平安時代のあたりまで勉強すると「藤原」という名字が多く登場すると思います。
そのため「平安時代の貴族って藤原ばかりだな…」と思ったことはありませんか。
その理由はいったいなぜなのか、気になったことはありませんか?
本記事では平安時代頃の貴族に藤原氏が多い理由について説明しましょう。
藤原氏が多すぎで混乱する!なぜ名字が藤原ばかりなのか気になる!という方は是非読んでみて下さい!
日本史の教科書に必ず登場する藤原氏
たいていどこの出版社でも日本史の教科書には必ず藤原氏を掲載しています。
それでは具体的にどのような藤原氏が教科書に掲載されているのか、以下にまとめてみましょう。
- 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)旧名:中臣鎌足(なかとみのかまたり)
- 藤原不比等(ふじわらのふひと)
- 藤原時平(ふじわらのときひら)
- 藤原兼家(ふじわらのかねいえ)
- 藤原道長(ふじわらのみちなが)
- 藤原頼道(ふじわらのよちみち)
- 藤原純友(ふじわらのすみとも)
- 藤原秀郷(ふじわらのひでさと)
- 藤原秀衡(ふじわらのひでひら)
教科書に載っている藤原氏の復習
上に紹介した藤原氏がたいていの教科書に掲載されています。
しかし、ただ名前をあげただけではどのあたりに登場するのか、まったく想像ができないであろうと思います。
次に上記にあげた藤原氏がなにをしたのか、簡単に説明しますので日本史の授業を思い出してみてください。
藤原鎌足(ふじわらのかまたり)
藤原鎌足は旧名を中臣鎌足(なかとみのかまたり)といいます。
中臣鎌足といえば中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と協力し、日本史で最初に習う内乱の「大化の改新」で当時実権を握っていた蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺することに成功した人物です。
改新後も中大兄皇子(天智天皇)のもとで内臣(ないしん)に任じられ、政権を握りました。
藤原鎌足は藤原氏繁栄の礎を築いた人物と言われています。
藤原不比等(ふじわらのふひと)
藤原鎌足の息子で710年に平城京への遷都(せんと:都を移すこと)がなされたときに同時に発布した大宝律令(たいほうりつりょう)の編集者の一人です。
大宝律令とは現代でいうと法律のようなものです。
藤原時平(ふじわらのときひら)
太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)に祀られ、学業の神様となった菅原道真(すがわらのみちざね)をウソの罪を着せて陥(おとしい)れ、島流しの刑にするように仕向けた人物です。
藤原兼家(ふじわらのかねいえ)
藤原道長の父親で、天皇と娘を結婚させて天皇の代わりに政治を行う摂政や関白になった人物です。
藤原道長(ふじわらのみちなが)
兄弟同士の政治的な争いに勝利し、天皇と娘を結婚させて天皇の代わりに政治を行う摂政や関白になった人物です。
藤原頼道(ふじわらのよちみち)
藤原道長の息子で、10円玉の裏に描かれている平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建立(こんりゅう)した人物です。
藤原純友(ふじわらのすみとも)
藤原純友の乱のリーダーになった人物です。
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)
『藤原純友の乱・平将門の乱』の際に征夷大将軍に任命されてこれを鎮圧した人物です。
藤原秀衡(ふじわらのひでひら)
現在の岩手県奥州市を拠点として、巨万の富みと栄華を極めた人物です。
金色堂(こんじきどう)を建立(こんりゅう)したり、源義経(みなもとのよしつね)がまだ無名のころに援助していたことで知られています。
こうしてみると、藤原、藤原、藤原…と藤原氏ばかり。
「あれあれ、貴族って藤原氏ばっかりじゃない?」とついつい思いたくもなります。
どうしてこんなに貴族は藤原ばかりなのでしょうか?
