蛉切は静岡県三島市の『佐野美術館』が所蔵していて、展示の際に見ることが出来ます。

人気オンラインゲーム刀剣乱舞とのコラボも行われました。

佐野美術館:「虫尽くし展」で蜻蛉切を展示します!
2017年9月9日(土)~11月5日(日)に開催の「虫尽くし展」で、天下三槍のひとつ蜻蛉切(大笹穂槍 銘 藤原正真作)を展示することが決定しました。戦国武将・本多忠勝愛用の名槍を、ぜひご覧ください!
http://www.sanobi.or.jp/news/tonbo/

 

本多家にはもう一本『蜻蛉切』があったと言われています。

もう一本の方は笹穂ではなく直穂ですが同じく梵字と三鈷剣が彫られていて作者も同じ、刃長42.4cmと大きさも同じくらいだったようですが、未だに消息不明になっています。

 

愛槍は天下三名槍

 

江戸時代中期には『西の日本号、東の御手杵』と名槍を称していましたが、本多忠勝のもとで活躍した蜻蛉切が加わることになり、明治時代に入って『天下三名槍』として呼ばれるようになりました。

具体的にいつ頃天下三名槍として蜻蛉切が加わることになったかは不明ですが、触れるだけで斬れるという蜻蛉切の切れ味と繊細な彫り物と輝きを見れば高い評価を受けるのも当然だと感じるはずです。

 

まとめ

 

関ヶ原の戦いだけで90人の敵兵の首を討ち取り、裏工作をしたりと頭もキレて、裏切りが横行する戦国時代で最初から最後まで徳川家康に仕え続けた強い忠誠心を持つ本多忠勝。

本当に優秀で味方に居ればこれほどの安心感は無いでしょう。

 

辞世の句が残っています。

「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深き御恩の君を思えば」

まだ死にたくない。

老いて病で死ぬより、主である家康のために戦って死にたい。

そんな忠勝の忠誠心が感じられます。ここまで忠義を尽くす相手に出会えたというのは幸せなことだったのかもしれません。

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