怨霊を鎮め、平安京を守った「上御霊神社」は、応仁の乱勃発の地







奈良時代から平安時代にかけて、各地で天災が相次ぎ、疫病が流行しました。

都人は、これらを怨霊(おんりょう:恨みを抱いて、たたる霊)の仕業と恐れ、鎮魂の儀式を行いました。

また怨霊を、鎮護の神「御霊」として祀るために、御霊神社を建立しました。

今回は「御霊信仰」が広まるきっかけとなった事件と、応仁の乱勃発の地「上御霊神社」(かみごりょうじんじゃ)の歴史をお届けします。

 

平安遷都の時代より、皇族や京の人々に、広く崇敬される古社

京都最古の祭礼とも言われる「御霊祭」が催される上御霊神社(正式名:御霊神社)は、1200年以上前から京都を守護する古社です。

京都御所の北、御霊の森と呼ばれた地には、古くは地元の豪族の氏寺(うじでら:一族の菩提寺)上出雲寺の鎮守社(寺を鎮守する神社)がありました。

 

平安遷都の年、桓武天皇(かんむ:第50代天皇)が、早良親王(さわらしんのう:桓武天皇の実弟)の霊を鎮めるために、御霊神社を創建しました。

その後、政争のために亡くなった7柱を祀り、合わせて「八所御霊」とも呼ばれます。

 

また、「皇居御産土神(うぶすながみ:生まれた土地の守護神)」として、皇室の深い崇敬を受け、現在も皇族(皇太子など)の参拝が続いています。

鳥居や蔵、神輿などに見られる「菊花の紋」や、寄贈物からも皇室とのつながりの深さがうかがえますね。

また、京都の人々からも「上御霊さん」と親しまれ、厄除けや心しずめ、安産の神様として崇められています。

 

怨霊を祀り、都の平穏を願った上御霊神社の略年表

 

  • 7~8世紀 出雲寺(上出雲寺)が創建されたと伝わる
  • 延暦13年(794)桓武天皇が、早良親王(崇道天皇:すどうてんのう)を祀ったのが始まり(863年創建とも言われる)
  • 貞観5年(863)御霊会(ごりょうえ:怨霊を鎮める祭)が始まった
  • 延長4年(926)金堂などを建立し、釈迦如来像を安置する
  • 応永30年(1423)足利義満が参詣し、太刀を奉納する
  • 文正2年(1467)畠山政長が境内に布陣し御霊合戦となり、応仁・文明の乱が始まる
  • 文明10年(1478)焼失するも、後に足利氏により再建される
  • 天正13年(1585)神殿が造営される
  • 元禄3年(1690)松尾芭蕉が参詣
  • 享保18年(1733)皇室より寄進された内裏賢所御殿(皇居で宮中祭祀を行う場所)を本殿とした
  • 明治元年(1868)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:仏教排斥運動)により、観音堂や鐘堂などが撤去される
  • 明治4年(1871)御霊祭の御所巡行が廃止となる
  • 昭和45年(1970)本殿が再建される
  • 平成21年(2009)御霊祭の御所巡行が復活する

 

※現在の祭神(本殿八座:奈良時代末期から平安時代初期に、政争により非業の死を遂げた人々)

  • 祟道天皇(すどう てんのう:早良親王、光仁天皇の第二皇子)
  • 井上大皇后(いのえの おおきさき:聖武天皇の第一皇女、光仁天皇の皇后、他戸親王の母)
  • 他戸親王(おさべ しんのう:光仁天皇の第四皇子)
  • 藤原吉子(ふじわらの きっし:桓武天皇夫人、伊予親王の母)
  • 文屋宮田麿(ふんやの みやたまろ)
  • 橘逸勢(たちばなの はやなり)
  • 吉備真備(きびの まきび)
  • 火雷神(からいしん)

 

※45代 聖武天皇 46代 孝謙天皇 47代 淳仁天皇 48代 称徳天皇 49代 光仁天皇 50代 桓武天皇 51代 平城天皇 52代 嵯峨天皇

 

