日本史を彩る女帝の歴史!歴代の女帝の能力、魅力、カリスマ性に迫る!







日本は長い歴史のなかで7人もの女性が女帝として頂点に君臨しました。

その7人の女帝とは

  • 邪馬台国の女王《卑弥呼》
  • 第33代天皇《推古天皇》
  • 第35・37代天皇《皇極(斉明)天皇》
  • 第41代天皇《持統天皇》
  • 第43代天皇《元明天皇》
  • 第44代天皇《元正天皇》
  • 第46.48代天皇《孝謙(称徳)天皇》

 

これだけの女帝がいたことは世界的に見ても異例なことで、お隣の中国なんかは唐代に活躍した則天武后(そくてんぶこう)が中国史上最初で最後の女帝だと言われています。

 

男尊女卑の風潮が根強いなかで、女帝はどのような能力や魅力、カリスマ性などで人々を束ねたのでしょうか。

本記事では上記にあげた7人の女帝のうち4人をピックアップし、日本史上を彩る女帝の能力、魅力、カリスマ性に迫ります。

 

占いの能力を頼るため擁立された女帝《卑弥呼》

卑弥呼

日本史上では単独の王として最も古い女帝は邪馬台国の女王《卑弥呼(ひみこ)》です。

卑弥呼は魏から親魏倭王の称号を贈られるなど海外からも認められた女帝です。

 

卑弥呼が女帝として即位するまでの日本は倭国争乱と呼ばれる約500年間も続く乱世でした。

ところが卑弥呼が即位すると、ものの10数年ほどでその乱世が幕を下ろします。

この卑弥呼が人々を束ねるために使った手段と言われているのが占いです。

 

卑弥呼の神がかった占いの能力は十中八九的中し、それを見聞きした豪族たちは争うことなく臣従することを誓い、平和的に解決していきました。

また卑弥呼が即位することとなった経緯については邪馬台国を形成していた村々の長老たちが会議を行い、十分に検討した上で卑弥呼を女帝に擁立したと伝えられています。

 

そのため、一般的には卑弥呼が占いによって国民を治めたというのは“近からずも遠からず”といった見識であり、実際のところは卑弥呼を取り巻く大人たちが巫女としての卑弥呼の占いの能力を頼っていたというのが正しいと言えるのです。

 

血縁関係、人間関係を頼られた女帝《推古天皇》

推古天皇

推古天皇(すいこてんのう)は大和政権(天皇家)としての歴史を見たときに史上初と伝えられる女帝です。

推古天皇は蘇我氏(そがし)の企みによって即位させられた女帝だったのですが「あなたの好きにはさせないわ」と言わんばかりに蘇我氏をうまく牽制しながら天皇家の威厳を生涯守り続けた立派な女帝です。

 

まず、なぜ蘇我氏が推古天皇を日本史上初の女性天皇に仕立てたのかについてです。

政治に関わる発言力などが欲しかった蘇我氏は、あの手この手で自分の娘を天皇家に嫁がせ、皇子を生ませることに成功します。

そして、やっとのことで蘇我氏が即位させたこの皇子、用明天皇(ようめいてんのう)ですが、即位してからわずか2年で崩御してしまいます。

 

その次に即位した崇嵯天皇(すしゅんてんのう)は蘇我氏の娘が生んだ皇子ではありません。

そのため、目の上のたんこぶだった崇嵯天皇を蘇我氏は暗殺します。

ところが、もう適任の男子が蘇我氏側にはいませんでした。

そのため、やむを得ず姪であった推古天皇を即位させたのです。

 

推古天皇の甥である聖徳太子があまりにも偉大すぎて、推古天皇の活躍はあまり目立つことはありません。

しかし、聖徳太子に冠位十二階の制度を考えるように指示したのも、法隆寺を建立するように命令したのも推古天皇です。

 

もともと蘇我氏は血縁関係を頼りにして推古天皇を即位させたのですが、推古天皇は聖徳太子を代表とする反蘇我氏の豪族を登用していたことから見ても、反蘇我氏の豪族たちからは人間関係を頼られていたと推測できます。

