北条政子と言えば、日本史の教科書で必ず登場する女性の名前です。
北条政子は鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が伊豆で不遇の生活を送っていた頃から頼朝を一途に支え続け、彼の死後鎌倉幕府を守り続けて生涯を閉じた良妻賢母として知られています。
しかし、私は教科書に書かれている「良妻賢母」という説明がなんだか引っ掛かります。
なぜなら、北条政子には猛女伝説ともいえる逸話が多く残されており、母親や妻としては少々やり過ぎな行為が目立つからです。
本記事では尼将軍となる以前の前半生にあった北条政子の逸話、そして彼女の猛女伝説をお送りします。
北条政子と源頼朝の出会い!北条政子の結婚に関する逸話
北条政子と鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は誰もが知るオシドリ夫婦として伝承されています。
源頼朝はわずか11歳という若さで平治乱にて初陣を飾り、父の義朝(当時の源氏棟梁)と行動を共にするのですが、平清盛の妙策の前には全く歯が立ちませんでした。
そして戦場となった京都から屋敷のある坂東(関東)地方へ帰還する途中、家臣達から裏切られることになります。
入浴中に父である義朝は首をはねられ、頼朝は捕縛されて平清盛が住む六波羅へと護送されました。
平清盛はまだ幼い頼朝を憐れんで「殺すには忍びないから伊豆へ流して監視をつけよう」と言い、伊豆に土着した豪族に頼朝の監視を命じます。
それが政子の父、北条時政(ほうじょうときまさ)でした。
監視するという名目でしたが時政は頼朝に資金的な援助をしたり、時々政子を連れてきて一緒に遊ばせたり、武芸の稽古をつけてあげたりしていました。
それだけ時政も頼朝のことを憐れんでいて自分が父親代わりになろうと思っていたものと思われます。
頼朝が時政の監視下に置かれ始めたとき、政子はまだ2歳で10歳上の頼朝のことを兄と慕ってよく遊んでいたそうです。
しかし、政子も14歳になり女の子から大人の女性へと成長すると、いつの間にか兄と敬っていた心が恋心へと変じてしまいました。
頼朝もいつしか政子のことを愛するようになり、時政が知らぬうちに二人は恋人同士となっていました。
「こいつは大変だ!!監視役の娘がまさか監視対象の罪人と恋仲になるなんて。こうしちゃおれん」
ということで時政は政子と山下氏(伊豆に土着した有力な豪族)との結婚を勝手に決めてしまいます。
さらに政子を屋敷に幽閉して頼朝に会わせないようにしました。
そしてついに結婚前夜。
その日は嵐が伊豆へ上陸していて大雨と暴風が吹き荒れていました。
北条政子は悩みに悩んだあげく「やっぱり頼朝が好き」という気持ちが抑え切れられずに、嵐の中屋敷から抜け出して頼朝の住む屋敷までおよそ5時間かけて駆け抜けました。
女にここまでされて嫁に貰わないとあれば武士の名折れだと頼朝は正式に時政に政子との結婚を申し込みました。
時政も猛女たる自分の娘にはこれ以上非情な真似はできないと折れて頼朝と政子が結婚することを許可しました。
「頼朝には一夫多妻制は許さない!」という北条政子の逸話
当時の男性は身分が高ければ高いほど多くの女性と結婚する一夫多妻制が普通でした。
頼朝は政子のことが大好きだったのですが、多くの女性と結婚することは武士や貴族のステータスを表すもので、頼朝自身もたくさんの女性と結婚して多くの子供が欲しいと願っていました。
頼朝は平家を滅ぼし正式に天皇陛下から征夷大将軍を任命されたときに側室を迎える相談を政子に相談するのですが、「あなた、私に何か不満でもおありなのですか?」と睨みながら側室を迎えることを断固拒否しました。
そのときだけでなく頼朝は「部下のだれだれも側室が何人いる」たとか「我が父義朝公も3人いた」などと例をあげて説得しようとするのですが、「他所は他所、うちはうち」、「島流しにあって途絶えかけたのを助けたのは源氏ではなく北条家です」と頼朝の説得を論破してしまいました。
征夷大将軍でさえ妻に頭が上がらないとはバカげた話ですが、政子は頼朝が不遇の生活を送っていた頃から支え続けた妻だったので、頼朝も歯向かうことができなかったのです。
「浮気は絶対許さない!」政子復讐の逸話
断固として一夫多妻制を反対されていた頼朝でしたが、常日頃悶々としていたことは確かです。
そんな頼朝は政子が妊娠していたときにコッソリと愛人を作って浮気をしていました。
それが、なんと侍女伝いに政子にバレてしまいます。
頼朝が密通を重ねていた相手とは亀の前という女性です。
勝気で男勝りな政子とは違って亀の前はおとなしくて温厚な女性でした。
頼朝もそのような亀の前に自然と惹かれて行ってしまったのです。
本来であれば怒りの矛先は頼朝に向くべきですが、猛女政子は一味違います。
頼朝は亀の前に小さな屋敷を与えてそこに住まわせていたのですが、密告した侍女は屋敷の住所まで政子に聞かせました。
政子の復讐の炎はメラメラと燃え盛り、妊娠中の身でありながら侍女たちを数人連れて行って亀の前が住む屋敷を破壊し放火しました。
そのときの政子は終始笑顔で狂気の笑い声を周囲に轟かせながら屋敷を槌で殴って破壊しまくったそうです。
その形相たるや虐殺をする鬼と何ら変わりなかったと伝えられています。
出産後メスライオンと化した猛女政子の逸話
頼朝と政子は3男1女の子供たちがいました。
ふたりの初めての子供は女の子で名前を大姫と言いました。
政子は大姫を出産した後、頼朝に大姫を見せに行きました。
頼朝は初めて生まれた我が子を自分の胸に抱こうとして手を伸ばすのですが、政子はクルッと背中を頼朝に向けて「ダメです」と一言。
開いた口が塞がらず「なぜダメなのか?」と頼朝が理由を問いただすと、「この子にあなたの野蛮さがうつるので、触らないでください」と答えました。
今まで頼朝に一途だった政子ですが、出産後は子供に一途な母親と化してしまったのです。
しかしながらいくらを子供が好きだからと言っても将軍に対してそのような言動ができるのは猛女たる政子一人だけです。
頼朝が大姫を初めて抱っこすることができたのは大姫が3歳になってからのことでした。
そのときは政子が目を離した隙に大姫が、自分から頼朝に飛びついてしまったので不可抗力的に抱っこすることができたと言われています。
旦那に子供を3年間も触らせないとは、猛女政子の威厳が将軍頼朝よりも優っていた証拠かも知れません。
まとめ
- 北条政子は愛のために嵐の中を5時間も駆け抜ける
- 世間体をも顧みず一途に夫を愛して、愛人の存在は否定する
- 出産後は頼朝LOVEから一変して子供を愛し、まるでメスライオンのように子を守り続けた
北条政子の逸話の数々はいかがでしたか?
北条政子の史実を考えると、女性としては気が強かったということは容易に想像できますが、このような数々の逸話を残す程の猛女だったということは驚きだったのではないでしょうか。
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