井上大皇后の冤罪:光仁天皇呪詛事件

 

772年に井上皇后は、夫の光仁天皇を呪ったという大逆罪(たいぎゃくざい:皇族に危害を加える罪)で、皇后を廃位されます。

井上皇后の長男・他戸皇太子(光仁天皇の次の天皇に決まっていた)も廃位され、翌年には山部親王(のちの桓武天皇)が皇太子になりました。

 

773年、難波内親王(なにわないしんのう:光仁天皇の実姉)を、井上皇后が呪詛(じゅそ:災いが及ぶように呪うこと)して殺害したとの嫌疑がかかり、皇族の身分を取り消され、他戸親王と共に大和国(奈良)に幽閉されました。

775年4月、幽閉先で母子が、同じ日に急死します。

 

死因については、藤原百川(ふじわらの ももかわ:長女の藤原旅子は桓武天皇夫人)による毒殺説などがありますが、真相は不明です。

呪詛事件そのものが、山部親王を皇太子に推した、藤原式家(ふじわらしきけ:右大臣 藤原不比等の三男の藤原宇合を祖とする家系)の陰謀だと言われています。

800年、桓武天皇は鎮魂のため、皇后と追号(ついごう:死後におくられる称号)し、井上皇后の名誉は回復されました。

 

早良親王の冤罪:藤原種継(たねつぐ)暗殺事件

 

早良親王は、光仁天皇の皇子で桓武天皇の実弟でしたが、母親の身分が低かったため、皇太子には選ばれず、異母弟の他戸親王が次期天皇に決まっていました。

761年、11歳で出家して東大寺などで修業、親王禅師(ぜんじ:高徳の僧侶)と呼ばれるほど優秀だったようです。

781年、実兄の桓武天皇が即位した年、父・光仁天皇の命で、早良親王は還俗(げんぞく:僧侶が俗人に戻ること)させられ、皇太子になりました。

しかし、桓武天皇は自分の子(安殿親王:のちの平城天皇)に皇位を継承したいと考えるようになり、早良親王が邪魔になっていました。

 

当時、仏教勢力が強大な力を持っており、政治にも口出しする状況を、桓武天皇は良しとせず、既存の仏教や貴族勢力と距離を置こうと考えます。

784年、桓武天皇は社会や政治、宗教の改革を行うために、平城京から長岡京に遷都しました。

 

785年、天皇から信頼され、長岡京造営の責任者を任されていた「藤原種継」が、何者かに矢を射られ暗殺されました。

犯人として捕らえられ斬首された大伴継人らが、当時台頭してきた藤原式家を牽制するために起こした事件と言われていますが、諸説あります。

ちなみに、事件前にすでに亡くなっていた、あの大伴家持(万葉集歌人、中納言)までもが、事件の首謀者として、官位を剥奪されています。

 

また、種継と対立していたとされる早良親王は、この事件の背後にいたとの濡れ衣を着せられ、乙訓寺に幽閉されてしまいます。

早良親王は、一言の弁明も許されず、淡路へと流刑になる道中、自らの潔白を訴えるため、断食し果てました。

 

その後の都での天変地異や疫病の流行、桓武天皇の周辺の不幸は、「早良親王のたたり」が原因とされます。

怨霊の祟りを恐れた聖武天皇は、鎮魂の儀式を行い、御霊神社に祀ることで、早良親王の御霊を慰め続けました。

800年には、早良親王を祟道天皇と追号しました。(皇位継承していないので、歴代天皇に名はありません)

 

藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麿も無実の罪で死亡しました

 

807年、藤原吉子(桓武天皇夫人、伊予親王の母)と伊予親王(桓武天皇の第三皇子)は、平城天皇(伊予親王の異母兄)への謀反の罪で幽閉され、母子共に服毒自殺しました。

