戦国期の城下町~城下町の形成と全貌、マーケット事情について







室町幕府が守護大名を設置して地方の管理を任せると、大名たちは城下町をつくりました。

さらに時が進んで戦国時代になると計画的な城下町の整備はほぼ完成し、大名によって作られた城下町も発展していきました。

今回はそんな戦国時代の城下町について、その全貌はどのようなものだったのかを解説していきたいと思います。

 

城下町の形成

足利尊氏が南北朝時代を収束させ室町幕府が開かれると、守護大名という地方の監督を行うお役人大名が地方に派遣されました。

その守護大名は領内に住む人々を管理する目的と防衛施設としての機能を持たせた商業都市である城下町を形成しました。

 

時は流れて戦国時代となると、戦国大名が領内を治めるようになり、商業都市だった城下町に武器を作らせる職人だけを固めた地域や、僧侶たちが住む区画、商人が自由に市場を開ける市場の確保、職人たちの組織化を行うなどして戦と経済の発展を目的とする計画的な町づくりがほぼ完成しました。

 

城下町の構造

一般的な城下町の構造は、お城を中心にして侍町、町屋、寺町などが配置されました。

 

侍町

侍町にはお城を職場とする家臣の武家屋敷が立ち並んでいて、身分の高い武士ほどお城から近い位置に住みました。

町屋は、侍町の外側に形成され、商人や職人などが職種ごとに居住していました。

 

町屋

町屋は町の単位としては大きなくくりで、その中には呉服町(呉服屋を営む集団が住む町)、油屋町(油売りの集団が住む町)、鍛冶町(鍛冶屋を営む集団が住む町)、大工町(建築関連の職人の集団が住む町)などが密集して並んでいました。

そして同じ商品を販売する職人同士で座と呼ばれる組合を結成して、商品の生産や販売を独占化しました。

そのため、自分たちが栽培したお米を店舗販売してもらうためには、まず米座の卸売り業者と契約する必要がありました。

また、魚座という魚を専門で扱う座が米座を介さずにお米を販売することも暗黙の了解で禁止されていました。

 

寺町

寺町は町屋よりもさらに外側に作られました。

寺町とは寺院や僧侶の住居が集められた町です。

寺町は戦時中に砦として防衛の一端を担い、町人などの非戦闘員を非難させる場所としても利用されました。

 

代表的な城下町

 

代表的な城下町としては、朝倉氏が整備した一乗谷があります。

南北を城戸に囲まれた1.7キロメートルの谷間に領民を住まわせて、計画的な町割り(区画整理のこと)が行われました。

一乗谷は天然の防壁と人工物の防壁の二重防衛が敷かれていて、攻めづらく守りやすい設計となっていました。

織田信長が一乗谷の戦いで放火するまでは、最も安全な城下町として考えられていた町です。

 

戦国期のマーケット事情

 

戦国期は当然コンビニはもちろんのこと、スーパーマーケットや下町商店街のような商業施設はありません。

そこで、登場するのがです。

先述したとおり、座は同業の職人たちが集まって結成された組合のことです。

 

職人や商人が座に入るためには座長となる者に入会料と随時徴収される運営費を支払う必要があり、座は朝廷や貴族、寺社などに金銭を支払ってその代わりに自分たちの生産販売する商品の市場独占する権限を認めてもらっていました。

座の種類には油座、米座、魚座、唐人座(輸入品の販売)、釜座(日用の鋳物の販売)、紺灰座(藍染に使用する灰の販売)、帯座など業種ごとにさまざまでした。

戦国時代になると、座の形態は変化していき、戦国大名が各地に城下町を作って座を保護すると同時に座から税収を得ようとしました。

 

六斎市

毎月6度開催される定期市のことです。

1日、6日、11日、16日、21日、26日と5ごとに開催されました。

斎とは祭りの意味で、屋台のような店舗で商品の販売が行われました。

戦国大名は直轄の市を設けてこれを保護し、税収の財源増大を図りました。

 

織田信長が行った「楽市楽座」って?

 

織田信長は1567年に斎藤龍興の居城であった美濃の稲葉山城を攻めとってここを「岐阜城」と改名しました。

そして城下町に「楽市令」を発布しました。

また安土城の城下町を作る際には、楽市楽座を奨励しました。

それまで公家や寺社の管轄下にあった市や座を大名である織田信長の支配下に置くことによって、座の商売の独占権と市場税を廃止し、誰でも新規参入がしやすい環境を作りました。

ようするに契約料を安くする代わりに公家や寺社へ納入していた金銭を大名の懐に入れ、座による市場独占を禁止。

市場税を撤廃したことで商人が本来取り組まなければいけない価格競争や営業競争を行わせました。

 

楽市楽座ではない場合

楽市楽座ではない場合、座は公家や寺社に地子銭、冥加銭と呼ばれる金銭を支払うことで、市場を独占することを認めてもらうことができました。

しかし、それでは座から大名へ金銭は支払われず、市場は独占されているので、新規参入の業者がまったくいない状態で市場は拡大せず、物価の変動もほとんどありません。

 

楽市楽座の場合

楽市楽座になると、座は公家や寺社ではなく大名へ金銭を支払います。

市場税である地子銭は撤廃されるので、座は支払う金銭が楽市楽座でないときよりも減ります。

一見大名は損をしているようにも見えるのですが、地子銭は入らなくても、寺社が得ていた金銭は大名に入ります。

支払う立場の座と税収が欲しい大名の利害関係が一致するようになっています。

また、商人が本来やらなければいかない同業他社との価格競争や営業活動が活発になります。

さらに、新規参入しやすくなったので、市場を拡大できるメリットもありました。

 

まとめ

 

大名たちは城下町を防衛施設の機能もついた商業都市として、整備しました。

また、戦費や俸禄の財源を得るためには町人や農民から集める税収が必要不可欠で、そのためには領民たちに自力で生活することができ、経済活動をできる環境を整える必要がありました。

戦国時代の城下町は実に計画的な町づくりを行っていたのです。

また、織田信長の行った楽市楽座は画期的な経済政策でした。










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