鎌倉新仏教とは?6つの宗派の特徴と開祖をまとめて紹介!







鎌倉時代に入ると仏教は貴族や武士だけでなく、庶民たちにまで広まりました。

庶民たちは苦しい生活の中で仏にすがることにより、生きる希望を見出しました。

仏教が庶民の間で流行してくると、仏教に対して日本独自の解釈が生まれます。

その中で生まれたのが鎌倉新仏教と呼ばれる宗派です。

 

  • 浄土宗(じょうどしゅう)…開祖:法然(ほうねん)
  • 浄土真宗(じょうどしんしゅう)…開祖:親鸞(しんらん)
  • 時宗(じしゅう)…開祖:一遍(いっぺん)
  • 臨済宗(りんざいしゅう)…開祖:栄西(えいさい)
  • 曹洞宗(そうとうしゅう)…開祖:道元(どうげん)
  • 日蓮宗(にちれんしゅう)…開祖:日蓮(にちれん)

 

本記事ではこれら鎌倉時代に生まれた鎌倉新仏教と呼ばれる新しい仏教の宗派と、その開祖となる高僧たちについて紹介します。

 

鎌倉新仏教の誕生

鎌倉時代には武家が社会の中心におり朝廷(天皇)の力が弱まり、かつ北条氏から出た執権の登場も相まって世の中は荒廃していました。

奈良仏教が腐敗したために興った天台宗や真言宗もこのような事態にうまく立ち回ることができず、本来寺を守るために組織した僧兵(僧侶の兵士)の武力をもって有力な御家人、貴族を攻撃して政治に介入しようとしたり、私利私欲に溺れる僧侶も登場し、日本仏教界は再び腐敗堕落しました。

また、天台宗や真言宗などの旧仏教は皇室や貴族のための仏教であり、武士や庶民にとっては理解し難い仏教でした。

 

人々が庶民向けの仏教の誕生を待ち望んだなか、ようやく武士や農民の価値観と合致する新しい仏教が誕生します。

その仏教こそ浄土宗浄土真宗時宗臨済宗曹洞宗日蓮宗といった鎌倉新仏教です。

 

法然が浄土宗を開くまで

法然

法然専修念仏(せんしゅうねんぶつ)を提唱した浄土宗の開祖です。

法然は平安時代末期、あの平清盛(たいらのきよもり)が栄華を極めていたころに誕生し、わずか9歳という若さで父を暗殺という形で失ってしまいます。

この悲しい出来事が日本に新しい仏教をもたらす発端となります。

9歳で菩提寺に入門し出家した法然はその才能を見込まれて13歳のときに比叡山延暦寺にて天台学(最澄が唐から持ち帰った教え)を学びます。

 

法然は叡空(えいくう)という高僧のもとで修業に励み、奥義を伝授されその戒律を忠実に守り続けました。

また法然は智慧第一の法然と称されるほど仏典の研究に勤しみました。

法然が仏教を研究し続けた期間は20年以上に及びます。

しかし、世は末法、仏の道を究めるには人の心はあまりに脆く、ひどく不確かなものであると悟り、深い挫折を味わいました。

 

法然はこのときすでに40歳を過ぎていました。

自分が今までやってきたことはいったいなんの意味があったのか…。

そういった虚無感を抱えて法然はひとり庵にこもり、中国から伝わる仏典を読み漁ります。

 

法然が43歳のとき、中国の善導(ぜんどう)という僧侶が「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」という経典に注釈を加えた「観経疏(かんきょうしょ)」を読み、まるで全身が雷に打たれたような衝撃を受け、刮目(かつもく)しました。

 

その書には「人の心は散漫だから、心を定めることはできない。それでも口に念仏を唱えれば、阿弥陀仏の本願によって極楽浄土へお迎えくださるだろう。」とありました。

「ひたすらに念仏を唱えれば、仏の方から我らを極楽浄土へお救いくださる。これこそ私が求めていた答えだ。」

法然はついに長年探し求めていた答えに辿りついたのです。

この年に法然は比叡山を下山し、ひとり現在の知恩院のある土地に庵を建ててそこを専修念仏の道場としました。

 

やげて法然が布教を行う庵には僧俗、男女、貴賤を問わずありとあらゆる人々が訪れ、弟子や信者となりました。

これが、法然による浄土宗が開かれた瞬間です。

 

法然が開いた浄土宗とは

 

