武家の2大勢力である源氏は坂東(関東地方)一帯の東国に陣取り、もう一方の平氏は京都や神戸のあたりをはじめとする西国に本拠地を構えており、武家の2大勢力は東西に分布していました。
「源氏が東国で平氏が西国?あれあれ、おかしいぞ?」と気付いたあなたはすでに歴史マニアの仲間入りです。
平氏と源氏はなぜこのような分布になったのか、その原因について今回は説明しましょう。
平安初期までの平氏と源氏の分布
「源氏が東国で平氏が西国?あれあれ、おかしいぞ?」と源平の分布に矛盾を感じた方はどれほどいるでしょうか?
この矛盾を感じる為には、まず平安初期ごろの平氏と源氏の分布について知っておく必要があります。
平安初期までの平氏の分布
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平将門
まずは平氏の方から説明していきます。
平氏の姓をはじめて天皇陛下より賜ったのが高望王(たかもちおう)という桓武天皇(かんむてんのう)の孫にあたる人物です。
高望王は平高望(たいらのたかもち)に改名して、武家として分家する際に常陸守(ひたちのかみ)の官職を任命されました。
そのため坂東(関東地方)に赴任した平高望はその地を所領とし、坂東(関東地方)一帯を治めるようになりました。
平高望は子供たちに所領を割譲して与え、子供たちは独自に土地開発を行ったので、坂東(関東地方)一帯には平氏が土着しました。
平氏の場合は東国から出稼ぎの体裁で何人かの平氏が都に常駐しました。
そのため、もともと東国を本拠地としていたのは平氏だったのです。
平安初期までの源氏の分布
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源経基
平氏の成り立ちから遅れること約20年。
清和天皇の孫にあたる経基王(つねもとおう)が宇多天皇(うたてんのう)より源姓を賜って源経基(みなもとのつねもと)に改名し、武家となって天皇家から分家しました。
この頃の源氏は平氏よりも新しくできた新興の武家で、当時は源氏を名乗る者も少なく都にて天皇や貴族の護衛、馬の世話係などの仕事に従事していました。
平氏と異なり、源氏には所領として広大な土地は与えられておらず、源氏と郎党(家臣)が食べてゆけるだけの荘園しかもらうことができませんでした。
そのためこの頃、源氏はまだ都から出ていません。
平安初期までに西国を治めていたのは藤原氏
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藤原鎌足(中臣鎌足)
先程までは東国のことしか説明していませんでしたので、今度は平安初期までの西国に注目してみます。
当時、西国を治めていたのは藤原鎌足以来朝廷の重鎮を数多く輩出してきた名族の藤原氏でした。
西国が藤原氏→平氏に支配されるようになった理由は?
さて、それではいよいよ本題へと参りましょう。
もともと西国を支配していたのが藤原氏だったのに、平氏に変わってしまったその原因は西暦939年に勃発した藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱です。
藤原純友の乱は、当時瀬戸内海周辺を支配していた藤原純友が瀬戸内海上にて水軍を率い朝廷に謀反を起こした乱でした。
時の天皇はこれを鎮圧するべく、平清盛(たいらのきよもり)の祖父にあたる平貞盛(たいらのさだもり)に瀬戸内海にて藤原純友を討つべしという勅命を下しました。
平貞盛は見事瀬戸内海で藤原純友の軍を迎え討ち、藤原純友の誅殺と乱の鎮圧に成功します。
そのため、そのときの恩賞として藤原純友が支配していた土地を平貞盛に与えました。
平貞盛による功績は後にも先にもこれしかないのですが、藤原純友の乱以降、子孫たちに西国の所領を割譲して与え、さらに土地開拓をさせたので、多くの平氏はみな西国へ移り住みました。
また、平清盛の代になると平氏は黄金時代を迎えることになります。
武家史上初の太政大臣(だじょうだいじん)に任命された平清盛は京都の六波羅に邸宅を建ててそこに住みました。
それによって、平氏が都と西国に分布する構図をとることになりました。
東国が平氏→源氏に支配されるようになった理由は?
一方のもともと平氏が支配していた東国がいつの間にか源氏に支配されるようになった原因は、かの有名な平将門(たいらのまさかど)の乱です。
西暦935年に起こった平将門の乱は平将門が坂東(関東地方)一帯を支配し、自ら「新皇」と名乗って、東国を理想国家として独立を企てたものです。
時の天皇は平将門の乱を鎮圧するために討伐を命じたのが藤原秀郷(ふじわらのひでさと)、不死身と言われて恐れられた平将門をその手で討ち取ったのが俵藤太(たわらのとうた)です。
そして源氏は一族総出で討伐軍に参加しました。
討伐軍は反乱軍の総大将平将門を討ち取って見事乱を鎮圧させました。
源氏はそのときの恩賞としてもともと平将門が支配していた坂東(関東地方)一帯を所領として与えられ、源氏の一族が根こそぎ東国へ移り住んだので東国は源氏の本拠地になりました。
まとめ
いかがでしたか?
この記事を読めば西国は平氏、東国は源氏という武家の2大勢力の分布がいちいち資料集を開かなくても覚えられると思います。
それでは平氏が西国、源氏が東国に分布した原因を最後にまとめてみましょう。
西国に平氏が分布した理由
藤原純友の乱のあと、藤原氏がもともと支配していた土地に平氏が移住。
それからしばらくして平清盛が都に移住したので都と西国に平氏が分布した。
東国に源氏が分布した理由
もともと平氏の所領だった東国へ平将門の乱のあと、源氏が根こそぎ移住したので東国に源氏が分布した。
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