日本全国!主な戦国大名の城一覧【城主・築城年数・城の場所】







日本全国には戦国大名が築いた城が改修や復元されながらお城か城跡として後世に伝えられています。

本記事には日本全国にある主な戦国大名の城と築城された年を一覧化していますので、観光する際のリサーチにお役立てください。

 

仙台城(せんだいじょう)

城主:伊達政宗(だてまさむね)

仙台城は築城1600年、伊達政宗(だてまさむね)によって築城されました。

青葉山に建てられたことから青葉城とも呼ばれています。

主な城主は伊達政宗、息子の伊達忠宗(ただむね)、歴代仙台藩主です。

仙台城は明治維新による廃藩置県を行われるまで代々伊達家が居城としました。城の三方向を広瀬川と竜ノ口が囲む天然の要害です。

天守はありませんが、本丸御殿が立ち並んでいました。残念ながら、戦争の際仙台空襲の影響で大半が焼失してしまい、建築物として残っているのは昭和期に復元された脇櫓のみです。

石垣や本丸の柱を支えていた土台は城跡として現在も残っています。

住所:〒980-0862 宮城県仙台市青葉区天主台 青葉城址

米沢城(よねざわじょう)

城主:直江兼続(なおえかねつぐ)

米沢城は築城1238年。伊達政宗が生まれた城です。

米沢城の主な城主は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の奥州仕置(おうしゅうしおき)により伊達政宗から蒲生氏安(がもううじやす)となり、蒲生氏の転封後、上杉景勝(うえすぎかげかつ)の命で直江兼続に与えられました。

その後、関ケ原の戦いで徳川家康(徳川家康)と敵対した上杉氏は米沢城に左遷され、それ以降上杉景勝、上杉鷹山(うえすぎようざん)を始めとする歴代米沢藩上杉氏が城主となり居城としました。

 

米沢城は米沢市のほぼ中心地にあります。

米沢藩は減封された藩だったため土塁と水堀を多用し、節約しながら築城されました。

天守はなく、本丸を中心としてその周りを二の丸、三の丸、櫓を建てられました。

本丸の南東には上杉謙信(うえすぎけんしん)を祀る祠堂が建てられ、戦後まで上杉謙信公の遺骸が安置されました。

住所:〒992-0052 山形県米沢市丸の内1丁目4 米沢市丸の内1丁目4−13

春日山城(かすがやまじょう)

城主:上杉謙信(うえすぎけんしん)

春日山城は築城1346年。

南北朝時代に越後守護職だった上杉氏が越後府中の詰め所として築城した城です。

主な城主は当初鎌倉・室町幕府の越後守護の上杉氏でしたが、1507年に長尾氏によって上杉氏が追放され、以来長尾氏が城主となりました。

その後、長尾為景(ながおためかげ)、晴景(はるかげ)、景虎(かげとら:後の上杉謙信)、上杉景勝の親子4代が居城としました。

 

春日山城は上越市中央にある春日山の山頂に築かれた巨大な山城です。

本丸の周囲には5~6kmの範囲内に10の砦が築かれ、200以上もの曲輪があったと言われています。

さらに城全体を空堀や土塁で取り囲む総構えと呼ばれる防御線が張られていて、その他にも大井戸、山の中腹から麓にかけて家臣の屋敷跡があります。

住所:〒943-0802 新潟県上越市中屋敷他

江戸城(えどじょう)

城主:徳川家康(とくがわいえやす)

江戸城は築城1457年。

江戸時代までは江城(ごうじょう)と呼ばれることが一般的だったようで、別名千代田城とも言います。

江戸城の主な城主は当初江戸氏が城主となっていましたが、北条早雲による関東の争乱で上杉氏が城主にとって代わりました。

その後、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原城攻めで開城し、1590年に徳川家康が駿府から江戸に移封されて城主となります。

徳川家康が江戸幕府を開いて以来、歴代徳川将軍家が居城としました。

また、大政奉還以降は天皇陛下が居住する皇居となっています。

 

江戸城は徳川家康が入城してから段階的に改修が行われ、江戸幕府が開幕する頃には日本最大の城郭となりました。

本丸を中心として天守閣、二の丸、三の丸、西の丸、番所(武士が駐屯する館)が大小、旗本直臣の屋敷、蔵、馬屋、大奥が築かれ、ここまでが内郭と呼ばれています。

さらに、外郭には大名屋敷、将軍家お抱えの僧侶の邸宅、寺院、評定所、北・南町奉行所、小普請屋敷などが軒を連ねました。

かつて外郭と呼ばれた場所には現在、警視庁、読売新聞本社、大手町駅、日本銀行など大手企業や官公庁が建てられています。

住所:〒100-8111 東京都千代田区千代田1 千代田区千代田1−1

小田原城(おだわらじょう)