先に記すとおり法然は比叡山延暦寺の天台宗を学んできた僧侶です。

法然は高尚な天台学を学び奥義を授けられないがらも満足のゆく答えを見つけることができませんでした。

法然の求めた答えとは、《より多くの人が救済されること》、

天台宗の奥義を習得してもそれに至らなかった法然は大きな挫折を味わいます。

 

そんなとき、法然は「ただひたすらに念仏を唱えれば、仏のほうから極楽浄土へ掬い取ってくれる。なぜならそれが仏の誓願だからだ。」という中国の僧侶善導(ぜんどう)の記す文章に衝撃を受けて、開いたのが浄土宗でした。

法然が辿り着いた専修念仏は、《口で念仏をとなえる意外の修行や学問は不要とする》という、まさに画期的な教えでした。

 

また、人々の心を支配していたタブーの一切を否定し、仏法に忌みはないとしました。

僧が戒律を守れなければ戒律にこだわらず、一心に念仏を唱えよと説きます。

そのため、弟子の中には無軌道な行動に走る者もいました。

 

法然の浄土宗では「南無阿弥陀仏」をより多く口で唱えたものが極楽浄土へ近づくことができるとしています。

新しい宗派が民衆のなかから生まれるときには、従来の社会の規範と対立することは必至です。

法然が開いた浄土宗も例にならい、平安仏教の天台宗や真言宗などの従来主流だった宗派からの弾圧を受けました。

 

現在受け継がれている浄土宗は法然の弟子のうち、弁長(べんちょう)もとい鎮西(ちんぜい)上人が唱えた鎮西義(ちんぜいぎ)の流れを組む者たちによって継承されています。

 

浄土宗は開祖を法然、2祖を弁長、3祖を良忠(りょうちゅう)としています。

良忠の代のときに法然の墓を守る派閥と合流し、浄土宗の総本山を知恩院としました。

 

その後良忠は京都を発ち、浄土宗の布教活動を本格始動します。

信州を経て関東に入り、下総の豪族、千葉一族の帰依をうけて浄土宗鎮西派を飛躍的に発展させました。

 

親鸞が浄土真宗を開くまで

親鸞

親鸞は先に記す法然の弟子です。

親鸞は身分は低かったのですが、一応貴族の出身です。

親鸞の父が心身深い人で、その影響もあってか親鸞は9歳のときに出家して比叡山延暦寺に入り、仏教に帰依しました。

 

修行時代親鸞が最も悩んだことは「抑えきれない性欲」です。

性欲は人間の3大欲求のひとつとして数えられていて誰しもが求めることです。

親鸞は抑えようとすればするほど爆発しそうなほどに沸き起こる性欲がなぜ起きるのか?

そもそも生物が本能でインプットされていることを僧俗の者が行えば、地獄行き確定の業因(ごういん)である女犯(にょぼん)となってしまうのか?

というような問題を解決しようとひたすらに仏教を研究します。

 

それでもなんの成果も得られなかった親鸞は29歳のときに比叡山を下り、聖徳太子が建立して如意輪観音(にょいりんかんのん)を本尊とした六角堂に100日参り(100日間毎日参拝すること)をします。

そして95日目の早朝、親鸞の夢に聖徳太子の化身だと名乗る菩薩様が現れました。

その菩薩様は

「汝念仏行者が宿報(しゅくほう:前世での善悪に応じた現世の報い)によって女犯するなら、私が女の姿になって犯されてやろう。その後その一生を輝かしくするのであれば、臨終には極楽に導いてやろう」

と告げました。

これを六角夢告といいます。

 

親鸞は法然のもとを訪れ、六角夢告の意味を問いました。

そのとき法然がどのように答えたのかは残されていませんが、法然の発した言葉のひとつに「僧が結婚しなければ心を定めて念仏を唱えられないというのなら、僧であっても結婚しなさい」というものがあります。

おそらく同様の解答を親鸞にもしたことでしょう。

 

法然の答えには阿弥陀仏への本願にゆるぎない絶対の信頼をおいたものだったはずです。

それによって、親鸞は長年の悩みを解決して親鸞の専修念仏の門をくぐりました。

 

