縄文人は意外と行動範囲が広かった?縄文人の日本各地の名産地巡り







まだ科学という学問すらない1万年以上前のこと。

時は縄文時代、車や飛行機に乗るようなことはさらさらありませんでした。

この頃の人々はまだ馬や牛に騎乗するようなことはしておらず、主な移動手段は己の足でした。

 

ところが、縄文時代の遺跡を発掘したときに縄文人の行動範囲が我々の思っている以上に広いことが判明しました。

彼らは自らの足と粗末な船のみの移動手段で、遠く離れた場所でしか採れない食べ物や鉱石などを採りに行く、いわば名産地巡りをしていたのです。

今回はそんな縄文人の名産地巡りについてご紹介します。

 

食べ物や鉱石の名産地巡り

 

我が国日本には「○○の名産地」のようにその地域ならではの野菜や果物、お肉や魚介類といった食べ物。

なにかの原料となる天然資源や工業的な伝統技能を用いる工芸品などがあります。

こちらの記事を閲覧されている方の中には旅行へ行けば必ずその土地の特産品を食べたり、伝統工芸品をお土産として購入して帰る方もいるのではないでしょうか?

もはや趣味のカテゴリーのひとつに数えることのできる「名産地巡り」ですが、近年古代史を研究者たちの手による遺跡の発掘調査によって、縄文人が遠くに生息する食べ物や鉱石を持ち帰って食べたり、加工したりした形跡が発見されて当時から「名産地巡り」をしていたことが明らかになりました。

 

縄文人の移動手段と行動範囲

 

まだ科学という学問すらない縄文時代を生きた我々の祖先たちの移動手段は徒歩がメインでした。

さらに、このころの人々は馬や牛などの動物に騎乗するという概念すらなかったので、陸地の移動は自分の足のみだったようです。

 

しかし海上の移動については、縄文時代にはすでに丸太をくり抜いて作られた丸木舟という粗末な船に乗って海の沖合に生息しているブリなどの魚を獲っていたことが貝塚から発掘された魚の骨の化石から知るところとなり、この丸木舟で海を渡っていたことがわかりました。

 

また、縄文海進の影響で当時の日本列島は現在よりも陸地が少なかった(縄文時代、現在の東京都や千葉県、神奈川県は海の底だった)らしいので、海を渡って陸地と陸地を渡り歩いていたことも十分に考えることができます。

縄文人の行動範囲は私たちの予想をはるかに上回るほど広かったようです。

 

縄文人は海を渡って名産品を持ち帰っていた?

 

「縄文人が名産地巡りをしていたなんて信じられない」と思っている方のために具体的な地名や品名を示して確たる証拠を提示しましょう。

まず鹿児島県の遺跡にある貝塚から見つかった物的証拠です。

 

当時は温暖な気候だったので鹿児島県は今よりも暑い土地であったと考えられます。

その鹿児島県の遺跡にある貝塚から絶滅してしまった二ホンオオカミの骨や今では天然記念物に指定されている二ホンカモシカ、ツキノワグマの骨が出土されました。

 

二ホンオオカミや二ホンカモシカはもともと比較的寒い地域に生息していた動物で、今よりも暑かったであろう九州南部の鹿児島県に生息していたことはとても考えにくく、おそらく暑くて住むことができなかったのではないかと思われます。

これはかつて鹿児島県に住んでいた縄文人が食べ物を求めて一時的に定住したか、北日本まで徒歩や舟で移動し、自分たちの集落まで持ち帰ったものではないかと推測しています。

他には四国の遺跡で南国にしか生息していない二枚貝の貝殻や寒い土地にしか生えない針葉樹の木の実も日本国内で発掘されています。

 

また、本州でしか手に入らなかった「ヒスイ」を加工したアクセサリーが北海道の遺跡から発掘されたり、青森の遺跡からは反対に北海道でしか採れない黒曜石を使った矢じりや槍の穂先が見つかっています。

黒曜石

 

縄文人の武器やアクセサリーへのこだわり

 

ヒスイ

アクセサリーには石で出来たもののほかに動物の骨や爪に穴をあけて作った首飾りや耳飾り、円盤状に丸く加工して作ったピアス、土器で作ったピアスなども見つかっています。

「ヒスイ」はきれいな緑、もしくは黄緑の色がついているので、他の材質でできたものに比べるととても華美なアクセサリーになります。

 

おそらく動物を狩るために使用されたであろう矢の矢じりや槍の穂先も通常は硝子質を多く含んだ石英を研いで作られているのですが、黒曜石でできたものは固くて耐久性に優れています。

縄文人の美意識は意外と高かったものと思います。

 

そして、動物が暴れたり持ち運ぶときの衝撃が強くても研ぎ澄ました刃が折れないように固い材質のものをわざわざ求めて加工していたのは、それほど武器に対してこだわりを強く持っていたことが考えられます。

 

まとめ

 

縄文人たちは我々が予想していたよりも美意識が高く、アクセサリーや武器に使用する材質に対して強いこだわりがあったことがわかりました。

そして、食べ物に関しても意外にもグルメであったようです。

縄文時代ではすでにそういった、こだわりの品を求めて全国の名産地巡りのようなことが行われていたのでしょう。

 

しかし、私個人としては別の動機もあり得るのではないかと考えています。

たとえば、動物や植物の乱獲を防ぐために何年かに一度のスパンで引っ越しをしていたり、ただ単に食べ物を採りすぎてしまい食料が枯渇したことで遠くまでの移動を余儀なくされたとも考えられます。

 

しかし理由はどうであれ、車や飛行機などのモーターマシンがなくても、己の足や腕の力だけで相当長い距離を移動していたことについては驚きを隠すことができません。










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