城主:北条氏政(ほうじょううじまさ)

小田原城は築城年不明。

当初の小田原城主は大森氏でしたが、1500年頃北条早雲が大森氏を滅ぼして入城、国と城を簒奪しました。

それ以来は北条氏康(うじまさ)、氏政(ほうじょううじまさ)氏直(うじなお)の親子三代が城主となり居城として繁栄させました。

小田原城は難攻不落、無敵の城とも呼ばれ、かの武田信玄(たけだしんげん)や軍神上杉謙信(うえすぎけんしん)でさえ陥落させることができませんでした。

小田原城の最大の特徴は豊臣秀吉の小田原城攻めに対抗するために築かれた、総延長約9kmに及ぶ土塁と空堀で総構えのスタイルをとっています。

小田原城の総構えの規模は日本一を誇っています。

 

北条氏が滅亡すると、小田原城の城主は徳川家康の直臣だった大久保氏になります。

その後、大久保氏が改易されたことにより、小田原城は取り壊されてしまいましたが、その後に入った稲葉氏によって再建されました。

江戸中期になると再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道の関所を控えた関東地方の防御の要として役割を果たしました。

住所:〒250-0014 神奈川県小田原市城内6

上田城(うえだじょう)

城主:真田昌幸(さなだまさゆき)

上田城は築城1583年。

尼ヶ淵の断崖の側に建てられ、北に太郎山、南に千曲川に面して建てられた自然の防御が固い城です。

唯一の攻め口だった東側には蛭沢川と湿地帯があり、攻めにくい城でした。

 

上田城の主な城主は真田昌幸が初代当主となって真田信之(さなだのぶゆき)が転封されるまで真田氏が城主になり、居城としました。

江戸時代以降は上田藩の歴代藩主が城主となり、居城とします。

真田昌幸は、第一次・第二次上田合戦で上田城に立て籠もり、徳川家康の大軍を撃破しました。

住所:〒386-0026 長野県上田市二の丸6263−イ

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)

城主:武田信玄(たけだしんげん)

躑躅ヶ崎館は築城1519年。

甲斐国守護武田氏の場合は城ではなく館を居城としました。

そのため、武田信虎、武田信玄、武田勝頼は家臣たちから「お館様」と呼ばれました。

躑躅ヶ崎館は南北朝時代に甲府という府中(守護所)に定められました。

 

東西を藤川と相川に囲まれ、居館と家臣団屋敷や城下町が一体となっています。

館の周囲は石垣、土塁、水堀、空堀に囲まれており、幾重にも防御線が張られていました。

現在は屋敷の面影はなく、石垣や水堀が残されています。

大正8年に躑躅ヶ崎館跡には武田信玄を祀る武田神社が建立され、地元民や観光客で賑わっています。

住所:〒400-0014 山梨県甲府市古府中町2611

駿府城(すんぷじょう)

城主:徳川家康(とくがわいえやす)

駿府城は築城1586年。

元は今川義元の居城があった今川館跡に徳川家康駿府城を築城し、浜松城から移って居城とし初代城主に徳川家康がなりました。

それから4年後小田原城攻めの結果、東海地方のほとんどは豊臣秀吉の所領となり、徳川家康は東海地方を手放す代わりに関東一帯に国替えしまします。

 

駿府城は中村氏、内藤氏が城主を務め、1607年に大改修をおこない、徳川家康は晩年の隠居先として駿河城に入って城主となります。

このことから、駿河城は通称「大御所」と呼ばれることになりました。

それからは徳川家忠(とくがわいえただ)の次男徳川忠長(とくがわただなが)が初代静岡藩主となり、居城としました。

 

駿府城の特徴は城の周囲を3重構造の水堀が取り囲み、7階建ての天守がありました。

現在では焼失してしまった天守は四周一辺あたりが48~55mの城郭史上最大のものでした。

住所:〒420-0853 静岡県静岡市葵区駿府城公園 静岡市葵区駿府城公園1−1

岐阜城(ぎふじょう)

城主:斎藤道三(さいとうどうさん)、織田信長(おだのぶなが)