 

皇位争い防止の安全装置になった女帝 《皇極天皇(斉明天皇)》

皇極天皇

皇極天皇(こうぎょくてんのう)は蘇我氏を誅殺した「乙巳(いつし)の変」の主導者、中大兄皇子の実母です。

一時退位して弟に皇位を継がせるもその跡目だった中大兄皇子が即位を辞退したため、再度皇位に就きました。

 

皇極天皇が即位する際は、皇室内は混乱していました。

まず推古天皇の跡を継ぐはずだった聖徳太子が推古天皇在位中に病死。

聖徳太子の嫡男で次期天皇に最も近かった山背大兄王(やましろのおおえのおう)蘇我入鹿(そがのいるか)の陰謀により自殺。

皇極天皇の息子の中大兄皇子、実弟、腹違いの息子など次期天皇の候補者が多くてこれでは皇位継承権を巡る争いが起きるのは時間の問題…。

という状況にまで追い込まれていました。

 

その状況下の中で適任と判断されたのが次期天皇候補者からみても母と姉という権威を持つ皇極天皇でした。

皇極天皇が即位したことで皇子たちは逆らうことができず、次期天皇が中大兄皇子に確定したので兄弟間、親戚間で火花を散らしていた緊張感は一気に鎮まりました。

 

次期天皇が成人するまでのピンチヒッター《持統天皇》

持統天皇

日本史における女帝の中には次期天皇が成人するまでのピンチヒッター的な役割を担った女性がいます。

その代表例といえるのが天智天皇(てんちてんのう)の娘にして天武天皇(てんむてんのう)の皇后だった持統天皇(じとうてんのう)です。

持統天皇は宮廷詩人(きゅうていしじん)と評されるほど詩歌の才能に溢れ、万葉集には額田王(ぬかたのおおきみ)という名前で歌が入選しています。

 

その持統天皇は実質上、女帝として単独で政務を執った初めての人物でもあります。

天武天皇と持統天皇との間には草壁皇子(くさかべのおうじ)という一粒種の皇太子が生まれました。

 

西暦846年、病に倒れた天武天皇は政務を執ることができなくなり、皇位を継承したいと思っていました。

しかし、皇太子の草壁皇子はそのとき19歳です。

「世間をよく知らないわが子には天皇は荷が重いだろう」ということで、自分を常に支えて政務を補佐していた妻の持統天皇に「皇太子が一人前になるまではお前と皇太子が共同で政務を取るように」という遺言を残して崩御します。

それから2年3ヶ月は天皇空位のまま、持統天皇と皇太子の親子による共同政治を行われました(持統天皇はこのころまだ天皇に即位していません)。

 

しかし、持統天皇を悲劇が襲います。

西暦869年に皇太子の草壁皇子が22歳という若さでこの世を去ってしまったのです。

皇太子の皇子は軽皇子(かるのみこ)といい、当時まだ7歳でした。

 

次期天皇とするにはあまりにも若すぎるため、軽皇子は皇位継承者の候補から外されかけます。

「それでは私の子孫が皇位を継げない」と危機を察知した持統天皇は軽皇子が成人するまで自ら天皇に即位します。

持統天皇は夫の天武天皇が目指した政治の実現と計画を完遂させることだけを忠実に引き継ぎ、孫の軽皇子が15歳で元服すると惜しみもなく譲位しました。

持統天皇から皇位を継承された軽皇子は後に文武天皇(もんぶてんのう)となります。

 

まとめ

 

故人たちはかつて女帝の魅力とカリスマ性、その能力に頼って度々ピンチを切り抜けました。

記事に取り上げた女帝たちは以下のような力を頼られて政治に参加しました。

  • 卑弥呼→巫女としての占いの能力
  • 推古天皇→血縁関係や人間関係
  • 皇極天皇と持統天皇→母や姉としての権威
  • 持統天皇→子孫に皇位を継承させる為









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