西暦1639年、江戸幕府はキリスト教国の人及び日本人の出入国を禁止し、貿易を管理、統制、制限した政策を行ったとされています。
皆さまご存じの通り、これが『鎖国』です。
江戸幕府が鎖国をした理由は、《江戸幕府がキリシタンを日本国内から排除するため》というのが一般的な理解だと思います。
しかし、今まで常識だった上記の説は鎖国政策の本当の理由ではないようなのです。
では、日本が鎖国をした本当の理由とはなんでしょうか?
この記事では日本が鎖国をした本当の理由について説明していきます。
一般的に学習する鎖国
その時には、キリシタンを見分けるために絵踏みなどを行って無視矢理にキリスト教から改宗までさせてました。
以上が学校教育で学習してきた鎖国に関する内容でしょう。
「鎖国令」なる法律はそもそも存在しない
島原の乱ではたくさんのキリシタンが寄り集まって江戸幕府を脅威に陥れたのは確かなことですが、「鎖国令」という名前の法律はそもそも存在していません。
日本人が海外へ渡航、もしくは海外にいた日本人が日本へ入国することを禁止したり、ポルトガル船の入港を禁止するなどの法律が段階的なステップを踏んで5回出されていますが、キリスト教のみを警戒したわけではありませんでした。
実際、鎖国が始まってもオランダと中国は長崎の出島で貿易することができていました。
もし、ポルトガル人による布教活動だけが好ましくないのなら、外国人が日本人へキリスト教を布教することを禁止する法律を出してしまえばよかったのです。
しかも鎖国後は何故かオランダ以外の欧米諸国とは貿易をしていません。
これって不思議だと思いませんか?
鎖国はオランダが仕組んだ罠だった!?
早めに結論を示すことにします。
実は鎖国は東南アジア圏で商売をしようと企んでいたオランダの罠だったのです。
ひとことで片づけてしまえば江戸幕府はオランダの商人にハメられてしまったわけです。
ではなぜオランダは江戸幕府を騙して鎖国をさせようとしたのでしょうか?
戦国時代に種子島へ流れ着き、日本へ鉄砲を伝えたとされるポルトガルはその数年後にキリスト教の布教活動を行うと、それ以降はアジアでの交易を日本とマカオ間に主軸を置きました。
一方日本人たちは鉄砲や南蛮由来の商品を求めてポルトガルと貿易しながら、中国や朝鮮との朱印船貿易を展開しアジア各地に拠点を構えていました。
意外かも知れませんが、江戸時代に入る前には既に山田長政(やまだながまさ)という人物がタイにジャパニーズタウンを築きました。
この頃の日本人は鎖国という字が似合わないほど世界に足を延ばしていました。
そのまま海外へ展開し続けていたら、日本人は今頃英語やスペイン語をペラペラに話せていただろうし黒船の大砲に腰を抜かすこともなかったと思います。
少し脱線してしまいましたが、とにかくポルトガルが日本とマカオの架け橋となり、日本は独自にアジア各地に貿易の拠点を持っていました。
そのアジア圏の貿易に無理矢理オランダは割り込んできました。
東インド株式会社で知られるオランダの貿易商ですが、当時は新興国でアジア圏の貿易に自分たちが参入するためにはどうしてもポルトガルや日本の存在が邪魔だったのです。
鎖国の本当の理由はアジア圏から日本・ポルトガルを追い出したかったから
オランダの利益は、日本とポルトガルから見れば不利益であり、日本とポルトガルの利益はオランダの不利益でした。
オランダに利益をもたらすためには「日本に鎖国させること」が最善の手段だったのです。
しかし、当時はまだ伊達政宗や前田利家、島津義弘など海外でも猛将と聞こえるイケイケな武将たちが存命の世の中、そのなかで妙な画策をしていることがその武将たちにバレてしまえばオランダ人もただでは済まないはず。
それではどのように作戦を実行したのかというと、日頃の洗脳作戦です。
戦国時代を知らない自称「俺は生まれながらの将軍」と言い放った3代徳川家光(とくがわいえみつ)にチクチクと
- 「ポルトガルと貿易するのは危ないよ」
- 「僕たちオランダは安全だよ」
- 「オランダはちゃんと約束を守りますよ」