岐阜城は築城1201年。かつては稲葉山城と呼ばれていました。

稲葉山城の頃は斎藤道三が城主で居城としましたが、その孫の斎藤龍興(さいとうたつおき)の時代に織田信長が攻め落とし、城の名前を岐阜城に改名しました。

岐阜城の城主には織田信忠(おだのぶただ:信長の長男)、信孝(のぶたか:信長の三男)、豊臣秀勝(とよとみひでかつ)、織田秀信(おだひでのぶ:信長の孫)が歴代城主を務めます。

徳川家康が将軍となると岐阜城は廃城され、機能を失いました。

 

岐阜城は急こう配な稲葉山の山頂に作られ、難攻不落の城と評判でした。

関ケ原合戦の前哨戦では、徳川家康に攻め入られて落城。

その際に岐阜城の天守と櫓などは分解して移動されました。

現存する岐阜城は昭和31年に全国から募金を得て復元されたもので、鉄筋コンクリート造りの3層4階構造です。

住所:〒500-0000 岐阜県岐阜市天主閣18

清州城(きよすじょう)

城主:織田信長(おだのぶなが)

清州城は築城1405年。

斯波義重(しばよししげ)によって築城されました。

本能寺の変の後、清州会議が行われた城でもあります。

当初は尾張守護の斯波氏が歴代城主でしたが、織田信長が尾張統一を果たし、那古野城から移って大改修を加え入城し城主となりました。

清洲城は古くから伊勢街道、京都・鎌倉を結ぶ街道の拠点となり、交通の要でした。

関ケ原合戦の後は徳川家康の9男忠吉(ただよし)が入城して城主となり、清州藩の本拠地となりました。

 

1619年に清洲城は名古屋城の築城のための資材とするため、廃城され解体されてしまいました。

現存する清洲城は平成元年に復元されたものです。創建当時の設計図や絵画が残されていなかったため、規模や外観は安土時代の様式を想像して建てられました。

住所:〒452-0932 愛知県清須市朝日城屋敷1−1

金沢城(かなざわじょう)

城主:前田利家(まえだとしいえ)

金沢城は築城1580年。

佐久間盛政(さくまもりまさ)が築城しました。

その後、前田利家が領有して高山右近(たかやまうこん)が大改修を行います。

前田利家が加賀藩に封じられてからは歴代加賀藩主の前田氏が城主となり、居城とします。

 

金沢城は、かつて五重の天守や櫓が連なる壮大な城でした。

天守は開幕直後に落雷によって焼失され、それ以降は造られることはありませんでした。

金沢城の特徴は、五十間長屋と呼ばれる長さ90mに及ぶ三の丸。

板で作った屋根に鉛板を張った鉛瓦葺き、城の壁面に瓦を貼り、その継ぎ目に漆喰をかまぼこ型に盛った海鼠壁(なまこかべ)です。

住所:〒920-0937 石川県金沢市丸の内1 金沢市丸の内1番1号

小谷城(おだにじょう)

城主:浅井長政(あざいながまさ)

小谷城は築城1523年。

標高495mの小谷山の尾根を利用した山城で日本五大山城のひとつです。

浅井家が歴代城主を務め、居城としており、織田信長によって浅井長政が討たれた際に焼失しました。

現在は城跡として石垣が残っているだけで、建築物はありません。

小谷城の見どころは本丸の石垣、首据石、馬洗池があります。

住所:〒529-0313 滋賀県長浜市湖北町伊部

佐和山城(さわやまじょう)

城主:石田三成(いしだみつなり)

佐和山城は築城年不明。

織田信長の配下の丹羽長秀(にわながひで)や石田三成が城主となり、居城としました。

石田三成は大改修を行って山頂に五層の天守を築きました。

 

関ケ原の戦いの後、佐和山城は徹底的に取り壊され、その一部がゆるキャラブームに火をつけたひこにゃんをマスコットキャラクターとする彦根城を築城するための資材として使われました。

佐和山城跡には石垣と土塁しか残っていないのですが、彦根城の近隣にある石田三成のテーマパークにて小さな佐和山城が再現されています。

住所:〒522-0007 滋賀県彦根市古沢町

安土城(あづちじょう)

城主:織田信長(おだのぶなが)

安土城は築城1576年。

織田信長が築き、日本で最初の天守を構えました。

安土城の初代城主は織田信長、本能寺の変の際は蒲生氏が留守居役となり、清州会議以降は織田秀信が城主となり、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が関白に就任すると廃城されました。

琵琶湖に面した要害で、五層地上6階、最上階は金箔で装飾された壮麗かつ派手な城でした。

 

