鎌倉幕府倒幕の理由 なぜ鎌倉幕府は倒幕されたのか?







日本史上初の幕府となった鎌倉幕府

源頼朝(みなもとのよりとも)が開いて以来、約150年間続いた鎌倉幕府に終わりを告げたキッカケや理由はどのようになっているのでしょうか?

こちらの記事では鎌倉幕府倒幕のキッカケや理由について解説していきます。

 

鎌倉幕府による政治を簡単に説明

源頼朝

源頼朝(みなもとのよりとも)により鎌倉幕府が開かれたことによって、国政の中心は朝廷の天皇家や公家から武家に切り替わります。

鎌倉幕府が開幕されてよかったことは現場重視の政治が行われ、武士や農民(庶民)など下層の人々の価値観が政治に反映されるようになったことです。

特に当時日本国民のだいたい8割は農民(庶民)と言われているので、いわゆる民主的な政治の1歩を踏み出したことになります。

 

西暦1192年開かれた鎌倉幕府はこのような良い面を持ち合わせておきながら、1333年には終わりを迎えます。

それでは次章から鎌倉幕府が終わるキッカケや理由について示しましょう。

 

鎌倉幕府倒幕の理由(1) 有力御家人の排除

北条政子

2代将軍の頼家(よりいえ)が北条政子(ほうじょうまさこ)、北条時政(ほうじょうときまさ)親子に幽閉されて3代将軍実朝(さねとも)が就任した頃、このような北条氏の横暴な振る舞いに不満を持つ御家人が出てきます。

畠山氏ら旗揚げ当初から頼朝と運命を共にし、源平合戦時に著しい功績を上げ、頼朝から地位と名誉を与えれていた幕臣は亡き頼朝からの恩を返さんと北条氏に反旗を翻しました。北条氏はこれを討伐して鎌倉幕府開幕に携わった有力な御家人を排除しました。

 

その後も北条氏はたびたび有力な御家人を討伐したり、暗殺します。

北条氏は自分に楯突こうとする者や、自分よりも人望の厚い者を排除して鎌倉幕府から有力な御家人を排除していきます。

これによって、幕府は民心や部下とのつながりを弱める結果となりました。

 

鎌倉幕府倒幕の理由(2) 源氏が3代で滅亡

源頼家

北条氏のすごいところは自分の息子、孫を3人も殺し、結果として源氏の嫡流を3代で滅亡させてしまったことです。

将軍家は一族が世襲するものなのですが、鎌倉幕府将軍家は違います。

源氏の血脈がたった3代で途絶えたので、公家から少年を連れてきては将軍に就任させ、それが成人すると廃位してまた新しい少年を公家から連れてきて将軍に就任させるということを繰り返しました。

しかも、この少年たちを選んだのはすべて執権となった北条氏です。

北条氏は鎌倉幕府将軍を自分の傀儡人形(かいらいにんぎょう)としたのです。

 

鎌倉幕府倒幕の理由(3) 合議制崩壊

 

初代執権時政(北条政子の父、2~3代将軍の外祖父)の提唱した「宿老拾三人の合議制」や泰時(やすとき:北条政子の兄)が設置した評定衆などにより、当初の執権政治は合議制で進められます。

ところが相次ぐ御家人からの反乱や元寇(蒙古襲来)などの緊急性の高い事件が起き、それを主要な幕閣のみで政策や対処を決めたことが常時行われるようになって合議制を崩壊させました。

これにより、御家人たちはさらに不満を募らせます。

 

鎌倉幕府倒幕の理由(4) 2度に渡る元寇(蒙古襲来)

鎌倉幕府倒幕の布石を打つことになるのが、2度に渡って起こる元寇(蒙古襲来)です。

元はモンゴル帝国の礎を築く、チンギス・ハンが興した国です。

中国全土と西は現在のトルコのあたりまで勢力を拡大しました。

その孫の第5代フビライ・ハンの治世になると元は最盛期を迎え、朝鮮まで属国とし、アジア圏で強大な力を持ちます。

フビライ・ハンは日本に使者を送り「日本のように小さい国は我が元に朝貢して元の属国となるべき。戦ったとしても結果は目に見えている。お互い無駄に兵を殺すべきでない。」という内容が書かれた国書を送りつけます。

その国書を手に取ったのは天皇でも将軍でもなく、時の執権北条時宗(ほうじょうときむね)でした。

時宗は元からの使者を殺し、元との徹底抗戦する構えを見せました。

 