などといって営業をかけて洗脳していったのです。
オランダが日本に鎖国を促すために吹き込んだこと
オランダの商人たちはとても狡猾でした。
切り札となる情報を握って将軍に近づき、オランダの方がポルトガルや他の欧米諸国よりも優れていることをプレゼンしました。
第一は「オランダはキリスト教の布教活動をしません」という約束。
というよりは、オランダは布教活動をする意思自体がさらさらなかったのです。
オランダがポルトガルとスペインが「日本人を洗脳しているから危険です」と主張していたとする記録さえ残っています。
第二にちょうどこの頃、現タイで日本人がスペイン人に襲撃された事件。
オランダはこの情報をいちはやくキャッチし、「ポルトガルとスペインは隣同士だから、ポルトガルも同類だよ。日本人に危害を加えちゃうよ」と地理的な位置を例に出してポルトガルを酷評しました。
第三の切り札は「人身売買の密告」。
ポルトガルは日本人をさらったり、買い付けたりして海外へ売り飛ばす人身売買を行っていました。
ポルトガルはこのような人身売買によって私腹を肥やしていたので、過去には時の天下人、豊臣秀吉が怒りを爆発させてポルトガルからやってきた宣教師たちを都から追放したこともあります。
しかし、江戸幕府が開かれてもなおポルトガルによる人身売買は密かに続けられていたのです。
これを知ることになる江戸幕府も当然のことながらポルトガルへの反感を強めていきました。
そして鎖国を始める一番のキッカケになった事件である『島原の乱』が勃発します。
これ幸いと動いたのは当然のことながらオランダでした。
オランダは江戸幕府へポルトガルを排斥するように訴え、江戸幕府はそれに応じることになります。
そしてポイントなのが、一般的に鎖国令と言われている5回発布された法律の内容についてです。
その内容とは、主にポルトガル船の入港禁止、ポルトガル人の入国禁止、日本人が海外渡航(入出国)をすることを禁じたのみでした。
もしも他の国が交易しようと持ち掛けて来たのなら交渉次第で貿易関係を結ぶことは可能だったのです。
鎖国したというよりは江戸幕府がメインの貿易相手を選んだだけ
実際に西暦1672年にイギリスの貿易船が日本へ入港したことがありました。
しかし、オランダは事前に
「もうすぐイギリスの人たちがここに来るみたいなのですが…イギリス王室とポルトガル王室は姻戚関係にありましてね。もとはポルトガルの女が生んだ子が治めている国ですよ。気をつけてくださいね」
と江戸幕府に密告したそうです。
その甲斐あって、江戸幕府はオランダの言うことを鵜呑みにしてイギリス船を追い返しました。
するとどうでしょう?
他の欧米諸国の間ではこのような噂が飛び交います。
「日本はポルトガルともイギリスとも貿易しないって。それじゃあ俺たちの国も貿易できないね」
というような噂が立ち、貿易相手の国の候補から自動的に外されてしまったのです。
オランダは日本の貿易拠点を乗っ取っていた
日本は江戸幕府の出した日本人の入出国を禁じた法律のせいで、ほとんどの貿易拠点を手放すことになりました。
オランダはそこにまんまと商館を建てて、もともと日本の貿易拠点だった場所を乗っ取ってしまいます。
さらにオランダは度々ポルトガル船を襲っては、その船に積んでいた荷物を転売して利益を貪っていました。
このようなオランダの悪い面を日本は知らずにオランダに貿易独占権を与えてしまうのです。
まとめ
そもそも鎖国令と称する法律はなく、日本が鎖国することになってしまったのはすべて江戸幕府がオランダの罠にハマってしまったからです。
そして実質上の鎖国状態に陥ってしまったのは、江戸幕府が日本人の渡航を禁じた法律を出したことや、メインの貿易相手を決めてしまったことがあげられます。
歴史研究が進み、歴史学会では「鎖国というものはなかった」という議論が展開されています。
もしかしたら、ゆくゆくは鎖国という言葉が死語になるかも知れません。
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