安土城の大きな特徴としては、攻め憎い設備や建築物が極端に少ないことです。

このことから、安土城は守る城というよりも、人々の往来がしやすい、荷物が運びやすいというような経済や政治面を重視した機能を持たせていたものと考えられています。

住所:〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 近江八幡市安土町下豊浦6371

伏見城(ふしみじょう)

城主:豊臣秀吉(とよとみひでよし)

伏見城は築城1592年。

豊臣秀吉が隠居後の住まいとするために築城しました。

水運により大阪と京都を結ぶ交通の便のよい立地に建てられた城です。

 

初代城主は豊臣秀吉、その次は豊臣秀頼(とよとみひでより)がなりました。

それ以降は徳川家康の手に渡りましたが、特に城主は定められず大名や将軍が京都へ参内するときに滞在する居館として利用され、初代将軍の徳川家康から3代の家光までは伏見城で征夷大将軍の宣下が行われました。

家光の代で二条城と伏見城の両方を維持するのは困難ということで、廃城されるに至りました。

住所:〒612-8051 京都府京都市伏見区桃山町大蔵 京都市伏見区桃山町大蔵45

大阪城(おおさかじょう)

城主:豊臣秀吉(とよとみひでよし)、秀頼(ひでより)

大阪城は築城1583年。

大阪湾に面した上町台地の北端にあり、以前は石山本願寺がありました。

大阪冬の陣、夏の陣では大阪城が戦いの舞台となり、豊臣氏が籠城しました。

その際、大砲を撃ち込まれたり矢を射かけられたりして落城しました。

 

大阪城の初代城主は豊臣秀吉、次は秀頼、その次は徳川家康の外孫である松平忠明が城主となって初代大阪藩を興します。

しかし、忠明に与えられた仕事は大阪の町を復興することで、それが完了すると大阪藩は廃止されて、大阪城は徳川将軍家のものになりました。

そのため、城主は歴代将軍ということになっていますが、実際に居城としたのは城代(じょうだい:城主代行の役職)に就いた大名です。

大坂城は第二次世界大戦時に大坂大空襲で多くの櫓を失いましたが、天守閣はかろうじて破壊を免れました。

その後、天災などの影響で損害を受けたことで本格的な補修工事が施されました。

住所:〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城1−1

姫路城(ひめじじょう)

城主:黒田如水(くろだじょすい)、池田輝政(いけだてるまさ)

姫路城は1346年、1580年、1601年と幾度となく築城されました。

白漆喰総塗籠造(しらしっくいそうぬりごめづくり)という造りで、白く美しい姿から白鷺城(しらさぎじょう)とも呼ばれています。

 

当初は赤松貞範(あかまつさだのり)が姫山に城を築き、後に池田輝政が城主となって現存する姫路城を造営しました。

姫路城は江戸幕府が開かれるまでに黒田如水、豊臣秀吉などの有名な武将が歴代城主に就任し、江戸時代には姫路藩の藩主が歴代城主を務め、池田氏、本多氏、榊原氏、酒井氏が入れ替わりながら居城としました。

姫路城には曲輪、堀、石垣以外にも狭間、石落とし、隠し部屋など城自体にも攻めにくい工夫が施されています。

住所:〒670-0012 兵庫県姫路市本町68

岡山城(おかやまじょう)

城主:宇喜多秀家(うきたひでいえ)、小早川秀秋(こばやかわひであき)

岡山城は築城は14世紀であることしかわかっていません。

豊臣秀吉が身内同然に厚遇した宇喜多秀家が秀吉の指導の下で築城し最初の城主となります。

宇喜多秀家が関ケ原合戦で敗れ流罪となった後は、小早川秀秋が移封され城主となりました。

小早川秀秋は岡山城を3度に渡り、大改修を行いました。

江戸幕府の政権下では岡山藩の府城となり、歴代岡山藩主の池田氏が代々城主となりました。

 

岡山城には四重六層の天守が築かれ、黒い屋根と黒い城壁のフォルムがまるで烏が翼を広げているように見えることから別名「烏城」、「金烏城」とも呼ばれています。

それ以外にも江戸時代初期に建てられたと言われる月見櫓が増改築されながらしっかり残されており、国で指定された重要文化財となっています。

住所:〒700-0823 岡山県岡山市北区丸の内2丁目3−1

月山富田城(がっさんとだじょう)

城主:尼子晴久(あまこはるひさ)、義久(よしひさ)

月山富田城は築城が1156年。

鎌倉時代に築かれた古い城で山陰地方の覇者尼子氏が6代に渡って城主を務め、居城としました。

天然の地形を利用した山城の中では最も難攻不落の城であり、あまりに攻めにくいことから「天空の城」の異名をとりました。

尼子十旗と呼ばれる支城と、尼子十砦と呼ばれる城砦が周囲に築かれていました。

住所:〒692-0403 島根県安来市広瀬町富田

高知城(こうちじょう)

