壬申の乱とは
西暦672年6月、日本古代史上最大の大乱が幕を開けます。
それが《壬申の乱》です。
《壬申の乱》は天智(てんち)天皇の死後、その弟の天武天皇(大海人皇子(おおあまのおうじ))と天智天皇の息子である大友皇子(おおとものおうじ)が皇位継承権を巡って争った内乱です。
壬申の乱は一言でいうと以上のように言いきれてしまうのですが、本記事では壬申の乱をより詳しく説明するために一部始終とその原因をお送りします。
壬申の乱が起きたときの日本の状況
西暦670年代の日本情勢は改新の詔によって宣言された方針をもとに日本の国の体制を整えていこうとしているその過程にありました。
その状況下で日本古代史上未曽有の大乱《壬申の乱》が起こります。
最初に結論を言ってしまうと、壬申の乱を引き起こした原因は2つの要因が存在します。
そのひとつは当時の東アジアの情勢。
もうひとつは天智天皇(中大兄皇子)、天武天皇(大海人皇子)兄弟の確執。
この2つが壬申の乱の原因と言い切れます。
天智天皇は弟の天武天皇をライバル視していた
天武天皇(大海人皇子)は幼名を漢皇子と言いました。
当時の皇子に着けられる幼名は誕生地かまたは養育した氏族にちなんだ名前が使われます。
天智天皇は幼名を葛城皇子(かつらぎのおうじ)というので、誕生地を使われたと推測できますが、天武天皇の場合はおそらく漢(中国)から渡来してきた氏族がその養育に当たったものと考えられます。
天智天皇が天武天皇の存在を意識し始めたのは西暦645年に起きた「乙巳(いつし)の変」の直後だと考えられます。
飛鳥にあった都を難波へ遷都していることからそれが読み取れます。
乙巳(いつし)の変についてはこちらの記事で解説しています。
日本史上初の改革 大化の改新とはどんな改革?簡単にわかりやすく解説!
当時の難波は中国や朝鮮との貿易船が行き交う商業都市として栄えていました。
渡来系氏族に養育された天武天皇はその地で中国や朝鮮の使臣をもてなす役に就いています。
それゆえに天武天皇は若い時分から国際情勢を冷静に見極められる目を養ってきたのです。
天智天皇・天武天皇の兄弟間で確執が生まれた原因は?
天智天皇が中臣鎌足(なかとみのかまたり)と協力して成功させた乙巳の変の後、孝徳天皇と当時中大兄皇子と名乗っていた天智天皇は改新政治を始めました。
そのとき大海人皇子と名乗っていた天武天皇は朝議に出席し、落ち着いた物言いと大人(大物)の風格を漂わせていました。
そのとき弟がまさかここまで立派になっていたとは思ってもいなかった天智天皇は突然のライバルの出現に困惑しました。
しかし、ここで一枚上手だったのが天智天皇の腹心中臣鎌足です。
天武天皇を懐柔して共に協力して日本を変えていこうと手を取り合わせました。
実は中臣鎌足も天武天皇の存在を意識し始めていたようで、無理にでも味方に引き入れた方がよいと考えてのことでした。
さらに天武天皇の力は増していき、やがて天武天皇の影響から日本は百済一辺倒な外交をするようになります。
百済(くだら/ひゃくさい[1]、旧字体:百濟、4世紀前半 – 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。~Wikipediaより引用
そうすることが得策でないと考えた天智天皇はそれに対抗するため中臣鎌足を窓口として新羅とも外交を行いました。
新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。~Wikipediaから引用
また、天智天皇は何度も天武天皇を試そうとしています。
それは斉明(さいめい)天皇の崩御の後、すんなり即位しなかったことからわかります。
天智天皇としては天武天皇がここで自分に対して謀反を起こせば迷いなく排除するつもりでした。
ところが天武天皇は動きませんでした。
それにより、自分に害がないことを悟った天智天皇は母親の跡を継いで天皇に即位します。
しかし、天智天皇が推し進めていった改新政治に不満をもつ豪族が数多くいたのも確かです。
