日本にキリスト教を布教したザビエルは聖職者?それとも侵略者?







日本は本当に多神教な国です。

たいていの日本人は仏教徒ですが、お正月には神社に初詣をするし、キリスト教に改宗して毎週日曜日には教会へ足を運ぶ方もいます。

日本にキリスト教をもたらした人物といえばチリチリなおかっぱ頭の頭頂部を剃髪しているフランシスコ・ザビエルです。

彼に対しては聖職者としての見方もできますが、侵略者としての見方もできます。

 

キリスト教を布教したザビエルは今も昔もインパクト大

小中学生のとき、歴史の授業もつまらなくてそろそろ飽きてきたなーと思い始めた時期にインパクト絶大な肖像画で紹介されている人物がいます。

その人の名はフランシスコ・ザビエル

さんさんと照りつける太陽(イエス・キリスト)のもとで胸に両手を胸に当て、上を見上げる彼の肖像画は世の小中学生のイタズラ心をワクワクさせる風貌です。

実際は私も小学生の頃、フランシスコ・ザビエルの肖像画を見たときの第一印象は「何だこのチリチリガッパは!?」でした。

 

そんなフランシスコ・ザビエルですが、わざわざスペインからいろいろな国々を回りキリスト教を布教していきました。

彼の偉業としては、ブラジルにキリスト教と現ブラジルの公用語であるポルトガル語を教えたり、日本にキリスト教を布教、日本に初めてメガネを持ち込んだ人物でもあります。

さらに彼の偉業を讃えてアメリカにあるサンフランシスコという地名の由来ともなりました。

フランシスコ・ザビエルは死後も讃えられ続け、彼の遺体はミイラとなって今も保存されています。

 

神の使いではなくスペイン国王の使いだったザビエル

 

フランシスコ・ザビエルら宣教師が布教するために上等文句としていた言葉は

「神を信じなさい 信じれば神はあなたを救うでしょう」

というものです。

 

ザビエルをはじめとする宣教師たちは「神の使いとして ジパング(日本)に来ました」と言っていますが、これは建前です。

彼らはスペイン帝国の国王やポルトガル国王から命令されて海外にキリスト教を布教するために派遣されたキリスト教徒であり、アジア諸国を自国植民地にし、現地の人民を奴隷化しようとするための先発部隊でした。

 

フランシスコ・ザビエルは貴族出身のエリート

 

フランシスコ・ザビエルは意外にもヨーロッパのとある小国の宰相の子として生まれます。

ザビエルの父はハビエル城の城主で偉い貴族でした。

 

貴族出身のザビエルは哲学を学ぶために当時ポルトガルの支配下にあったフランスのパリへ19歳で単身留学し、そこで宣教師になることを志します。

そしてザビエルがキリスト教の牧師となったとき、とある大事件が起きます。

 

それはルターによる宗教改革です。

この改革によってキリスト教はカトリック派からプロテスタント派が派生します。

プロテスタントは意外にも過激派な組織だったようで、インカ帝国を武力で圧倒し南米に勢力を広げます。

ポルトガルを総本山とするカトリックは「プロテスタントに負けてたまるか」と言わんばかりに少々出遅れた形で世界へキリスト教を広げる活動を開始します。

そこで結成されたのが7人の宣教師によって創設されたイエズス会で、ザビエルはイエズス会の創設メンバーのひとりでした。

 

ザビエルら宣教師は当時最大の被害者だったかも

 

ザビエルなどの宣教師たちは当然のことながら本気で神を信じています。

「アジアの野蛮な連中にキリスト教を広めて素晴らしい神の教えを説いて幸せにしてやろう」という誓いのもとで結成されたイエズス会は神に対してとかく純粋でした。

他の宗教や宗派は一切認めず、攻撃的な布教活動を海外で展開していく。

帝国はザビエルたちの過激な布教活動を将来の植民地の地ならしをするための特攻としてとらえ、積極的に活用しました。

 

布教活動当初は相手にされなかったザビエルたち

 