城主:山内一豊(やまのうちかずとよ)

高知城は築城1601年。

山内一豊によって大高坂山に築かれました。

江戸時代には土佐藩の府城となり、歴代土佐藩主の山内氏が城主となり、居城としました。

江戸初期に建てられたとが言われる四重六階の天守、本丸御殿が現存(天守と本丸御殿が両方現存しているのは高知城ただひとつ)しており、追手門までもが現存(天守と追手門が現存するのは日本で3つだけ)する珍しい城です。

住所:〒780-0850 高知県高知市丸ノ内1丁目2−2−1

宇和島城(うわじまじょう)

城主:藤堂高虎(とうどうたかとら)

宇和島城は築城1596年。

藤堂高虎が入城して近世城郭へと改装をしました。

城の外郭が不均等な五角形となっていてところどころに築城の名手と呼ばれた藤堂高虎らしい工夫が施されています。

伊達政宗の長男秀宗(ひでむね)が移封され、三重三層の望楼型天守を建て、それが現在まで残されています。

また、宇和島城は江戸時代宇和島藩の府城となり、歴代の宇和島藩主が城主となって居城としました。

住所:〒798-0060 愛媛県宇和島市丸之内1丁目1

吉田郡山城(よしだこうりやまじょう)

城主:毛利元就(もうりもとなり)

吉田郡山城は築城1336年。毛利時親(もうりときちか)が築きました。

その後毛利元就が拡充し、代々毛利氏が城主となり居城とします。

吉田郡山城は可愛川と多治比川の合流点、標高400Mの郡山山頂に本丸を置き、吉田盆地を見下ろすようにして建てられた中国地方最大の山城です。

周囲には、270もの曲輪が配置されていました。

 

毛利元就はこの城で、亡くなる寸前に「兄弟、一族が結束して生きてゆきなさい」という「三本の矢」の教訓を語り亡くなりました。

吉田郡山城跡には毛利元就の墓と毛利一族の墓があります。

住所:〒731-0501 広島県安芸高田市吉田町吉田

熊本城(くまもとじょう)

城主:加藤清正(かとうきよまさ)

熊本城は築城1607年。出田(いでた)氏が築いた城を加藤清正が大規模改修しました。

扇の勾配がある高石垣、連結式の大天守と小天守、天守を模した櫓など築城を得意とした加藤清正らしい趣向をところどころに施されている名城です。

加藤氏の改易後、江戸時代の大半は細川氏が熊本藩主となって歴代の藩主が城主となり、熊本城主になりました。

 

記憶に新しい熊本大地震では石垣の一部が崩れてしまいましたが、築城の名手加藤清正の設計によって建てられた本丸と御殿は倒壊しませんでした。

明治時代に勃発した西南戦争の舞台となったことでも有名です。

住所:〒860-0002 熊本県熊本市中央区本丸1−1

名護屋城(なごやじょう)

城主 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

名護屋城は築城1591年。豊臣秀吉の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に際し築かれた城です。

築城された当時は五重天守や御殿が建てられ、周囲には城下町が作られました。

豊臣秀吉が死去し大陸侵攻が中止となると、建物は解体されて唐津城に移築されました。

 

江戸時代には、島原天草一揆の後、同じように城に立て籠もられては困るということで石垣が破壊され、部分的にしか残っていません。

歴史上人為的に破壊された石垣ということであえて復元はされず、そのままの状態で保存されています。

住所:〒847-0401 佐賀県唐津市鎮西町名護屋

まとめ

 

今から400~500年前に築かれた戦国武将が居住したと言われているお城は後世の建築家や政治家によって改修されたり復元されてきました。

また、大変レアケースですが、熊本城や姫路城など今なお一部の改装がされたのみでほとんどは当時のままといったお城もあります。

 

ちなみに現在の皇居(江戸城)周辺のお堀や川辺の石垣は江戸時代初頭に徳川家康が諸藩に建築を義務づけて作られたものです。

苔が生えて、白や赤褐色に変色した石垣はその当時のものです。

その石垣をよく見ると家紋がくっきりと確認できるものもあります。

 

本記事で紹介したお城の中には残念ながら戦火や天災、都市開発の影響を受けてなくなってしまったお城もありますが、城跡になっても観光名所となっています。

こちらの記事を参考に是非お城観光をしてみてはいかがでしょうか。










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