舩坂弘は不死身の人間兵器か?アウンガウルに吼える『舩坂弘』伝説







舩坂弘という人物は「リィンカーネーションの花弁」という漫画に登場しました。

ニュートン、アインシュタイン、宮本武蔵、ライト兄弟など歴史上の人物が、現代に生まれ変わるという漫画に並んで登場です。

 

そして、太平洋戦争の公刊戦史である「戦史叢書」にも下士官として名前の載った唯一の人物です。

アメリカ軍を恐怖に叩きこみ、そして尊敬の目ですら見られた恐るべき戦士。

今回は太平洋戦争史にその名を刻んだ男、舩坂弘という人物について書いていきます。

 

船坂弘とはどのような人?

お亡くなりになったのは2006年ですのでかなり最近です。

歴史上の人物というには、まだ早いくらいの時代の人です。

しかし、逆に言えば「生きた伝説」となった男でもありました。

 

戦後は本屋の社長となりますが、太平洋戦争中はまさしく、人外といいますか、不死身の人間兵器です。

もし、日本兵が全員「舩坂弘」であれば―― その結果はどうなっていたか……

そのようなことすら、想起させる恐るべき人物です。

 

舩坂弘氏は、武人であると同時に文人でもあります。

戦争に敗れたのは「文化力の差」ではないかということで、自ら書店経営を営み、戦後日本の文化力向上に貢献します。

そして、太平洋戦争に関する多くの著書を残しています。

その本は今も、みなさんが手に取り読むことが出来ます。

 

1944年の太平洋戦争の状況

太平洋戦争も1944年に入りますと、アメリカ軍の圧倒的な戦力に日本軍は対抗が困難となってきます。

太平洋戦争の本流は「艦隊(航空)戦」と「島嶼戦(とうしょせん:島での戦い)」で進んで行きます。

太平洋の制海権を押さえるための「艦隊(航空)戦」が発生し、制海権を押さえた方が「島嶼」に侵攻するというものです。

1944年になると、日本は「艦隊(航空)戦」でアメリカに局所的戦闘以外では勝利できなくなります。

そして、「島嶼戦」で大きな打撃を与え、アメリカ軍を撃退しようとします。

しかし、それは成功した例がありません。

 

絶望の島嶼戦

太平洋戦争で日本軍は「玉砕」という言葉を使い「全滅」しました。

そして太平洋の多くの島々が「玉砕」していきます。

有名な「硫黄島の戦い」、「タラワの戦い」、「ペリリュー島の戦い」など、確かに多くの島で日本軍は善戦し、アメリカ軍に大量出血を強います。

しかし、最終的に「玉砕」し、その島を奪われていったのは日本です。

 

「島嶼」つまり島です。

この島に立てこもって戦うというのは、言ってみれば「籠城戦」です。

敵を引きつけ、援軍により挟撃できるなら、それは戦術として理にかなっています。

実質それが出来たのは本土に近かった「沖縄戦」くらいでしょう。

戦後、明らかになったアメリカの公文書の中には「沖縄戦は我々の負けであった」と書かれています。

アメリカの作戦目標を砕き、日本の考えていた「一撃講和論」は実はこのときで来ていたともいえるのです。

援護のない「島嶼戦」は絶望しかないです。

要するに死ぬまでそこで戦えということです。

そして、舩坂弘もその島嶼戦で、地獄の鬼がドン引きするほどの活躍をみせ、その不死身ぶりをみせるのです。彼は当時、軍曹という階級でした。

 

「一人十殺」の戦いを強いられ玉砕する日本軍

日本軍はアメリカのフィリピン侵攻を阻害できる位置にある重要拠点であるパラオ諸島の軍備を固めます。

舩坂弘軍曹が配備されたアウンガウル島もパラオ諸島のひとつです。

1944年9月、アメリカ軍はここに2万人の兵力で攻めてきました。

守るのは舩坂弘軍曹を含む1,250人の兵力です。

「1人で10人アメリカ兵を相手にできれば勝てますね」と現代で言えば「できるわけないだろう」という言葉で即突っ込まれそうです。

その通り出来るわけありません。

 

しかし――

「一人十殺」は日本軍のスローガンのようになっていきます。

玉砕を繰り返す島嶼戦の中で、日本軍の指揮官、参謀が何度も口にします。

それは、望むことはできても、決して実戦でできるものではないのです。

アメリカ兵もこちらを本気で攻めてきているのです。無抵抗の木偶の坊ではありません。

そして、アウンガウルもまた、そのような状況だったのです。

 

超戦士・舩坂弘軍曹

島嶼戦は、制海権、制空権を奪った側が、空母、戦艦を集め、島に鋼と炸薬の凶器を叩きこみます。

航空爆撃と艦砲射撃は、熾烈を極めます。

しかし、日本陸軍の陣地構築技術も優れておりこの攻撃に耐えきることができました。

そして、アウンガウルでも激しい射撃と空爆の後、最新鋭の兵器を携えた2万を超える精鋭アメリカ軍が上陸してきたのです。

 

迎え撃つ日本軍は1,250人――

制空権、制海権を失い、援護・救援なし――

しかし、上陸したアメリカ軍は地獄を見ます。

 

