白河天皇が始めた上皇に就任して政治を執る院政とはどんな政治?







平安時代は大変長い時代区分で、日本独自の文化が誕生したり武士が登場したりと本当にいろいろなことが起こりました。

その長い平安時代では時を経るごとに政治の実権を握る者が天皇→摂政・関白→上皇・法皇と移り変わりました。

 

本記事では上皇・法皇が政治の実権を握った『院政』という政治について解説します。

 

白河天皇が始めた院政とはなにか

『院政』は天皇陛下が天皇の座を息子や弟などの後継者に譲って上皇(正式名称:大上天皇、以降上皇と記載)に就任し、天皇の代わりに政治の実権を握った政治の形態です。

藤原氏が世襲してきた摂政・関白による政治(摂関政治)が衰退してきた平安後期から源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉幕府を開くまでの約100年間に渡って行われた政治で、史学上ではこのときの政治のことを院政といいます。

また、院政が行われていた時代のことを院政時代とも言います。

 

院政を始める白河天皇の生い立ち

 

院政を一番最初に行った天皇は第72代天皇の白河天皇(しらかわてんのう)です。

 

白河天皇は摂政・関白の地位について藤原氏の最盛期を迎えた藤原道長(ふじわらのみちなが)の4男能信(よしのぶ)の養女と後三条天皇(ごさんじょうてんのう)の第1皇子として誕生します。

その頃、父帝の後三条天皇は藤原道長の長男頼通(よりみち)から冷遇されていて、当時は天皇よりも摂政・関白の権力が強い時代でした。

 

そんな後三条天皇は悔しさからか摂関家(藤原氏)の影響力を削いでいくような政策を推し進めていきます。

おそらく歴代の天皇が藤原氏によって傀儡化されてきた仕返しをしようと考えていたのでしょう。

後三条天皇の摂関家(藤原氏)の影響力を削いでいくような政策に加えて、藤原氏から嫁いだ姫たちが子宝に恵まれなかったり、早世していったこともあり、徐々に摂関家(藤原氏)の力も衰退していきます。

そんなとき、徐々に衰退していった藤原氏に代わって要職に就いたのが村上源氏の人々でした。

白河天皇はちょうど摂関家(藤原氏)の力が弱まりつつある中で育ちました。

 

白河天皇は『上皇』に就任!院政の始まり

白河天皇

白河天皇が18歳になると父親の後三条天皇の譲位を受けて天皇に即位します。

当初は先帝(後三条天皇)の意向により、異母弟を皇太子とするのですが流行り病のために異母弟は死去します。

そのため、異母弟が死去した翌年に白河天皇はまだ8歳だった自身の長男を皇太子に任命するとともに、堀河天皇(ほりかわてんのう)として即位させ、自ら(白河天皇)は天皇よりも地位の高い『上皇』に就任します。

政治の「せ」の字も知らないような我が子を天皇に据えたのは最初から自分が政治の実権を掌握する目的があったのです。

 

院政のメリット

まず、院政を始めたことによるメリットとして挙げられるのが天皇の権限、義務の抜け穴をうまくくぐり抜けたことです。

藤原氏が世襲してきた摂政・関白は天皇の代わりに政治を執る役職です。

つまり摂政と関白は政治面で天皇陛下に口出しする権利があった訳なのですが、天皇よりも上位の存在である上皇になることで摂政・関白からの干渉を受けずに政治を行うことができたのです。

 

次にあげられるのは政治への専念です。

当時の天皇は政務と執るだけでなく国事行事の参加や儀式の主催、諸外国の外交官との交流、訴訟や審議の採決などの仕事があり多忙を極めました。

国事行事や儀式の主催などは天皇に任せることで上皇は政治に専念することを可能としました。

 

白河上皇による院政の内容

白河天皇が院政を始めた最大の目的は、税金資産運用の問題解決のためでした。

当時の日本は『律令制』によって治められていました。

その律令では日本全土と日本国民はすべて天皇のものということが大原則です。

領地を治め、そこに住む人民を直接貴族が支配し、その貴族を天皇が支配するというのが律令制の在り方です。

ところが資産や知識があった貴族は必要性や権利を主張したり道理を捻じ曲げてでも蓄財と資産形成に励もうとします。

貴族たちは天皇の目が行き届かないところで私有できないはずの土地を自分のものとしていたのです。

 

荘園問題の解決

上記のように貴族たちが自分のものと主張した土地の事を『荘園(しょうえん)』と言います。

荘園では年貢を取り立てる権利や管理・運営する見返りとして手数料を徴収する権利、またそれらを認めてもらえるように有力な貴族に口利きしてもらうための賄賂などそういったものがいくつも積み重なるようにして設定されてゆき、貴族に得のあるシステムが確立されました。

 

荘園が増加していくと、本来天皇に入るはずの収入が貴族たちに吸い上げられていくので国家の収入が減ってしまいます。

これに困った天皇側は度々荘園の整備を行ったのですが、白河上皇は特に奇抜なアイデアでこの荘園対策を行いました。

 

白河上皇は仏教に帰依し法皇となって寺を建立し、その寺に荘園を持たせたのです。

つまり、官営の企業を創設し、その企業が売り上げた利益を国庫に入れるようなことをしました。

そして、国司という役職に自分の息のかかる貴族を任命して見返りとして相応の税を課すということもしました。

これにより、自身が管理する荘園国司が管理する公領2つのルートで収入を得るシステムを確立したのです。

 

北面武士の設置

また、軍事面では比叡山延暦寺の僧侶から都を守るために北面武士を設置しました。

北面武士には桓武平氏の平清盛(たいらのきよもり)の祖父平忠盛(たいらのただもり)が任命されました。

これ以降、天皇家は平氏を重用するようになりこれが平氏の出世に後々関わることになります。

 

皇位継承を掌握

さらに白河上皇は皇位継承を操作するようになります。

自身の息子堀河天皇が若くして崩御すると、その息子(白河上皇の孫)を鳥羽天皇(とばてんのう)に即位させます。

鳥羽天皇は5歳で天皇となったので、もちろん実権は白河上皇が握りました。

 

それ以降も白河上皇は後三条天皇との約束を反故にして異母弟に皇位を譲ることをせずに冷遇しました。

また、天皇が成人して政治に興味を示すと天皇を廃して自分に逆らわない者を天皇につけました。

 

有能な人材の登用

白河上皇による院政では、当時役職が世襲されるような風潮を完全に無視して低い身分の出身でも実力があれば相応の役職に登用されました。

院政がなければ当時日本で最高峰の学者だった信西(しんぜい)が政治顧問となることも平氏が台頭することもかなわかかったでしょう。

 

まとめ

 

白河上皇による院政は摂関家(藤原氏)から政治の実権を取り戻したり、国庫の財政難の解決や皇位継承権の操作、実力主義な人材登用が行われました。

白河上皇が作った院政は皇室が財力を集めて貴族以上の支配階層の頂点に返り咲くための現実的な政治体制だったのです。










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