後醍醐天皇の建武の新政とは?建武の新政について詳しく分かり易く解説!







南北朝時代に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が始めた『建武の新政』

建武の新政は日本史の教科書で、後醍醐天皇と一緒に覚えるキーワードくらいにしか書かれておらず、具体的にどのような政治だったのかは学校では教えてくれません。

 

しかし、安心してください。

この記事では後醍醐天皇が行った建武の新政について、分かり易く、そして詳しく解説します。

この記事を読めば後醍醐天皇の行った建武の新政の内容と、その結果どうなったのかがきっとお分かりいただけることでしょう。

 

『建武の新政』を行った後醍醐天皇が即位するまで

後醍醐天皇

建武の新政を始めた後醍醐天皇は二度に渡って元が日本に侵攻してきた元寇の直後に第91代後宇多天皇(ごうたてんのう)の第2皇子としてこの世に生を受けます。

後醍醐天皇が生まれたときには既に鎌倉幕府が開かれており、さらに北条氏が鎌倉幕府将軍に代わって幕政を取仕切る執権政治が行われていた時代です。

また、朝廷では上皇による院政や天皇に代わって朝政を執る摂政・関白などの存在がいて、天皇の立場は低いところにありました。

 

後醍醐天皇の兄の第94代後二条天皇(ごにじょうてんのう)は27歳のときに感染症の病気を発症して病死し、皇太子の邦良親王(くによししんのう)はまだ9歳という幼さでした。

そのため、邦良親王が成人するまでの代役(中継ぎ)として後醍醐天皇が即位します。

 

後醍醐天皇による鎌倉幕府の倒幕と『建武の新政』の始まり

 

後醍醐天皇が天皇に即位した当初、彼にとってはとても政治がやりづらい状況にありました。

30歳に迫る年齢であるのに父親の後宇多上皇が3年間親政(天皇自身が政治をすること)を執ることを許さず、実質日本の行政を担っていたのは鎌倉幕府でした。

さらに鎌倉幕府も本来の機能を失い、執権が幕府を牛耳っていました。

そして世の中には悪党と呼ばれる武士がはびこっていて、日本国内は荒廃していました。

 

そこで、後醍醐天皇はいつしかこのような考えを抱くようになるのです。

「上皇からも幕府からも執権からも誰にも邪魔をされずに天皇(自分)中心の政治をしたい」。

それを実現するため、後醍醐天皇は倒幕計画を企てます。

 

1度目は幕府が後鳥羽上皇による承久の乱のような危機を繰り返さぬように設置された朝廷と公家を監視する六波羅探題(ろくはらたんだい)に露呈してしまい失敗に終わります。

2度目の計画は腹心によって六波羅探題に密告され、流刑に処されました。

六波羅探題とは
六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。主に朝廷の監視を行う機関。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。~wikipediaより引用

 

この間に後醍醐天皇が譲位する予定だった邦良親王が亡くなり、本来であれば皇位を譲らなければならない後醍醐天皇が譲位するのを拒否した為、鎌倉幕府が後醍醐天皇を廃位しようとします。

なぜ後醍醐天皇は邦良親王の死により廃位されそうになったか?
鎌倉時代の天皇家は大覚寺系の皇室と持明院統の皇室の二つがあり、後醍醐天皇は大覚寺系にあたります。
天皇の後継について、もし一方に正統後継者がいなければ、もう一方から天皇が擁立される取り決めになっていました。後醍醐天皇即位時、大覚寺系の正統継承者は邦良親王です。大覚寺系の正統後継者に皇位を継がせるためにその席を大覚寺系の皇子が埋めなければならないのでこのような人選になりました。
しかし大覚寺系の正統継承者の邦良親王が亡くなったので、本来ならば持明院統の正統継承者に皇位を譲らなければならないのに後醍醐天皇は譲位しなかったので廃位されかけたのです。

 

この廃位されそうになったことをキッカケに後醍醐天皇は挙兵し、鎌倉幕府に不満を抱いていた足利尊氏(あしかがたかうじ)新田義貞(にったのよしさだ)楠木正成(くすのきまさしげ)などの武士の協力を得て鎌倉幕府の倒幕に成功。

足利尊氏

新田義貞

楠木正成

後醍醐天皇はやっと自分の思い描いていた天皇中心の公家政権による政治を開始します。その政治こそ『建武の新政』です。

 

後醍醐天皇が行った建武の新政の全貌

 

