明治政府はなぜ廃藩置県をしたのか?廃藩置県に至った経緯とその理由







明治政府による明治維新の大改革の代表例に廃藩置県があります。

廃藩置県を簡単に説明すると『江戸幕府が置いた藩を撤廃してそのかわりに唐道府県を置いた』ということなのですが、

なぜそうする必要があったのか?

どのような経緯で廃藩置県が行うことになったのか?

それらについては一切教科書では教えてくれません。

 

本記事では廃藩置県が行われた経緯とその理由について綴ります。

 

廃藩置県とは何か?について詳しく説明

 

廃藩置県とは何か?について詳しく説明します。

王政復古の大号令により、江戸幕府が倒幕され江戸幕府将軍家から大和朝廷(天皇)に政権が返却された大政奉還ですが、政権が返却されてもなお地方の政治や人民を掌握していたのは江戸幕府によって設置された藩でした。

事実上藩主である大名が地方の政治や人民を動かす実権を握っていたのです。

これはいわゆる地方分権の体制が続いていたことを意味します。

 

明治政府は王政復古(大和朝廷もとい天皇が政治の日本の実権を握ること)を実現するために藩の存在が邪魔になっていました。

そのため藩(大名)を撤廃して都道府県を置き、明治政府から任命された都道府県知事をその地へ派遣して明治政府が実権を握る中央集権体制に切り替えようとしたのです。

これを廃藩置県と言います。

 

ロード・オブ・廃藩置県~廃藩置県の経緯~

明治政府は廃藩置県を行う前哨戦として西暦1869年の7月に版籍奉還(はんせきほうかん)を行います。

版籍奉還とは全国各地に点在する藩(藩主)が治めていた領地や領民の実権を大和朝廷(天皇)に返還させた大改革です。

大政奉還(江戸幕府将軍から天皇へ政権を返上)の藩(大名)バージョンと言えばしっくりくるでしょう。

 

明治政府は版籍奉還を藩主(大名)に行わせた後、これまで藩主(大名)だった者を「知藩事」に任じて政府が各藩を法的に統率する狙いがありました。

 

明治政府は藩(大名)による反乱が起きないよう、慎重にことを進めます。

まず手始めとして薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩といった有力な藩に版籍奉還を促しました。

日本人の性質として、有力なものや周りの人々に影響を受け、それになら習おうとする性質があります。

薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩といった有力な藩が難なく版籍奉還に応じた甲斐あってか、他の諸々の藩も版籍奉還に応じました。

 

藩(大名)の中には戊辰戦争や鳥羽・伏見戦争などの明治維新との戦いによって領民を統治する力を失っていた藩(大名)もあり、それらは喜んで版籍奉還に応じたそうです。

 

版籍奉還は大和朝廷(天皇)の中央集権体制への移行の第一歩となったのですが、実質地方を統治していたのは「知藩事」と役職を与えられた元藩主でした。

そのため、今まで慣例となっていた政治体制とほとんど変化がなかったのです。

そのため、明治政府は中央集権体制をより強固なものとするために廃藩置県に踏み切ります。

 

明治政府による廃藩置県の実行

 

西暦1871年8月、明治政府は元藩主だった各知藩事を皇居に召集して重大発表を行いました。

その重大発表というのが「全国の各藩を撤廃して明治政府が管理する県と府に置き換える」というもので、「廃藩置県」が公式に発令されました。

 

これは版籍奉還に続き、明治政府による中央集権体制の方針を明示したものです。

しかし、廃藩置県に対しては版籍奉還以上の反発があるだろうという危惧が予想されました。

そのため、重要な関係各所への根回しは徹底的に行われ、各藩に対しては秘密裏に話を進めていました。

 

特に薩摩藩最後の藩主島津久光は藩を廃止することには猛反対だったため、西郷隆盛や大久保利通など元薩摩藩士だった明治政府の官僚は直前まで廃藩置県の計画を漏らさず、それと同時に最悪の事態(島津久光による反乱)に備えて軍備を整えながらこの日を待ちました。

この頃の明治政府はまだ力が弱く、実際の政治や政策には明治政府があたっていたとしても、絶対的な命令を発令するには天皇の力に頼らざるを得ませんでした。

 

明治政府の目指す明治政府による中央集権体制の確立には徳川家康が江戸幕府を開いて以来約300年続いた幕藩体制を破壊することが終着点となります。

そのため、藩を廃することは避けては通れない事だったのです。

 

廃藩置県が行われたその後

廃藩置県が行われる以前は人に「あなたのお国はどちらですか?」と問えば、「私は薩摩です」、「私の国は長州です」というように藩名を答えるのが一般的でした。

そのため当時の人民は自分たちの総称は日本人ではなく、薩摩人や長州人といった言い方をしていました。

自分たちは藩(大名)のものという意識が根強く残っていたのです。

 

明治政府によって廃藩置県が行われると単に区画整理が行われるだけでなく、明治政府に権力を集中させる政治的意味と国(明治政府)が税収と土地を管理するという国政の体制ができました。

これによって人民たちの意識も変わり国に対して支払う税金を国税、自分たちは日本人で日本国民であり、明治政府が派遣した県知事、府知事が管理する○○県民だという意識が芽生えました。

 

まとめ

 

廃藩置県が行われた最大の理由は、大政奉還や版籍奉還をおこなっても明治政府が目標としていた明治政府による中央集権体制が実現できなかった為です。

明治政府としては江戸幕府が開かれてから約300年間続いた地方分権体制をなんとか打破する必要がありました。

 

この打開策として実施された廃藩置県では、過去の地方分権体制の要である藩を撤廃し、政府が管理する県や府が設置されました。

この廃藩置県により、幕藩体制は破壊されることになり、明治政府による中央集権体制が実現されることになったのです。












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