ところが法然の浄土宗は旧仏教側からの弾圧を受けます。

親鸞も師匠の法然と同様にもれなく流刑にされました。

親鸞はそのころ恵信尼(えしんに)という尼僧と結婚します。

親鸞の結婚が僧が公然と妻帯した最初の例と言われています。

親鸞はその後、無戒の僧として純粋に阿弥陀仏と向き合い、流刑先で妻とともに布教活動にあたります。

これが事実上の浄土真宗の立派です。

 

親鸞の開いた浄土真宗とは

 

親鸞の開いた浄土真宗は越後を中心として広まりました。

親鸞は流刑を解かれても帰郷せず、越後に留まって人々の救済に努めます。

親鸞の浄土真宗と法然の浄土宗は根本は同じです。

「南無阿弥陀仏」の御名を唱えれば、阿弥陀仏が極楽浄土へ導いてくれるという教えです。

 

それでは法然の浄土宗と親鸞の浄土真宗の異なっているところはなんなのかと言うと、「絶対他力のシ心信」です。

 

親鸞は救いは阿弥陀仏の本願の力(他力)のみにあり、人がなす勤行(読経を捧げること)や修行には何も期待するべきではない。

ただ「南無阿弥陀仏」を唱えても、言霊に心の底から信じる気持ちが乗っていなければ、なにも意味がないと説きました。

また、本気で阿弥陀仏を信じなければ、念仏を唱えられて呼び出された阿弥陀仏がその者に近づくことができないとも説きました。

 

この部分が法然の説く「南無阿弥陀仏」を多く唱えた分だけ極楽浄土へ行ける確立が上がるとする考えと大きく異なるところです。

 

親鸞の死後はその娘によって親鸞の眠る廟堂は子孫代々が管理にあたるとし、その廟堂が後に本願寺となります。

親鸞の開いた浄土真宗は各地に広まり、戦国時代に突入するとその信徒は民と結託して戦国大名と度々対立しました。

その猛威はものすごく、本願寺の僧侶たちが一国一城を攻め落として、戦国大名となり都市国家を形成した石山本願寺が約100年間その地を治めたほどでした。

 

一遍が時宗を開くまで

一遍

一遍は、他の開祖たちに比べると世代が1~2つくらい後の僧侶です。

一遍は伊予の国の豪族の出身でしたが10歳のときに母親を亡くしたのを機に出家します。

14歳のとき、太宰府の浄土宗の門下生となり、智真(ちしん)と名乗ります。

25歳のとき、父親が亡くなったのを機に帰郷して還俗(かんぞく:僧籍から俗世にかえること)。

そして妻を娶りますが、一族の内紛が激しく、家を捨てて仏道にいきることを決心します。

 

西暦1274年、一遍が36歳のとき、熊野本宮に参詣し、熊野権現のご神託を受けます。

そのご神託によれば「六字名号(ろくじみょうごう:南無阿弥陀仏)を一遍でも唱えればよい」という意味の言葉があったことから、一遍と名乗るようになります。

また、そのときまでの妻子を伴っていたのですが、一遍は妻子をも捨てて賦算(ふさん)の遊行に出ました。

それをもって時宗の開宗としています。

 

一遍の開いた時宗とは

 

一遍の開いた時宗は浄土宗や浄土真宗と同じように浄土信仰を根本としています。

一遍は賦算と呼ばれる札に「南無阿弥陀仏 決定往生(けつじょうおうじょう) 六十万人」と記した札を配り歩く旅をしました。

「念仏を唱える者すべてを極楽浄土に迎えるという阿弥陀仏の本願は、すでに十劫(じっこう)の過去に実現されている。

信じても信じられなくても、「南無阿弥陀仏」の札によって、人は阿弥陀仏の本願に結ばれる。」というのが、一遍の確信でした。

 

時宗の特徴のひとつは平生(普段)が臨終の時と心得よとした教えです。

人は病気やケガ、戦以外にも事故、お上(天皇や将軍)の気分によって死ぬこともある。

それゆえにいつでも死ぬ可能性があるということを説いています。

 

また、時宗の特徴としては踊りながら念仏を唱える踊り念仏があり、民衆は「よくわからないけれど、あの宗派は楽しそう」という動機から時宗の信者となる者が多くいました。

そして、時宗が他の宗派と異なる最大の特徴は固定の寺を持たず、日本中を渡り歩きながら布教活動を行ったことです。

開祖である一遍自身が身ひとつで諸国を行脚しながら飛び込み営業をする形で、布教したことにより、広く知られるようになりました。

一遍が生涯歩いて布教した距離はおおよそ日本一周分に相当するとも言われています。

 