『建武の新政』とは簡単に言うと、後醍醐天皇が開始した天皇を中心とする公家政権による政治です。

建武は漢の光武帝劉秀(こうぶていりゅうしゅう)が新の王莽(おうもう)を破って漢王室を復興させたときに改めた元号です。

後醍醐天皇は劉秀にあやかって、その元号を用いました。

『建武の新政』は建武という元号の年代に行われた新たな政治ということで建武の新政と呼ばれています。

 

それでは建武の新政で具体的にどんな政策がされたのかを下記に示します。

 

【建武の新政の政策】新しい公共機関の設置

 

中央機関(都に設置された機関)

記録所(きろくじょ)

記録所は、国政における重要な政治的会議を行うところです。

現代の国会議事堂のようなものと考えて差し支えありません。

 

恩賞方(おんしょうがた)

後醍醐天皇のもとで働く、倒幕に協力する、建武の新政で活躍した武士や公家に与えるための恩賞を司る機関です。

 

雑訴決断所(ざっそけつだんじょ)

鎌倉幕府が設置した機関の引付(ひきつけ)の仕事を継承した機関で、所領に関する裁判や事務処理をする機関です。

 

武者所(むしゃどころ)

京都の警備や治安維持を司る機関。現代の警視庁のようなものです。

 

地方機関

鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)

北条氏や鎌倉幕府の御家人、関東地方に住む御家人を監視し、統率するために設置された機関です。

本来設置された目的は鎌倉幕府の政治的痕跡を抹消するためでしたが、足利尊氏などの源氏方の武士たちから猛反発を受け、鎌倉幕府時代の侍所(武士が常駐する詰所)のような役割を担う機関となり関東圏の行政を担当しました。

 

陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)

奥州藤原氏や東北に住む御家人、蝦夷などを監視し、統率するために設置された機関です。

古代、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が設置して以来東北の重要拠点だった多賀城にこれを設置して東北の行政を担当しました。

 

国司(こくし)

全国各地に設置。

国の行政官として朝廷の官吏が派遣されて地方の行政を司った機関であり、役職です。

 

守護(しゅご)

全国各地に設置。

軍事指揮官や行政官が都から派遣され、地方の警備と行政を担当する機関であり、役職です。

国司と似たような役割ですが、形式的には国司の方が上位にあたります。

 

【建武の新政の政策】土地に関する命令の発布

旧領回復令(きゅうりょうかいふくれい)

かつて御家人は生活するために先祖伝来の土地を売ったり、借財をするために恩賞としてもらった領地を担保に入れて没収されてしまった例がありました。

旧領回復令はこれらの土地を御家人に返却するように促し、今後の土地売買を禁止した法令です。

 

寺領没収令(じりょうぼっしゅうれい)

寺院が所有していた荘園や領地を没収する法令。

 

朝敵所領没収令(ちょうてきしょりょうぼっしゅうれい)

北条氏や鎌倉幕府側についた武士たちの所有する領地を没収する法令。

 

誤判再審令(ごはんさいしんれい)

朝敵と間違って判断され、領地を没収された武士たちが再審を請求することをできるようにした法令です。

 

【建武の新政の政策】貨幣と紙幣の発行

建武の新政にあたり、後醍醐天皇は鎌倉幕府によって財政を牛耳られて長年できなかった皇宮の改修や造設を画策します。

そのためには、膨大な資金が必要だったので貨幣の鋳造はもちろんのこと、紙幣の発行も行います。

紙幣の発行は大量生産を可能にするための斬新な発想だったのですが、これは一般に出回る前に廃止されてしまいました。

 

【建武の新政の政策】土地の所有権の見直し

 

後醍醐天皇は天皇(自分)がすべての領地が誰のものであるかを把握しようとし、「その土地を誰が所有するかは、朕が決めることだ」ということで自ら土地の所有権の再確認と認可を行いました。

後醍醐天皇は《今後の土地の所有権の認可は詔勅(天皇が発行する証書)のみ》としてしまったので、土地の所有権を認めてもらおうと多くの人々が殺到しました。

 

土地の所有権の再確認をするだけでも膨大な量なのに、それに加えて詔勅を発行しなければならなかったので仕事がどんどん溜まっていきました。

また、再確認をした末に「やっぱり、この土地の所有権は認められないよ」と判断してもそれについての再審査を請求できる法令を出してしまったので、これまた大変なことになってしまいました。

 

建武の新政はまさに悪政!失敗ばかり

 

建武の新政を行った結果どうなったか?