舩坂弘は擲弾筒分隊の指揮官で、擲弾筒で200人以上の米兵を殺傷します。

 

擲弾筒とは89式重擲弾筒と呼ばれる、茶筒に棒がついたような形をした兵器で、日本陸軍の装備の中では、評価の高い兵器です。

直径50ミリ、800グラムの榴弾を発射します。被害半径は約10メートル。

通常2人で運用しますが、1人でも使える兵器です。

 

熟練すると毎分20発の発射も可能であり、舩坂弘軍曹はその水準以上に達していたでしょう。

舩坂弘軍曹は、そもそも日本陸軍の中でも異例の存在でした。

射撃能力、白兵戦能力の両方が一級品だったのです。

 

旧軍では「射撃もっさり」という言葉があり、射撃の上手い兵は、動きが遅く、普段ぼんやりしているような兵が多かったという言葉です。

これは、従軍経験者の複数の本に出てくる言葉です。

つまり、舩坂弘軍曹のように、射撃能力、白兵戦能力の両方を突出した技術で備えた存在というのは稀有であったということです。

 

不死身の人間兵器・舩坂弘軍曹

そして、恐るべきは――

舩坂弘軍曹は不死身だったのです。

そうとしか考えられないような活躍、戦いを見せるのです。

 

擲弾筒が真っ赤になるまで打ちまくり、米兵を殺しまくった後、戦場はゲリラ戦へ移行します。

その戦いの中で舩坂弘軍曹は、左の太ももに銃弾を受け酷い裂傷を負います。

軍医はそれを見て、黙って手りゅう弾をわたします。

それで、自爆して楽になれということです。

治りません。治せない致命傷だったのでしょう。

しかし、舩坂弘軍曹は傷を日章旗で縛ると、再起動します。

米兵をして恐怖を持って語らせる「不死身の人間兵器・舩坂弘軍曹」の伝説がここから始まります。

 

満身創痍の常人であれば致命傷を負った中、拳銃で米兵3人。――そもそも近代戦の戦場において拳銃で敵を倒すこと自体至難の技です。

そして、米兵から軽機関銃を奪い取り連射。その際にさらに3人。更に軽機関銃をぶん投げます。軽機関銃とは通常10キログラム以上あります。

それが、槍の様に敵を貫きます。あり得ないレベルの戦闘力です。

これが、致命傷を負った人間の戦いぶりでしょうか?

不死身の分隊長――

鬼の分隊長――

舩坂弘軍曹の戦いを見た味方も戦慄を持って、彼をそう呼びました。

 

単身敵司令部に突撃! 死体になっても蘇る男

舩坂弘軍曹も、残された日本兵を奮戦しますが、どうにもなりません。

アウンガウルは地獄と化し、自決する日本兵も続出します。舩坂弘軍曹も死なないのが不思議という傷を負い、傷口にはウジが湧きだします。

彼は手りゅう弾で自決しようとしますが不発。

死ぬことができないと悟った彼は、単身、敵司令部への突撃を敢行するのです。

敵司令部に突撃、そしてそこで自爆するという計画です。

 

身体に6発の手りゅう弾を備え付け、拳銃だけで、這いつくばって、敵の警戒線を突破します。

米軍司令部のあるテントまで4日かけてズルズルと死体寸前となった肉体を運び込みます。

その執念と戦意は、もはやあり得ないレベルです。

米軍司令部は1万人の兵がいました。その中に単身突入していきます。

そして、舩坂弘軍曹は、草むらから立ち上がります。

 

満身創痍で、ボロボロの日本兵がいきなり、司令部近くに出現したのです。

目撃した米兵は驚愕し、なにもできませんでした。

ボロボロ瀕死の舩坂弘軍曹は、米兵が呆然とする中、拳銃と手りゅう弾を握りしめ、全力突撃開始。

そして、自爆の直前――

米兵の銃弾が舩坂弘の頚部を貫き、彼は倒れました。

舩坂弘の握りしめた拳銃と、手りゅう弾は、指を一本ずつ引っ張って、やっと手から離せるという状態だったといいます。

 

米軍は、舩坂弘を野戦病院に収容します。

普通に死んでいると思っていますから放置です。治療もなにもしません。

しかし、ここでも舩坂弘軍曹は再起動します。

死んだと思った人間が蘇ります。米軍パニックです。

大日本帝国陸軍が生み出した不死身の人間兵器はここでも暴れます。

 

なんとか、制止させ、捕虜として収容するのですが……

まだ、舩坂弘の戦いは終わらないのです。

捕虜収容所では、火薬を少しずつ集め、米軍弾薬庫の爆破を行いました。

証拠が無かったので、米軍は「原因不明」の爆発と書いていますが、戦後の舩坂弘氏の手記ではその手法が詳しく書かれていました。

伝説となった舩坂弘の戦いは、日本の公刊戦史である「戦史叢書」に個人の戦闘記録として記されています。

この戦いは国が編纂した戦史の中で認められているものです。

戦後、三島由紀夫などの文人と親交を深め、遺骨の回収、慰霊碑の建立と活躍を続けました。

そして2006年2月、不死身の分隊長は、戦友たちの元へ旅立ったのです。










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