のちに二人の無罪が認められ、吉子は819年に夫人の号に復され、839年に従二位を贈られました。

 

842年、橘逸勢(書家・貴族)は謀反の罪で捕まり、拷問を受けても無罪を主張しましたが、伊豆に流刑となり、移送の途中で病死しました。

のちに罪が許され、850年に正五位下、853年に従四位下が贈られ、863年に御霊会で祀られました。

なお橘逸勢は、空海や嵯峨天皇と並び「三筆」と称される、高名な書家です

 

843年、文屋宮田麿(文室宮田麻呂:貴族)は、謀反の罪で伊豆に流刑となり、冤罪のまま死亡しました。

のちに無実であるとされ、863年に神泉苑の御霊会で慰霊されました。

 

754年に吉備真備、901年に菅原道真(火雷神とされる)は、大宰府に左遷されます。

なお、学者という低い身分で右大臣まで出世したのは、この2人だけです。

ずば抜けて優秀な人物だっただけに、周りからは酷く妬まれたのでしょう。

どの時代も、権力のあるところには、陰謀と策略が渦巻いているのですね。

 

非業の死を遂げた人々の怨霊を鎮めるお祭り

 

863年に行われた御霊会(ごりょうえ)を起源とする「御霊祭」は、京都最古の祭礼と言われています。

例年、5月1日に神幸祭、5月18日に還幸祭が催され、多くの観光客で賑わいます。

江戸時代に皇室から寄進された、鳳輦(ほうれん:天皇の乗り物)を改造した、華やかな神輿が京の町を練り歩きます。

ちなみに、八坂神社の祭礼の「祇園祭(ぎおんまつり)」も、869年の御霊会が起源とされています。

 

都を焼き尽くす応仁の乱は、お家騒動から

 

応仁の乱は、畠山氏と斯波氏(しばし)の家督争い、細川氏と山名氏の勢力争いに、足利義政の後継者問題が絡んで争われた内乱です。

東西両軍に別れ、1467年から1477年までの11年間続き、戦火は京都から全国へと広がっていきました。

 

室町幕府は将軍の力が弱く、菅領(かんれい:将軍を補佐する最高の役職)の三氏(細川、斯波、畠山)や守護大名(山名など)、重臣の影響を強く受けていました。

このため、将軍家のみならず、守護大名家でも後継者争いが頻繁に起きていました。

混乱のさなか、畠山氏などの後見を得て、8歳で次期将軍職に選出された足利義政は、元服を迎えた1449年、第8代将軍に就任しました。

 

1454年、畠山義就(はたけやま よしひろ・よしなり)は、足利義政の裁可を得て、当主となりました。

しかし翌年義就は、将軍の上意と偽り、大和(奈良)への軍事介入を繰り返したため、足利義政の信用を失ってしまいます。

畠山義就に所領を攻撃された細川勝元は、畠山政長(義就のいとこ)を擁立、足利義政に認められた政長が、1460年に畠山氏の家督を継ぎ、義就を追放しました。

足利義政は、畠山氏以外にも斯波氏や富樫氏などの家督争いに介入していますが、調停する力はありませんでした。

無力な将軍のもと、「細川勝元と山名宗全の勢力争い」は、激化していきます。

 

1464年、日野富子との間に男子がいなかった足利義政は、細川勝元の後見を得て、実弟の足利義視(よしみ)に譲位しようとします。

しかし翌年、富子は足利義尚を出産、山名宗全を頼り、義尚を将軍職に就けようとします。

こうして、将軍家の後継者争いは、細川対山名の構図を鮮明にし、全国の守護大名を二分することになりました。

 

1466年、山名宗全の支援を受けた畠山義就が、大軍で上洛(じょうらく:政治の中心の京都に入ること)し、義就が畠山家の当主となることを、足利義政に認めさせました。

これに反発した畠山政長と後見の細川勝元は、畠山義就を討とうとしますが失敗、足利義政は義就が政長を攻撃することを認めてしまいます。

 