結論を言うと建武の新政は大失敗です。

公家も武士も期待して後醍醐天皇に協力してようやく始まった建武の新政はわずか3年で瓦解してしまいます。

建武の新政が大失敗に終わってしまった原因は以下の5つが問題として挙げられます。

 

【光厳天皇(こうげんてんのう)即位と自分の退位を否認】

まず、建武の新政が始まる以前に後醍醐天皇は鎌倉幕府から再三に渡って譲位を勧められていました。

それは邦良親王が成人したからです。

本来中継ぎのための即位だったのですが「朕は絶対譲らない」と意地を張っているうちに邦良親王が死去してしまいます。

 

そのため、後醍醐天皇が倒幕計画を密告されて流刑になっている間、「都に天皇がいなくなるのは困る」ということで鎌倉幕府が即位させたのが光厳天皇です。

後醍醐天皇は自分が退位していないからということで、光厳天皇の即位と光厳天皇によって発布された法律や詔勅を無効にしてしまいました。

それによって困るのは朝廷の官吏や武士たちです。

一度認められた願い事や役職、与えられた任務などがなかったことにされてしまい失業する者まで現れました。

 

【後醍醐天皇自身の皇子や近しい者を出世させる人事】

後醍醐天皇は次期皇位継承者を差し置いて自身の皇子である恒良親王(つねよししんのう)を皇太子とし、自身の兄弟、親戚や仲の良い者たちを出世させたり国司に任命していきます。

そうしているうちに朝廷内で官吏同士がしばしば対立したり、公家の中にも不満を抱く者が現れました。

 

【トンチンカンな恩賞の与え方】

さらに酷かったのは建武の新政の恩賞です。

建武の新政では名だたる武将や有能な公家が活躍しました。

しかし、後醍醐天皇はそれらの者に恩賞を与えず、自分の好きな芸者や楽器の演奏者、不憫に感じた浮浪者などに恩賞を与えたのです。

その行為がたくさんの人々の怒りを買ってしまい、恩賞所の長官となった有能な貴族は自分がどんなに頑張っても報われないと悟って引退し、どんどん優秀な人材が朝廷からいなくなってしまいました。

 

【鎌倉幕府の法律の廃止と武家の慣例を否定】

鎌倉幕府の作った法律には優れたものもあったのですが、後醍醐天皇は武士が作ったものだからという理由でその一切を廃止して新たな法律を作ろうとしました。

今まで通用していたものが一気に変更されるといろいろな人が困ります。

さらに法案を作る現場のことを考えず、思い通りに法律を制定しようとしたのだから現場としてはたまったものではありません。

建武の新政期に法律を議決する議員たちのキャパシティを大きく上回って、法律の改訂や審議が強行されてグダグダになってしまいました。

 

また、先に記す土地の所有者の見直しと類似することころで、後醍醐天皇は武士の法律だった御成敗式目(ごせいばいしきもく)を否定します。

具体的には、武士が命を懸けて守ってきた領土に関する御成敗式目第8条「現所有者がその土地を20年間安堵(事実上支配していることを認められること)していたら、所有権は変更できない」とする慣例を無視したので武士から猛反発されました。

御成敗式目とは
御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令(式目)である。~wikipediaより引用

 

【後醍醐天皇自身が協調性に欠け、無計画だった】

建武の新政は天皇を中心とする公家政権という名目であったことは既に記述しました。

しかし、後醍醐天皇自身に協調性がなく、新たに政治に関わる官吏や擁護してくれている武士と仲良く立ち回ることができず、ほぼ後醍醐天皇の独裁政治でした。

 

さらに後醍醐天皇自身もキャパオーパーなのに自分がすべてを無理矢理掌握しようとしたため、仕事が遅延してどんどん周りからの信頼を失います。

それだけでなく、朝令暮改のような頻繁な政策変更やその場しのぎの採決などで朝廷内を混乱の渦に巻き込み、誰もついていけなくなり、建武の新政は崩壊することになりました。

 

まとめ

 

『建武の新政』後醍醐天皇足利尊氏(あしかがたかうじ)新田義貞(にったのよしさだ)楠木正成(くすのきまさしげ)などの武士の協力を得て鎌倉幕府を倒幕後、後醍醐天皇が行った天皇中心の公家政権による政治の事です。

 

後醍醐天皇によって行われた建武の新政では、新しい機関の設置、土地に関する命令の発布、貨幣や紙幣の発行といった経済政策、土地の所有者の見直しが行われました。

 

ただ、建武の新政ではたくさんの問題が発生しわずか3年で瓦解することになりました。

斬新かつ優れた政策もあったのですが、問題点の方が目立ってしまったため、後世では悪政の代表として取り上げられる政治となっています。










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