室町時代中期になると、猿楽師の観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)親子、茶の湯の能阿弥(のうあみ)、華道の台弥(だいみ)、作庭(さくえん)の善阿弥(ぜんあみ)相阿弥(そうあみ)など、文化・芸能圏に時宗系の法名が見られることから、時宗は当時芸能人や文化人から多く支持されていたことがわかっています。

 

栄西が臨済宗を開くまで

栄西

栄西は宋(中国)に渡って臨済宗を日本に持ち帰った僧侶です。

日本臨済宗の開祖と言われています。

 

栄西は14歳の頃に出家し、比叡山にて仏教に帰依します。

栄西はその後天台密教の祈祷僧として活躍するのですが、転機が訪れたのは宋(中国)への2度目の留学でした。

1度目の留学はたったの6カ月間の短期間のものでした。

それから約20年が経過したころ、再度宋へ留学しに行きます。

栄西は宋で臨済宗黄龍派の禅を習得します。

 

栄西はその後帰国して九州各地で禅寺の建立に努めます。

しかし、折わるくも旧仏教側からの弾圧にあいました。

それでも臨済宗の布教に努めようとして鎌倉に入り、鎌倉幕府に取り入って弾圧を免れます。これによって北条政子が懇意にする僧侶となり、翌年には栄西のために寿福寺(じゅふくじ)を北条政子が建立させました。

頼朝(よりとも)の後を継いだ2代将軍頼家(よりいえ)の頃に栄西に開山の許可がおり、臨済宗総本山の建仁寺(けんにんじ)が建立されます。

これが臨済宗の立派です。

鎌倉幕府がバックアップしていたこともあり、臨済宗は庶民よりも武家の間で浸透しました。

 

栄西の開いた臨済宗とは

 

臨済宗の大きな特徴は師匠から弟子への悟りを伝達することを意味する法嗣(ほっす)を最も重んじる宗派です。

臨済宗の根本とする教えはお釈迦様とその弟子阿難尊者(あなんそんじゃ)のやりとりを表わす経典がもとになっています。

 

阿難尊者はお釈迦様へこのように問いました。

「よき師匠、よき友達を得ることは悟りの半分を頂戴したことと同じことになるのでしょうか?」。

それに対してお釈迦様はこのように答えます。

「良き師匠、よき友達を得るということは、悟りを得るのと同じことである」と。

 

臨済宗はこのことから、師匠から弟子、兄弟子から弟弟子への教えをそっくりそのまま伝達することが悟りに最も近づく方法であるとします。

そのため、臨済宗は縦社会。

絶対的な上下関係と師匠と弟子による激しい問答を行って正しい悟りを得ることを第一としています。

 

このようなスタイルから臨済宗は上下関係が絶対である武家から人気を集めました。

 

道元が曹洞宗を開くまで

道元

道元は貴族の中でも最高の血筋に生まれましたが、3歳にして父を失い8歳のときに母を失って13歳で出家します。

しかし、わずか5年で比叡山延暦寺を下り、栄西のいる建仁寺に入ります。いわゆる改宗を独断で行ったのです。

 

道元がなぜ栄西のもとへ教えを請いにやってきたのかというと、その理由は人はなぜ修行をしなければならないのか?

という疑問を持ったからだと言われています。

 

平安末期に盛んになった天台本願論(てんだいほんがんろん)では、人は仏の本性(仏性)をそなえているのだから、もともと悟っている存在だといい、あえて放逸(ほういつ)に走る破戒僧が多く出現しました。

源義経に仕える武蔵坊弁慶もそのひとりです。

 

当時の天台宗は僧兵を養って武力抗争を繰り返すという有様でした。

鎌倉初期の法然や栄西はその中で自らの立場をとっていましたが、道元はいわば第2期の僧侶です。

新しい仏教を己の解釈のもと、発展させて後世に伝える役目を担いました。

道元は本覚(ほんかく)の新たな意味を禅に求めました。

 

道元は24歳のときに宋へ留学して、中国曹洞宗を学びます。

その後帰国した道元は建仁寺に戻って坐禅の方法を具体的に記し、その真意を説きました。

修行するために坐禅をするのではない。

坐禅において、修証(修行とその証明=悟りの境地)はいったいであり、穢れのないものである。

ここに、修証一如(しゅうしょういちじょ)、只管打坐(しかんたざ:ただ座ること)の道元の禅が提唱されました。

やがて道元は建仁寺を去り、曹洞宗を開きます。

 