天智天皇が即位して近江に遷都したときは主要都市だった飛鳥、奈良、大坂のあたりの豪族から反感を買いました。
天武天皇は天智天皇の反対派閥の代表となって天智天皇の政策に反対意見を述べるようになりました。
それがもとになって兄弟の仲に溝ができはじめ、溝はどんどん深くなっていきます。
天武天皇が一時即位を辞退した原因
天武天皇は《壬申の乱》を起こす前に天智天皇からの譲位を辞退しています。
天智天皇は弟の天武天皇に皇位を譲ることを当初は約束していたのですが、自分の息子である大友皇子が成長すると大友皇子に位を譲りたいという親なりの考えが出始めました。
しかし、大友皇子の母親は身分が低く、当時そうした身分の低い母親から生まれた皇子が天皇に就くことは難しかったのです。
まして天武天皇には有力な豪族からの人望があったのでなおさらです。
天智天皇は西暦671年に病床に伏した折、弟である天武天皇を呼び出して
「自分の病は重くなるばかりだ。これからは自分に代わって政治を執ってくれないか?」
と打診するのですが、持病を理由に天武天皇はこれを辞退しました。
「自分の代わりを務めろ」と本心で言うのなら、同年の正月に天智天皇に代わって政治を執る役として大友皇子を任命しないはず。
天武天皇は自分の命が危険にさらされていることを見抜いたのでしょう。
皇后の倭姫(やまとのひめ)を次期天皇に、そして大友皇子を皇太子にすることを勧めて自らは病気療養のため出家することを願い出て吉野に隠遁します。
しかしこれは命惜しさのためにとった一時の策であり、その実は壬申の乱を企てるための計画期間としました。
壬申の乱の一部始終
やはり乱がおきるにはそれなりの理由があります。
日本は西暦663年に白村江(はくそんこう)の戦いに参加して大敗を喫しました。
白村江の戦いは唐と新羅の連合軍が百済へ侵攻したのを日本が百済救援のために無理に加勢した戦いでした。
実際日本は上陸する前に唐や新羅の船団に返り討ちにされ、大半が海の底に沈んでしまったという惨劇です。
そして、日本は近江の国に百済からの遺民を受け入れました。
そのような背景もあり、もし天智天皇の息子である大友皇子が天皇に即位すれば百済遺民に手を貸し、今度は唐と組んで新羅を攻めることが考えられました。
一方の天武天皇は白村江の戦いで痛手を負った日本がまたもや戦乱に巻き込まれて泥沼化することを防ぎたいと考えていました。
さらに骨肉の争いを避けてまずは国内の安定をはかることを第一にするべきだとも考えていました。
そんな中、大友皇子が不穏な動きを見せます。
先ほどの章に示したとおり倭姫(やまとのひめ)を次期天皇に大友皇子を皇太子にして天智天皇がこの世を去るのですが、大友皇子が周辺豪族を巻き込んで無理矢理自分が皇位に就くことを認めさせたのです。
これを知った天武天皇は吉野を脱出し、東国で挙兵して大津京へ攻め入りました。
大津京へ駐屯した近江軍を天武天皇の東国軍は撃破して、大津京を陥落させました。
そして大友皇子を追撃すると大友皇子は自害しました。
大友皇子が自害して即座に天武天皇は天皇へ即位を果たすことになります。
壬申の乱は都がひとつ落ちるほどの大乱だったので、古代史上前代未聞の大乱でした。
まとめ
日本史上未曽有の大乱となった天武天皇と大友皇子間の皇位継承を巡った壬申の乱。
その壬申の乱を引き起こした原因は以下の2つです。
- 天智天皇と天武天皇の兄弟仲が悪かったこと
(天智天皇が一方的に天武天皇を敵視してから始まったが、後に天武天皇は兄への反抗勢力の代表となって敵対した)
- 唐・新羅・百済と日本の関係性が不安定だったこと
(百済救援のための白村江の戦いの後、それまで懇意にしていた百済難民を日本が受け入れたため、新羅との関係がギクシャクしはじめた。新羅は日本と唐が手を結んで復讐されることを恐れて使臣を派遣し、監視させていた。)
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