聖徳太子が制定した冠位十二階とは?わかりやすく詳しく解説!







日本史の教科書では最初のほうに出てくる「冠位十二階」ですが、これについてちゃんと内容を理解している方は少ないと思います。

冠位十二階は聖徳太子の偉業のひとつで、「飛鳥時代 聖徳太子 冠位十二階」と機械的に覚えた方がほとんどのはず。

こちらの記事では冠位十二階について、わかりやすく、そして制定された経緯などについて詳しく説明します。

 

聖徳太子が制定した冠位十二階の内容を知ってるかい?

聖徳太子

聖徳太子は飛鳥時代に活躍した日本史上では、超人のように言い伝えられている人物です。

その聖徳太子の偉業のひとつとして挙げられるのが冠位十二階という制度。

 

冠位十二階は日本史上初の階級制度で、西暦604年に聖徳太子によって制定されました。

冠位十二階は聖徳太子が隋や朝鮮などをはじめとする大陸の国々の王朝が採用していた身分制度を参考にしつつ、12の階級を作り大和朝廷に仕える豪族の身分を定める制度でした。

また、身分を定められた豪族たちには12色の冠と装束が支給されて、ひと目でその役人がどの階級の役人であるかを明確にできるようになりました。

 

冠位十二階で定められた階級と冠の色

 

冠位十二階は12の階級と12色の冠があったことを先ほど説明しました。

それでは、聖徳太子が考案した冠位十二階の階級や冠の色などの内容について、以下にご紹介します。

 

《冠の色:階級》

濃紫:大徳(だいとく)

薄紫:小徳(しょうとく)

濃青:大仁(だいにん)

薄青:小仁(しょうにん)

真紅:大礼(だいらい)

桜色:小礼(しょうらい)

橙色:大信(だいしん)

黄色:小信(しょうしん)

純白:大義(だいぎ)

薄白:小義(しょうぎ)

漆黒:大智(だいち)

薄黒:小智(しょうち)

※身分は上から高い順

 

聖徳太子が考えた冠位十二階の最高位は大徳(だいとく)で冠の色は濃紫です。

聖徳太子自身の身分は大徳だったので、正装するときは濃紫の冠と上位を着て宮中に参内(さんだい)しました。

階級の名前と冠の色は中国の儒教(じゅきょう)や陰陽五行説(おんみょうごぎょうせつ)が取り入れられていて、聖徳太子や高官たちが儒教や中国の学問をいかに重要視していたのかを知ることができます。

 

冠位十二階制定前の日本の政治事情

 

当時の日本における大和政権の勢力は西日本まででした。

また、当時の天皇の権威はそこまで高くなく、各地に点在する豪族の協力を得て支配していました。

そのためか、天皇の命令を無視するような豪族もおり、天皇は豪族の協力なくして日本を支配下におさめる力をまだ持っていませんでした。

 

その豪族たちに言うことを聞かせることのできる2大勢力がありました。

それが、神武天皇の皇子の子孫とされる物部氏と後に聖徳太子の一族を根絶やしにする蘇我氏です。

古墳~飛鳥時代にかけての天皇は彼らを味方につける必要があり、少なからず彼らに頭が上がらないところがありました。

そして当時の日本が遅れていた原因のひとつとして氏姓制度というものがありました。

 

冠位十二階ができる前は氏姓による身分制度

 

氏族制度とは、古代の日本において大和政権に貢献、政治的に上位にあった者に対し天皇が氏の名と姓の名を与え、その特権的な権威を祖父から父へ、父から子へ世襲させていった制度です。

古代日本の政治基盤はこのような氏姓制度にもとづく氏族や部族が社会単位となっていて、個人に対する評価は存在していませんでした。

 

氏姓制度による身分制度では役人を統括するのは天皇陛下ではなく、氏姓を与えられた一族の首長になっている豪族でした。

大半の役人は首長となっていた豪族の言うことに従っていたため、この頃の天皇陛下は政治を行いづらい立場にあったのです。

 

冠位十二階が制定されるキッカケ?推古天皇が冠位十二階を制定するように聖徳太子に命令していた?

推古天皇

推古天皇(すいこてんのう)といえば、日本史上初の女帝です。

その日本史上初の女帝、推古天皇は冠位十二階を取り入れることによって、氏族制度を撤廃天皇主導の政治を志しました。

 

聖徳太子は推古天皇の弟であった用明天皇(ようめいてんのう)の長男なので推古天皇から見た聖徳太子は甥っ子、聖徳太子から見た推古天皇は伯母という間柄でした。

聖徳太子の太子は皇太子という意味があります。

 

なぜ甥っ子の聖徳太子が皇太子なのかと疑問が生じるのですが、それには悲しい過去がありました。

推古天皇は異母兄(いぼけい)の敏達天皇(びだつてんのう)と結婚させられたので、もともとは皇后という立場でした。

夫との間には竹田皇子(ちくだのおうじ)を設けるのですが、次期天皇第一候補だった竹田皇子は推古天皇が即位する数年前に病死してしまいます。

そのため弟の忘れ形見であり、数多くの親戚の中でも麒麟児だった聖徳太子を皇太子とし、己の治世の摂政(天皇が幼いか女性であるときに政治を執る役職)として重用しました。

 

推古天皇は当時猛威を振るい、やりたい放題だった蘇我氏を牽制しつつ天皇主体の政治を行うためにも、あらたな人材登用をしようと考えます。

その為には実力のある者が役職につき、なおかつ天皇陛下が信頼できる役人に仕事を任せられるような制度が必要だと判断しました。

そして、己が最も信頼し当時天才だと注目を集めていた聖徳太子に「氏姓制度に対抗できる仕組みを作りなさい」と指示したのです。

 

まとめ

 

聖徳太子が冠位十二階を制定したのには以下のような戦略的な内容が含まれていました。

 

  • 氏姓制度への対抗策
  • 新たな人材登用方法の確立
  • 天皇の信頼できる個人に役職を任命するため
  • 個人の能力を評価して身分を与えられるようにするため
  • ひと目で身分の高低を識別できるようにするため

 

いかがでしょう?

冠位十二階とは、当時、世襲によって身分が決まるという氏姓制度に対抗する為に制定されました。

これにより能力のある者へ身分や役職を与えると同時に、天皇家が信頼できる者へ役職を与え、蘇我氏への牽制機能を果たしました。

約1400年前にこのように戦略的な内容をもつ冠位十二階の制定した聖徳太子は名実ともに偉大な太子といえるでしょう。










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