自由民権運動の主導者の命を狙った『板垣退助遭難(暗殺未遂)事件』とは?







「板垣死すとも自由は死せず…」

あなたはこのフレーズに聞き覚えはありませんか?

明治維新にて自由民権運動を主導した板垣退助(いたがきたいすけ)は自身が主催する「国民の自由」をテーマとした講演会で命の危機に遭遇しました。

 

この事件は板垣退助遭難(暗殺未遂)事件、もしくは岐阜遭難事件として日本史の教科書や資料集に掲載されています。

本記事ではその板垣退助遭難(暗殺未遂)事件について解説いたします。

 

自由民権運動を主導した板垣退助

板垣退助(いたがきたいすけ)は元土佐藩士の政治家であり、行政面だけでなく軍事面でも優れた才能を発揮した人物です。

幕末には土佐勤王党を結成して尊王攘夷運動に参加し、戊辰戦争では土佐藩士を率いて参謀として活躍して天皇の政権奪還に尽力しました。

そして明治維新では重要なポストを歴任し、自由民権運動を主導して現在の自由民主党(自民党)の前身となる自由党を作りました。

 

板垣退助がいなければ今の自由民主党(自民党)は元より、我々が当たり前のように思っている自由な言動や人生の選択、国会議員の選挙などはもっと後の世に実現していたことでしょう。

 

板垣退助遭難(暗殺未遂)事件の詳細

 

自由民権運動

板垣退助遭難(暗殺未遂)事件の当日、西暦1882年4月6日、板垣退助は「国民の自由」をテーマとする自身が主催の講演会に出席するため、岐阜県を訪れていました。

 

講演会は岐阜県内のとある寺の境内を貸切って野外で行われました。

会場が岐阜県だったため、板垣退助遭難(暗殺未遂)事件は別名岐阜遭難事件ともいわれますが、本記事では板垣退助遭難(暗殺未遂)事件として一貫します。

 

板垣退助による講演会は自由民権運動の一環として行われており、板垣退助は故郷の高知県を拠点として全国各地、特に地方を中心として精力的に活動しました。

板垣退助は民衆に向け「国民は自分の人生を自分で考えて自分で決める権利がある」と国民の自由について力説していた最中に事件は起こります。

 

聴衆に紛れていた30代の男が刃渡り27センチの短刀を持ち、「将来の賊」と叫んで突然壇上にいた板垣退助に襲いかかりました。

板垣退助はとっさに犯人が握っていた短刀を右手でおさえこみ、何とか急所を避けました。

その後犯人ともみ合いになり左胸と右胸に1か所ずつ、左頬に1か所、右手に2か所、左手に2か所の計7か所を負傷するも同じく自由民権運動に参加していた同胞たちがすぐに駆け付け、犯人をその場で取り押さえました。

 

その後板垣退助は息も絶え絶えに倒れこみ、助け起こした同胞の竹内綱(たけうちのつな)に「吾死するとも自由は死せず」と話して意識を失ったとされています。※諸説あります

 

犯人は警察に身柄を引き渡され、深手を負った板垣退助は宿泊予定の旅館に緊急搬送されました。

深手を負いながらも幸い命に別状はなく、板垣退助は意識を取り戻し数カ月後には再び自由民権運動に奔走しました。

 

板垣退助遭難(暗殺未遂)事件の犯人

 

板垣退助の命を狙い板垣退助遭難(暗殺未遂)事件を起こした張本人は、なんと小学校にて熱心に子供たちを指導する30代の小学校教員でした。

その者の名前は相原尚褧(あいはらしょうけい)と言いました。

 

この相原尚褧は板垣退助遭難(暗殺未遂)事件の裁判で同年1882年に無期懲役の判決をうけることになりますが、1889年には大日本帝国憲法発布の恩赦として釈放されます。

相原尚褧は釈放後に板垣退助の元を訪れて謝罪をしたとされ、板垣退助は罪を許したとされています。

 

犯人が板垣退助を暗殺しようとした動機

板垣退助遭難(暗殺未遂)事件の犯人となった相原尚褧が板垣退助を殺害しようと行動を起こした動機は当時の日本の教育方針が大いに関わっています。

日本は文明開化のため軍隊や儀礼、医学などを真似たのが現在のドイツであるプロイセンです。

 

プロイセンでは鉄血政策が行われており、富国強兵のため国民が総出で経済活動と軍事を担い、子供たちの教育の現場にも軍隊式のスパルタ教育が取り入れられました。

プロイセンの大人たちは子供たちが将来軍人となって国に貢献し、上官に忠実な兵士に育て上げるべく洗脳じみた思想や考えを押し付けて型にはめようとしました。

 

余談ではありますが、日本が男子に学ラン(学生服)を女子にセーラー服を制服として着せたのはプロイセンが学生の制服に海軍の軍服を採用したからです。

そのため、我々が着ていた懐かしいあの制服はもともと軍人が戦争で戦うために着用していた服だったのです。

 

そして明治政府もプロイセンの教育方針を導入したので日本の教育現場では教師が文字通り教鞭をとり、成績がよくない生徒や授業態度がよくない生徒を教鞭で叩き、恐怖心を与えて子供を従わせるような指導が行われていました。

その様子は体罰を超えて虐待の域に達しており、学校の先生に叩かれて骨折する生徒もいたほどです。

 

以上のようにして子供たちに自分たちの思想を植え付け、型にはめようとする教育が当たり前に行われていた時期に板垣退助は「自由を」と力説するのですから、当時の教員からしてみれば板垣退助は自分たちの存在を全否定する邪魔者でしかありませんでした。

板垣退助遭難(暗殺未遂)事件の犯人となった相原尚褧は板垣退助が子供たちに悪い影響を及ぼすと考え、板垣退助を殺害することを企てたのです。

 

まとめ

板垣退助遭難(暗殺未遂)事件は自由民主党の前身となる自由党を作り、自由民権運動を主導した板垣退助を小学校教員だった相原尚褧が暗殺しようとして未遂に終わった事件です。

当時もしこの暗殺が成功していたならば、現代の日本では当たり前のことである「国民は自分の人生を自分で考えて自分で決める権利がある」という板垣退助の主張が根付くまでに時間がかかっていたかもしれません。










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