1467年1月17日深夜、畠山政長は自ら屋敷を焼き、2000の兵を率いて、上御霊神社の境内に布陣しました。

18日早朝、敵対する畠山義就は、山名宗全らの加勢を得て、兵3000で政長を攻撃、まる1日戦いは続きました。

細川勝元の援軍を得られなかった政長は、社に火を放ち敗走します。

この戦いは「御霊合戦」と呼ばれ、全国の守護大名を巻き込む「応仁の乱」の前哨戦とされています。

細川勝元率いる「東軍(東陣)」は16万、山名宗全率いる「西軍(西陣)」は11万の兵力であったと言われ、戦いは京都から、やがて地方へと広がっていきました。

 

1470年以降、合戦の目的が曖昧になり、1472年には細川・山名間で、和睦が検討されるようになりました。

さらに、1473年3月に山名宗全、5月に細川勝元が亡くなり、再び和睦交渉が行われましたが、畠山政長と畠山義就が反対します。

1474年には、将軍足利義政が義尚に譲位して実権を失う一方、義政の正室・日野富子の勢力は拡大していきます。

同年、山名政豊と細川政元の間で和睦が成立するも、和睦反対勢による小競り合いや寝返りなどの混乱が続きました。

 

1477年、京都を焦土と化してしまった11年間の長い戦いは、ついに終息を迎えます。

応仁の乱により国人(こくじん:土着の領主)が頭角をあらわし、世の中は下剋上に象徴される「戦国時代」へと移っていきます。

 

2017年、応仁の乱勃発から550年を記念して「応仁の乱発端 御霊合戦旧跡」と記された石碑(細川護煕元首相筆)と説明板が境内に設置されました。

除幕式には、細川氏と山名氏の子孫が出席し、握手を交わしました。

 

上御霊神社は一初アヤメの名所|桜や紅葉も

 

2612坪の境内に、見どころが点在しています。

南門(四脚門)は、1600年に落城した「伏見城」の四脚門を移築したものと伝わります。

1690年12月には松尾芭蕉が参拝し、「半日は神を友にや年忘れ」の句を奉納、句碑が井戸館東側にあります。

本殿は、1733年に皇室より寄進された「内裏賢所御殿」を昭和45年に復原したものです。

 

4月下旬から5月上旬、華やかな紫色の一初(いちはつ:アヤメ科)が、参拝者の目を楽しませます。

また上御霊神社は、春の桜や秋の紅葉の穴場的スポットですので、混雑が苦手な人にはおすすめですよ。

 

上御霊神社の基本情報

 

拝観時間
7:00~日没

拝観料
無料

ごりょうさんの「さえずり市」
毎月18日(5月を除く) 9:00~16:00

「こころしずめ」のお守り
初穂料1000円「大祓詞(おほはらえのことば)」付

 

アクセス
地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」から徒歩3分
市バス37系統「出雲路俵町」下車、西へ400m

駐車場
境内に参拝者専用駐車場、無料

問い合わせ
TEL:075-441-2260/FAX:075-441-6066
受付:9:00~17:00

住所
〒602-0896
京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495

※京都府神社庁ホームページ http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/02/004/


 

京都屈指の古社で、パワーを頂きましょう

 

御霊会から始まる上御霊神社の成り立ちと、応仁の乱の前哨戦となる御霊合戦に至る経緯をお届けしましたが、いかがでしたか。

平安遷都から室町時代の終焉まで、歴史を辿りながらの参拝にはおすすめの、京都屈指の古社です。

 

境内は「暴れん坊将軍」「銭形平次」「水戸黄門」「鬼平犯科帳」などのロケ地になっていますので、時代劇ファンの方もぜひ訪れてみてくださいね。

修学旅行や観光ツアーでは立ち寄ることの少ない神社ですが、心地よい静寂のなかゆっくりと参拝し、1200年以上にわたり都を守ってきた御霊のパワーを頂戴しましょう。












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