源頼朝(みなもとのよりとも)が平家を滅ぼし、日本は本格的に武士の世(武家社会)に突入しました。
その頃、庶民たちを惹きつけてやまない仏教の宗派が誕生します。
それは、法然(ほうねん)が開いた浄土宗です。
本記事では、浄土宗開祖法然と浄土宗の基本理念たる浄土信仰について解説します。
浄土宗の基本理念 浄土信仰とは

浄土信仰は仏教の本場インドではなく、中国で生まれた信仰です。
隋から唐の時代にかけて、中国では浄土信仰が草原を焼き尽くす炎のように全土へ広がりました。
浄土信仰の浄土とは仏国土(ぶっこくど)とも言い、仏たちがそれぞれの誓願を立てて作ったと言われる理想郷のことです。
特定の仏を信仰し、その浄土に生まれ変わろうという願いを起こすのが浄土信仰です。
浄土信仰には道安(どうあん)という中国の僧侶が提唱した「弥勒菩薩の浄土信仰」と、慧遠(えおん)という同じく中国の僧侶が説いた「阿弥陀仏の極楽浄土信仰」の2系統がありますが、日本に上陸した頃には阿弥陀仏の極楽浄土信仰に集約されます。
浄土信仰は口称念仏(くしょうねんぶつ)が大事

中国での浄土信仰を率いたのは曇鸞(どんらん)という僧侶です。
曇鸞は「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」の念仏観に基づき、初めて口称念仏を確立した僧侶です。
口称念仏とは「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」や「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
というように信仰する経典の題目を口頭で唱えたり、念仏を唱えることを指します。
曇鸞は「大集経(だいじっきょう)」に注釈を加えている最中に病に倒れ、道士の陶弘景(とうこうけい)を訪ねて病を治してもらい、そのとき不老不死の仙人の経典を授かります。
帰路、曇鸞はたまたま天竺出身の僧侶ボーディルシと出会い、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれて無量の寿命を会得、自ら仏となる道があるという教えに出会いました。
そして彼は仙人から授かった経典を捨てて浄土信仰に帰依し、研究にいそしみます。
曇鸞は一般の人々が極楽往生(極楽浄土に生まれ変わって住むこと)するためには、《他力》つまり阿弥陀仏の力にすがるほかはなく、そのために「南無阿弥陀仏」と口で念仏を唱える口称念仏が必須であると解き明かしました。
曇鸞は晩年を石壁玄中寺(せきへきげんちゅうじ)にて過ごし、その寺には曇鸞の極楽浄土信仰の教えが碑文として残されました。
それから一世紀後、道綽(どうしゃく)という中国の僧侶がその碑文を読んで念仏の教えを知り、浄土信仰に帰依しました。
そしてその弟子の善導(ぜんどう)は中国全土に浄土信仰を広めて中国浄土教を大成しました。
日本で浄土宗を開いた法然は、善導の著書「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」を読み、浄土の教えに開眼しました。
浄土宗の開祖《法然》の出家と求道

法然
鎌倉時代に入り武家社会が本格的に始まると、法然が浄土信仰の教えを体系化し、浄土宗を開きます。
法然は漆間時国(うるまときくに)という美作国(みまさかのくに)の治安を維持する押領使(おうりょうし)の息子として生まれましたが、法然が7歳のとき、その父は部下の反逆にあって亡くなります。
そのとき、父は法然に決して仇討ちをしないこと、出家をすることを言い残してこの世を去ります。
法然は父の遺言通りに出家し、比叡山延暦寺の皇円(こうえん)という僧侶を師事して天台学を学びました。
次には平安末期に浄土信仰を広めた良忍(りょうにん)の弟子叡空(えいくう)に師事し、教えを受けました。
法然の学問に対する意欲はなおも衰えず、京都や奈良の学僧を訪ねては解脱(この世の苦しみから解き放たれること)の道を究めましたが、求める結果は得られませんでした。
浄土信仰に帰依し浄土宗を立ち上げる法然
ある日、法然はひとり経蔵にこもって本を読んでいると、とある一文に出会います。
その一文に出会った法然は、まるで雷に打たれたような衝撃が走りました。
それは先に示す善導が記した「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」の一説です。そこには、
「一心に阿弥陀仏の名号(みょうごう)を唱えれれば、阿弥陀仏はその人のことを決して見捨てず、極楽浄土へ救いとるであろう。なぜならそれが、阿弥陀仏の立てた誓願だからだ」
と書いてありました。
法然は人類の努力の限界を思い知り、「知恵も学問も捨てて、ただひたすらに阿弥陀仏を唱えれば仏のほうから救ってくれるのだ」と悟りました。
法然は比叡山を下山して人々に専修念仏(せんじゅねんぶつ)を説きました。
事実上の浄土宗の立派です。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも平等に極楽浄土へ行けるという単純明快なその教えは瞬く間に日本全土へと広がっていきました。
法然の浄土宗は天台宗や真言宗から潰されそうになった

法然の開いた浄土宗は他の宗派である天台宗や真言宗の寺院からしてみれば、今まで自分たちが積み上げてきたものを脅かす存在でした。
浄土信仰を掲げ、急速にその信仰を広げつつあった浄土宗に対して旧勢力(天台宗や真言宗)は恐れを抱きます。
そしてそんな旧勢力(天台宗や真言宗)は朝廷や幕府に要請して法然とその弟子たち計8名を島流しの刑に処し、他4名を死罪に処すことに成功します。
法然は浄土真宗の開祖となる親鸞(しんらん)とともに四国へ流されましたが、先々で浄土信仰の布教活動を行いました。
その翌年には恩赦によって流罪が解かれ、それから4年後、法然は80年の生涯を閉じました。
まとめ
浄土信仰とは、「ひたすら南無阿弥陀仏を声に出して唱えれば、阿弥陀仏が極楽浄土へ救いとってくれる」という信仰です。
日本に浄土信仰を爆発的に広めた法然は浄土宗を開き、以上のスローガンを掲げて庶民たちに浄土信仰を布教しました。
浄土信仰の教えは、めんどうな(お金のかかる)儀式や難しい学問(経典の研究)を学ばなくてもただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱えるだけでよいという単純さから多くの庶民から信仰を集めました。
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