本題である平安時代頃に藤原氏が多い理由について解説していきます。
理由1 天智天皇が藤原鎌足を尊敬していたから
中臣鎌足と協力して「大化の改新」を成功させた中大兄皇子は、その後皇太子となって改革を行っていきます。
中臣鎌足はそれの補佐をしていました。
そして、中大兄皇子は数十年後に天智天皇となります。
天智天皇は12歳年上だった中臣鎌足に全幅の信頼を寄せ、重用しました。
天智天皇が即位してから8年後、中臣鎌足は病気にかかり政治の道を引退します。
天智天皇は中臣鎌足のお見舞いをした際、それまでを功績をたたえて大織冠(だいしきかん:冠位十二階の最上級の官位)と当時の首都であった藤原京(ふじわらきょう)の「藤原」を名字として名乗ることを許しました。
中臣鎌足は藤原鎌足へと改姓し、その子供たちも藤原を名乗りました。
そして、藤原鎌足の子供たちを重要な官位に登用し、それを世襲させることを約束しました。
この出来事が藤原氏が繁栄することの基礎になったと言われています。
理由2 藤原氏の子供がたくさん生まれて世襲(せしゅう)したから
当時の貴族や天皇は、一夫多妻制といってひとりの男性に複数の奥さんを持つことができました。
この時代は偉い人の子孫を確実に残す繁栄させるという目的のために複数人の奥さんと子供をもうけることで、たくさんの子供を残しました。
その子供達が皆貴族となったので、また複数人の奥さんと結婚して子供をたくさん残します。
その子供がまたさらに…という具合にまるでネズミが繁殖していくように藤原氏の人々がどんどん増えていきました。
そして当時は世襲(せしゅう)制といって、父親の職業を息子が引き継ぐという制度が一般的でした。
そのため、藤原氏は自分の仕事を分割して子供たちに役職を与えたり、自分が退職した後は子供がそのあとを継いだため、貴族の大半を藤原氏が占めるようになりました。
理由3 藤原氏が天皇と娘を結婚させて摂政・関白の座についたから
藤原鎌足の死後、息子の藤原不比等の世代から藤原氏は天皇に自分の娘を結婚させて、より天皇との結びつきを強くしました。
また、当時の天皇家は母方の祖父が皇子の教育を請け負ったので、次期天皇陛下となる皇太子や皇子たちからすると貴族だった藤原氏が先生でありお祖父さんだったのです。
天皇の養育に携わったことで天皇陛下が「お祖父さんの言うことは正しい」という偏見を抱くようになる。
あるいは、当時の基本理念であった孝行の精神から祖父である藤原氏へ反論ができないという状況を作り出していたと考えられます。
理由4 藤原氏が裕福だったから
多くの奥さん、多くの子供がいるということはかなりの財力が必要になります。
実は貴族には藤原氏以外にも安倍(あべ)、坂上(さかのうえ)、菅原(すがわら)、菅(すが)、小野(おの)などという名字の方もいました。
しかし、どの名字の貴族も藤原氏に比べれば身分が低く、貴族の中ではお世辞にも裕福とは言えませんでした。
そのため、複数人の女性と結婚するのも限度があったし、子供の人数も計画的に調整しなければならなかったのです。
結果、他の名字の貴族たちは藤原氏よりも少ないという結果になりました。
理由5 藤原氏が貴族の人事を操作していたから
人事とは、組織や団体において職員の処遇を決定することを言います。
貴族の人事を決める大臣は藤原氏が代々歴任しました。
人間はどうしても自分と同じ出身地の人や家族、親戚を特別扱いしてしまう傾向にあります。
ましてや、島国である日本はそれが他の国々と比べても非常に強いと言われています。
また、他人よりも同族(家族や親戚)のほうが話しやすいし考えが一致しやすい=従わせやすいという結論に至ったので、同族が重要な地位につけるよう天皇にお願いしたり、その逆に他の人たちのことを悪く言って遠ざけたりました。
藤原氏が増えすぎたから〇藤さんが生まれた?
このようにして、貴族の中にどんどん藤原氏が増えると名簿を作ったり役職を任命する立場にあった天皇陛下もさすがに困ってしまいました。
名簿にある貴族の名字は藤原、藤原、藤原…。
そして名前に注目しても兄弟や親子で同じ漢字を一文字目に使って二文字目だけを変えたような名前が多くありました。
これでは藤原ばかりだし、似たような名前が並んであってどこの藤原氏かがわからなくなってしまいました。
そのため、時の天皇陛下は藤原氏に役職や住んでいる場所がわかるように名字を変えなさいという指示をします。
そして一番最初にこれに応じた藤原氏は左衛門尉(さえもんのじょう:貴族を取り締まる警察官の大臣)の仕事をしていたので、左衛門尉から一文字とって、藤原から佐藤に改めました。
次に木工寮(もくりょう:大工さんの大臣)をしていた藤原氏は職場の名前から工の字をとって工藤に、伊勢に転勤した藤原氏は伊勢の伊をとって伊藤に、近江に派遣された藤原氏は近藤に名字を改めました。
まとめ
貴族に藤原氏が多くなった理由について説明しました。
それでは最後にこの記事のおさらいをしましょう。
【藤原氏が多い5つの理由】
- 理由1 天智天皇が藤原鎌足を尊敬していたから
- 理由2 藤原氏の子供がたくさん生まれて世襲(せしゅう)したから
- 理由3 藤原氏が天皇と娘を結婚させて摂政・関白の座についたから
- 理由4 藤原氏が裕福だったから
- 理由5 藤原氏が貴族の人事を操作していたから
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