鎌倉幕府存続の危機 承久の乱とはどのような乱だったのか!?







源頼朝(みなもとのよりとも)が開いた鎌倉幕府は将軍家である源氏本家の滅亡承久の乱元からの侵攻(元寇)倒幕運動など何度も存続の危機に直面しました。

 

なかでも承久の乱は天皇が鎌倉幕府から政権を奪還すべく起こした乱であり、鎌倉幕府が朝敵となり天皇側と戦うことになります。

本記事ではそんな承久の乱にスポットを当てて、その一部始終を解説します。

 

承久の乱とは

後鳥羽上皇

承久の乱は西暦1221年に後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が鎌倉幕府から政権を奪還するべく、時の執権北条義時(ほうじょうよしとき)を誅殺しようと起こした反乱です。

この反乱が起こったときの元号が《承久》なので『承久の乱』と呼ばれています。

また、後鳥羽上皇が首謀者なので後鳥羽上皇の乱と呼ばれる場合もありますが、本記事では承久の乱と統一して記述します。

 

『承久の乱』以前の鎌倉幕府と朝廷の動き

 

源頼朝が源平合戦に勝利して鎌倉幕府を開いた頃、朝廷では約半世紀にわたって政権を欲しいままにした後白河法皇(ごしらかわほうおう)が崩御し、源頼朝と仲の良かった九条兼実(くじょうかねざね)という貴族が政治の中心となりました。

そのため幕府と朝廷は良好な関係にありました。

 

鎌倉将軍家の断絶、執権政治のはじまり

しかし、源頼朝は将軍に就任してからわずか7年で死去、そして鎌倉将軍家は後継ぎに恵まれず、わずか3代で断絶してしまいました。

これにより、源頼朝の妻北条政子(ほうじょうまさこ)やその父の北条時政(ほうじょうときまさ)ら北条氏が幕政を支配して将軍の代わりに政治を行う執権という役職に就きます。(執権政治の始まり)

 

一方朝廷では後鳥羽上皇が幕府から朝廷へ権力を取り戻そうと西面武士(さいめんぶし:西日本にいる武士に対抗するための皇室親衛隊)を設置して徐々に力をつけていったり、親幕派の九条兼実から権力を取り上げたりしました。

このような動きが国内で起きていたとき、後鳥羽上皇にとってチャンスが訪れます。

 

後鳥羽上皇が承久の乱を起こす

承久の乱と後鳥羽院 (敗者の日本史)

後鳥羽上皇が政権を朝廷に取り戻そうと画策している中、鎌倉幕府では源氏が滅亡したり、御家人が反乱を起こしたり、初代執権の北条時政が2代執権北条義時によって追放されるなど、混乱状態にありました。

北条義時が2代執権に就任してまだ政治体制が整っていないこのときをチャンスと見た後鳥羽上皇は流鏑馬(やぶさめ)大会を主催することを口実に皇室親衛隊や近畿地方在住の武士、在都の武士に号令して1700余騎の武士を集めました。

 

当時は1騎あたり兵士5人という数え方をしていたので8500人の軍勢が後鳥羽上皇のもとへ集まったことになります。

後鳥羽上皇は軍の準備が整うと間髪入れずに挙兵し、鎌倉幕府が守護に任じた御家人を攻め立てました。

これが事実上の承久の乱の火蓋が切られた瞬間です。

後鳥羽上皇が挙兵したという報はすぐに北条義時の耳に入りました。

 

動揺を隠せない鎌倉幕府の御家人

 

つい先日まで朝廷から軍隊を一任されていたはずの鎌倉幕府が図らずも後鳥羽上皇と敵対することとなり、朝敵となってしまいました。

標的となった北条義時には後鳥羽上皇と戦うしか道が残されていませんでしたが、鎌倉幕府の御家人たちは「上皇陛下と戦うなんて恐れ多い」「どちらの味方についても都合が悪いからいっそのこと逃げよう」などと尻込みする者が大半でした。

 

北条政子の名演説

御家人たちが自分の身の振りを考えている最中、後鳥羽上皇の軍勢は飛ぶ鳥を落とす勢いでどんどん鎌倉へ迫りつつありましたが、鎌倉幕府に味方することを表明した御家人は全体の15%しかいませんでした。

この圧倒的兵力差のある状況下で65歳の北条政子は東国武士の魂を奮い立たせる名演説を行います。

さらに、演説の直後北条政子は義時の息子泰時(やすとき)とその孫時氏(ときうじ)を含む幕府軍を京都方面へ差し向けます。

その数わずか18騎、100人に満たない兵士を出陣させました。

承久の乱で幕府軍が負ければ将軍家についで北条家も滅亡するという背水の陣を敷くのです。

 

承久の乱での逆転劇

新マンガ日本史 12号 北条政子 決戦、承久の乱!

たった18騎で出陣した幕府軍でしたが北条政子の命演説の力もあって京都までの道中で次々と東国武士が合流し、大軍へと膨れ上がりました。

その数なんと19万人。これにより承久の乱で幕府軍の勝利は確実となります。

 

一方で後鳥羽上皇とそれに従った朝廷軍の首脳は幕府軍が出陣することを全く予期しておらず、19万という数を聞いて狼狽しました。

あらかじめ後鳥羽上皇と寝返ることを約束していた幕府の御家人はその約束を反故にし、朝廷軍は予想外の防戦一方になってしまいました。

後鳥羽上皇の呼びかけに遅れて応じた武士たちはその道中で幕府軍に撃破されたとも伝えられています。

さらに後鳥羽上皇のもとには続々と敗報がもたらされ、朝廷軍の士気はどんどん落ちていきました。

 

そうこうしているうちに朝廷軍では負の連鎖が起きます。

まず朝廷軍から幕府軍へ寝返る者たちが現れました。

次に後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山延暦寺の僧兵に協力を求めますがあっさり拒否されてしまいます。

続けて幕府軍が捨て身の敵陣突破を成功させてついに朝廷軍は御所まで後退せざるを得なくなりました。

 

朝廷軍では藤原氏、三浦氏、山田氏などの有力御家人が味方していたのですが、幕府軍に屈し敗走して御所に逃げ込んだところ後鳥羽上皇から門前払いされて孤立。

その後三浦氏と山田氏は自害に追い込まれ、藤原氏は幕府軍の捕虜とされました。

そして後鳥羽上皇は挙兵から1カ月足らずで幕府軍に降伏することになりました。

 

承久の乱 その後

 

承久の乱のあと首謀者の後鳥羽上皇隠岐順徳上皇佐渡、承久の乱に反対していた土御門上皇は自ら志願して土佐へ配流(島流し、流刑)されました。

朝廷軍に加担した武士たちも粛清、追放され、後鳥羽上皇が所有していた約3000ヶ所の領地が幕府に没収されました。

これ以降100年以上に渡って鎌倉幕府の執権政治は続き、北条義時は日本史上唯一朝廷と戦って勝利した武将として名を刻みます。

 

まとめ

 

承久の乱の始まりは後鳥羽上皇が流鏑馬大会を口実に挙兵したことからでした。

承久の乱では当初幕府軍と朝廷軍には圧倒的な兵力差がありましたが、北条政子の名演説のおかげで大勢が幕府軍に味方し、東国武士の固い結束力と軍事力で幕府軍に軍配が上がりました。

 

朝廷が臣下の立場である者と戦って敗れ処分されたのは後にも先にも承久の乱だけです。

他に類を見ない乱なので「承久の乱」と「後鳥羽上皇」というキーワードはテストに出題される可能性『大』です。

 












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