【1度目の元寇(蒙古襲来)】

1度目の元寇(蒙古襲来)は文永年間に起きたので、文永の役ともいわれます。

元は北九州の海岸から日本へ上陸してきました。

御家人たちは全国各地から北九州にこれを撃退せんと一挙に集まります。

そして元の兵士たちと激しい戦闘を繰り広げました。

御家人たちは一騎打ちの常識が通用しない元の兵士に驚き、次は長距離射程の元の弓、次に「てつはう」と呼ばれる新兵器に苦戦しながらもなんとか元の侵攻を食い止めました。

そのうちに暴風雨が起きて、元は逃げるように撤退していきました。

 

【2度目の元寇(蒙古襲来)】

日本は1度目の元寇を撤退させた後、本格的に国家防衛に備えます。

鎌倉幕府はそれまで本拠地を東日本に置いていて西日本は朝廷が支配していました。

鎌倉幕府と朝廷は協力して西日本の防備を固めていきます。

これによって西日本にも鎌倉幕府の力が及ぶようになります。

2度目の元寇(蒙古襲来)または、他の外国からの侵攻に備えて北九州の海岸沿いに約200Kmに渡る石垣を作り、兵士を港に駐屯させて外敵を見張らせました。

そしてついに2度目の元寇(蒙古襲来)が訪れます。

元の兵士は再び北九州の海岸から上陸し、元の兵士と御家人は約2カ月間激しく戦います。

そうこうしているうちに北九州に台風が訪れ、元の軍は御家人の激しい攻撃と台風の直撃により、壊滅しました。

 

【問題だったのは鎌倉幕府からの恩賞】

必死の思いで2度も元を撃退した御家人たちは、当然鎌倉幕府からの恩賞に期待していました。

しかし、鎌倉幕府にはすでに恩賞として与えられる領地がわずかしか残っていませんでした。

元寇に参加したすべての御家人たちに恩賞を与えられることができず、しかも与えた恩賞が御家人の働きにそぐわないほど少なかったのです。

御家人たちは先祖伝来の土地を売ったり、寺院や公家に借財をしてまでも軍備を揃え、石垣作りなどの工事にあたり、元との戦に参加しました。

その見返りにもらったものが御家人の損益よりも下回っていたのです。

 

当然御家人たちは不満を抱きます。

鎌倉幕府は御家人たちの激しい訴えにこたえるべく、永仁の徳政令を発布します。

永仁の徳政令はいわゆる御家人がした借金を帳消しにせよという命令でした。

すると、御家人たちに資金や食料を貸していた寺院や公家たちが不満を抱くようになりました。

 

鎌倉幕府倒幕の理由(5) 後醍醐天皇の倒幕計画

後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は再三鎌倉幕府の倒幕計画を練り、倒幕を実現した天皇です。

後醍醐天皇が目指したのは「天皇による国政」です。

それを実現するためにはまず鎌倉幕府を倒幕する必要がありました。

 

いつの時代も天皇を味方につければ官軍、敵に回せば朝敵となります。

天皇の味方をするだけで、正統性を示すことができるのです。

後醍醐天皇は1度目は幕府に屈し、2度目は流刑に処されながらも足利尊氏(あしかがたかうじ)、新田義貞(にったのよしさだ)、楠木正成(くすのきまさしげ)といった武士や朝廷の政権を取り戻すことに賛同した公家たちの協力を得て鎌倉幕府を倒幕させます。

 

鎌倉幕府の終わり(倒幕)

 

西暦1332年、後醍醐天皇は2度目の倒幕計画に失敗して流刑に処されますが、楠木正成によって救援されます。

鎌倉幕府は楠木正成を討伐するように幕府軍に命令し千早城の戦いが起きるのですが、楠木正成は強く、なかなか千早城に籠城する楠木正成を討つことができませんでした。

 

その翌年後醍醐天皇は流刑先から脱出して挙兵。

当初は幕府から反乱軍を討伐するように命令されていた足利尊氏も反旗を翻して六波羅探題を攻め落としました。

足利尊氏が六波羅探題を攻め落とした翌日、新田義貞が挙兵。

小手指原の戦い、久米川合戦、分倍河原の戦いで北条氏と戦って連戦連勝。

鎌倉を3方向から攻めて、北条一族を東勝寺で自刃に追い込んで鎌倉幕府を倒幕しました。

 

まとめ

 

鎌倉幕府が終わることになった理由は、《民心を手放し天皇や公家、僧侶、幕臣の御家人たちなど様々な人々に不満を抱かせ敵に回してしまったから》という一言に尽きます。

上記に示したとおり、鎌倉幕府が終わる理由に上げられることはいくつもありました。

そういった様々な問題や不満が出るたびに真摯にその問題と向き合って対策を講じていれば、鎌倉幕府はもっと長く続いていたかもしれません。










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