プロテスタントの勢力が先にヨーロッパから西へ歩を進めていたので、ザビエルたちは手始めにヨーロッパから東の国々へ赴きました。

しかし、ヨーロッパの東側、サウジアラビアインドなどはすでにイスラム教ヒンデュー教の圏内にあります。

そのため、イエズス会は入国することすら敵わなかったのです。

そして入国を拒まれたということはそれと同時に陸路を使えないということになります。

 

このことで一時帰国をしたザビエルたちは国王へ入国拒否の報告と代替案として航海での移動を提案しました。

すると“キリスト教の布教は他国を植民地にする地ならし”と考えている国王は惜しみもなく大金を費やして船や航海士などの人手を準備しました。

これで大陸を出ることに成功したザビエルたちでしたが、食料や燃料などの補給をするためにプロテスタントの手が及んでいないブラジルに立ち寄ってそこで布教活動を始めることにします。

 

ブラジルでは難なく布教活動を成功させ、今度は当初の目的地だったインドのゴアを目指します。

ゴアに到着したザビエルたちはゴアを拠点としてインド各地でキリスト教を広めました。

そしてその視野はどんどん広がっていき、インドの少し南に位置するモルッカ諸島やマラッカなどの島国へと勢力を伸ばしていきました。

 

ザビエルはマラッカで日本人に出会って日本を知る

 

マラッカで布教活動をしていたザビエルは、日本人初のキリスト教徒となる日本人に出会います。

その日本人は弥次郎といい、人殺しの罪で薩摩の島津氏から追われている罪人でした。

弥次郎から日本という国について聞き、ザビエルは日本に大学があることを知りました。

 

ここでいう大学とは天台宗の比叡山延暦寺のことです。

これから中国で布教活動をしようと思っていたザビエルは、中国へ行くついでに日本の大学へ行ってキリスト教の教えを説けばすぐに広められるだろうという軽いノリで日本へ入国します。

 

戦国大名たちはザビエルたちを歓迎した

 

日本にキリスト教を布教し、あわよくば植民地にしちゃおうという目的で訪れるザビエルたちを戦国大名たちは歓迎します。

戦国大名たちの狙いは当時最先端だった鉄砲やイエズス会が独占していた貿易ルートを使うことでした。

 

ザビエルの最初の布教活動の拠点となったのは現代でいうと鹿児島県の薩摩でした。

これには薩摩出身の弥次郎の手引きがあったらしいです。

弥次郎はそのあと洗礼を受けてロレンソという洗礼名を授かりました。

薩摩を拠点として布教を行おうとしていたザビエルに対して、薩摩を根拠地としていた大名の島津氏は貿易に期待してキリスト教の布教を許可し、仏教寺院までも貸し与えました。

そしてザビエルたちは仏法に帰依する僧侶たちと問答をしたり「国際交流」を楽しみました。



ザビエルの仏教徒懐柔作戦は失敗

 

ザビエルたちはまず仏教徒である僧侶たちと良好な関係を結び、檀家を紹介してもらうことでキリスト教の認知度を増やそうと考えました。

そのためには僧侶たちとの国際交流において自分たちが信じる宗教を宣伝する必要がありました。

 

僧侶たちが最も信仰している大日如来(釈迦)を唯一神だと勘違いしたイエズス会は弥次郎に相談してキリスト教の唯一神のことを「大日」と呼ぶことにしました。

しかし、これは弥次郎の仏教の理解の未熟さを表すこととなり、「大日を拝みなさい」というザビエルを仏教の一派であると勘違いさせてしまうことになります。

ザビエルたちを仏教の一派と考えた僧侶たちはザビエルたちを歓迎します。

 

しかし途中で、大日如来が仏教で数多くいる仏のひとつであることがわかり、イエズス会の中でやがて問題となります。

そしてザビエルは急遽ラテン語をそのまま使い自身の崇める神のことを「デウス」と呼ぶことに改めました。

キリスト教の唯一神の名が大日からデウスに変わったことによって、「大日を拝んではいけません。デウスを拝みなさい」という風にザビエルの態度は変わります。

このザビエルの態度の急変に僧侶たちは驚いたと伝えられています。

 

ザビエルの力技が裏目に出る

 

日本に滞在することが長くなると、ザビエルは次第に本性をさらけ出すようになります。

ザビエルは仏教徒たちを強引にキリスト教へ改宗させようとするのです。

当初は穏やかに見守っていた僧侶たちもこれにはさすがに憤りを見せました。

 