道元の開いた曹洞宗とは

 

道元が開いた曹洞宗も栄西の開いた臨済宗と同様禅宗のひとつです。

達磨大師の教えを基盤としながら、曹洞宗は坐禅の状態でいることこそが人間の本性もとい仏性であると説いています。

そのため、曹洞宗では坐禅を行うことが最も重要視されています。

 

坐禅の状態で日常生活を送る即心是仏(そくしんぜーぶつ)をとき、坐禅で学んだことが生活に現れるという考えです。

臨済宗が対話型の禅であることに対し、曹洞宗の禅は黙々と坐禅を組むことによって、人がもつ仏の本性があらわれ、功徳を得られるとしています。

道元は気象、洗顔、掃除、精進料理さらには排泄にいたるまでを規則化して、後に僧院の規則や作法の基盤を作りました。

 

日蓮が日蓮宗を開くまで

日蓮

日蓮はとある小さな漁村の出身で、日蓮は自身の出自について「海人が子」と語っています。

12歳のときに出家して仏教に帰依します。

 

日蓮が当初信仰したのは虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)でした。

虚空蔵菩薩は奈良時代かつて不思議法師という修験者が刻んで清澄寺(しんとうじ)に安置した仏像でした。

日蓮は虚空蔵菩薩に智慧を得られるように祈願し、生涯を通して密教を学びました。

日蓮が入山したころは浄土宗が流行していて、日蓮が師と仰いだ僧侶も念仏僧でした。

 

日蓮はその後に鎌倉へ進学し、比叡山に上ります。

それだけにとどまらず、高野山の真言宗にも教えを請いました。

法然の専修念仏と禅宗が民間に広がり、日蓮が選択したのは天台宗の本来の基軸であった法華一乗の題目でした。

「法華経(ほけきょう)」には、末法の救いは法華経だけだという記述があります。

法華経を広めることが自己の指名であると確信した日蓮は比叡山を下山して故郷へ帰り、妙法(法華経)への帰依を説きます。

それが日蓮宗の立派です。

 

日蓮の開いた日蓮宗とは

 

日蓮の開いた日蓮宗の教えは妙法(法華経)の題目「妙法蓮華経」に帰依すれば、誰でも即身成仏できるとしたことです。

妙法蓮華経に帰依することを意味する「南無」を頭につけて「南無妙法蓮華経」を唱えれば、たとえ悪人であっても極楽往生できると説いています。

 

日蓮宗の独創的なところは法華経の題目「妙法蓮華経」の5文字にすでに果てしない過去に成仏されたお釈迦様の修行の功徳と悟りが備わっているとする考えです。

お釈迦様が35歳で悟りを開いてから80歳で入滅なさるまでの45年間の教えのことを仏教といいます。

その教えは巻数にすると7000巻以上に上ります。

日蓮はそのうちのたったひとつ妙法蓮華経が最も大事な教えであると同時にその中身を観なくても題目を信じること(帰依すること)が悟りであるとしています。

 

まとめ

 

さて、長らく説明して参りましたが、6つの鎌倉新仏教の特徴をまとめて紹介します。

  • 浄土宗

「南無阿弥陀仏」の念仏をただひたすらに唱えれば誰でも極楽浄土へ行けるという教え。

  • 浄土真宗

真心を込めて「南無阿弥陀仏」を唱えることが悟りに最も近づくことのできる方法であるという教え。

  • 時宗

賦算をもって阿弥陀仏の本願に結ばれる。普段が死ぬときであると心得よという教え。また、念仏は楽しく唱えるのが最も良いとして踊念仏を広めました。

  • 臨済宗

師匠から弟子への悟りを伝達することを意味する法嗣(ほっす)によって、人間のもつ仏の本性が現れて悟りが開けるとした教え。

  • 曹洞宗

坐禅を組む状態が人間のもつ仏の本性が現れて悟りが開けるとした教え。

  • 日蓮宗

法華経の題目に帰依することで誰でも極楽往生できるという教え。

 

天台宗や真言宗のような旧仏教とは異なり、6つの宗派はシンプルで豊富な学力(知識)がなくても救済できるとした庶民向けの仏教です。










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