また、ザビエルたちは布教活動を精力的に行ったため島津氏が求める貿易をおろそかにしてしまいました。

そのため、島津氏は激怒してザビエルたちを追放し、キリスト教へ改宗しようとする者を死罪としました。

 

そんな状況となり慌てたザビエルは京都へ急行します。

京都であれば、目的地の日本の大学と聞いている延暦寺に近いということで意気揚々と上京するのですが、残念なことに延暦寺では異教徒の立ち入りが禁じられていました。

ザビエルたちは延暦寺を見る前にその山門で門前払いを食らう羽目になったのです。

 

次にザビエルは日本の王にキリスト教を説こうという作戦に出ます。

しかし、日本には天皇と室町幕府将軍がいて、ザビエルたちにはどちらが真の王様なのかがわかりませんでした。

そのため、献上品のひとつも持参せずに天皇と将軍の両者に謁見しようとするのですが、またもや門前払いを食らいます。

 

京都で何もできなかったザビエルたちが次に向かったのは当時毛利氏に仕えていた中国地方の大名の大内氏でした。

大内氏にあったときのザビエルは必至そのもの。

日本の王様(天皇)に献上する予定だった置時計ビードロの瓶メガネ西洋の書籍などの珍品を献上して布教することに許可を得ます。
※誰が日本で一番の王様か理解できなかったザビエルは献上品を誰に献上すれば良いのかわからず所持したままだったのです。

 

来日から2年余りを経たこのとき、キリスト教へ改宗できた人数は1000人ほど。

特にこれといった成果は上げられていません。

バックアップしてくれていた国王からは人材や物資の仕送りが次第に滞り始め、当然ながら布教活動はそれ以上進みませんでした。

おそらく都から遠ざかってしまったがために勧誘する人もいなければ影響力も薄れてしまったのであろうと思います。

 

当初日本にキリスト教を広めて、あわよくば植民地化してやろうというつもり上から目線で来日してきたザビエルたちはこの頃にはすっかり日本に対する見方が変わっていました。



ザビエルは当初の目的を忘れて日本の味方になった

 

当初は「野蛮な連中に素晴らしい神の教えを説いてやろう」という目的で来日したザビエルでしたが、日本人の温かみや親切心に触れていくうちにいつの間にか本来の目的を忘れてしまいました。

ザビエルは生前日本人のことを

「日本の人々のなんたる温かいことか。礼儀作法はもとより文化、風俗、習慣はスペイン人に優る。日本人ほど理性的で親切な人々を私は世界中を旅してきたなかで見たことがない」

と評価しています。

 

もともと侵略するつもりで来日していたのに日本人には攻撃的な手段をとらなかったのは、このことが要因となっています。

しかしながら、このすばらしさに気づいたのは宣教師の中でザビエルだけでした。

他の宣教師たちは日本人を海外へ向けて人身売買したり、貿易の妨害をしていたのです。

 

そういった行為が後に太閤豊臣秀吉の耳に入ることになります。

それが豊臣秀吉による伴天連追放令(ばてれんついほうれい)の発端となってしまったのが、残念でなりません。

伴天連追放令とは
バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreに由来する。~wikipediaより引用

 

晩年ザビエルは日本で布教するためには日本の精神の根本となる中国で布教して影響力を利用しようと考えました。

そして日本を去り、中国へ渡ります。

しかし、中国に上陸してすぐに病を患ったザビエルは中国で布教活動を始めることができずにそのまま46歳という若さで他界しました。

 

まとめ

 

ザビエルは日本を侵略しに来たつもりが、日本人の温かみに触れてそのような気力をすっかりなくしてしましました。

第一印象はチリチリガッパだったザビエルもきちんと調べてみれば、よい人だったことを私は知りました。

私の出した結論はザビエルは侵略者ではなく、ひとりの純粋な聖職者だったということです。

 

ザビエルは日本に対して侵略活動をしていないので、「侵略者とする見方ができる」と主張する専門家に対しては「ザビエルだけは純粋にキリスト教を広めたかっただけなんだ」と異論を述べたいです。










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