江戸末期の売れっ子浮世絵師 「冨嶽三十六景」を描いた葛飾北斎の人生とは







江戸時代末期、日本で初めての印税収入で生計を立てた売れっ子浮世絵師が登場します。

その人物こそ「冨嶽三十六景」や「北斎漫画」をこの世に残した『葛飾北斎(かつしかほくさい)』という浮世絵師です。

本記事では江戸末期の人気浮世絵師『葛飾北斎』の人生について綴ります。

 

誕生から青年期までの葛飾北斎

葛飾北斎 自画像

 

葛飾北斎は西暦1760年、本所割下水(ほんじょわりげすい)、現在の墨田区両国のあたりで産声を上げます。

そして4歳のときに江戸幕府に鏡を治める江戸幕府将軍家御用達の御用鏡師のもとに養子へ入ります。

しかし葛飾北斎は養父の稼業だった鏡造りを覚える気もなく、幼少のころから絵ばかりを描いていたそうです。

 

10代も半ばになると葛飾北斎は貸本屋の小僧として働いたり、瓦版などの版木の彫師を営みます。

そして葛飾北斎は19歳になったとき、「やはり俺には絵しかない」ということで、自身の人生を大きく左右することになる一大決心をします。

その決心とは、当時江戸で有名だった浮世絵師の勝川春章(かつかわしゅんしょう)の門を叩き、弟子入りすることでした。

 

この一大決心はまさに大成功でした。

葛飾北斎は勝川春章に弟子入りして以来、遊女などをモデルとした美人画や歌舞伎役者をモデルとする役者絵でメキメキと力をつけていきます。

 

売れっ子小説家滝沢馬琴とコラボして葛飾北斎の絵は大ヒット

滝沢馬琴

葛飾北斎は40大後半で運命的な出会いをします。

「東海道中膝栗毛」「南総里見八犬伝」で人気を博した人気売れっ子作家の滝沢馬琴(たきざわばきん)との出会いです。

葛飾北斎は滝沢馬琴の書いた物語の挿絵を描くことでコラボレーションを果たし、葛飾北斎の絵とその名は滝沢馬琴の作品を通して多くの者へ伝わり、瞬く間に大ヒットしました。

これをきっかけに葛飾北斎は江戸を代表する人気絵師へと成長したのでした。

 

日本史上初の印税画家(絵師)へと成長した葛飾北斎

 

葛飾北斎は絵を描くことに対して非常に貪欲でした。

それまでの画家(絵師)という職業の人々は庶民であればお店や工業製品の制作を手伝いつつ、寝る間や食事の時間を惜しんで描いたり、幕府や大名家のお抱えの画家(絵師)となって固定給をもらいながら絵を描く公務員として勤務するのが一般的でした。

 

あの水墨画の巨匠雪舟(せっしゅう)でさえ本業は寺の住職なのですから絵だけで生活することは今以上に難しいことが想像できるでしょう。

そのため、当時の絵師は絵を描く時間が取れないと判断したときには「絵を描いてくれ」というオファーを断ったり、自分の雇い主以外からの依頼は断るというのがごく当たり前のことでした。

 

ところが葛飾北斎はそんなことなどお構いなしに声がかかればあっちの版元へ、また声がかかればこっちの版元へと依頼があるところを渡り歩きました。

葛飾北斎はいろいろな画法を身に着けていたこともあって版元のリクエストに必ず答えられる絵師として引っ張りだこでした。

 

葛飾北斎ら江戸末期の画家(絵師)は稼ぎづらいシステムで働いていた

冨嶽三十六景 凱風快晴

現在の経済では本やイラストなどの著作物を出版すると著作者へ定価の10%×刷部数の印税が収入として得ることができます。

ところが葛飾北斎たち江戸末期の画家(絵師)への収入の仕組みは、版元つまり出版社の社長が「こういうコンセプトの絵を描いてほしい」というリクエストとともに画工料(がっこうりょう)を支払います。

 

画工料は絵を描くための工賃でその中には構図の選定、スケッチ、デザインなど絵を描く工程のすべての料金が含まれています。

画家(絵師)への収入はこのあらかじめ支払われる画工料1回きりで、完成したあとはどれだけ絵が売れようがその利益はすべて版元の収入となります。

そのため当時の画家(絵師)は同じ絵が何枚も売れるよりもより多くの絵を描かなければ自分の懐が温かくならないシステムの下で働いていました。

 

そして、このシステムのもとで描いた絵が「冨嶽三十六景」

冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏

 

当時旅行ブームだったことに版元が目をつけて巷で有名だった葛飾北斎に依頼したことで大ヒット。

後に西洋の画家が真似をして現在でも人気を博す名画となりました。

 

葛飾北斎は偏屈者?

冨嶽三十六景 駿州江尻

葛飾北斎はもちろん天才絵師として有名ですが、当時は偏屈者でもその名が通っていました。

 

葛飾北斎は人生で2度の結婚と離婚をします。

離婚原因は葛飾北斎のあまりの偏屈っぷりに奥さんがついていけなくなったからであるといわれています。

 

また、葛飾北斎は2人の妻との間に2男4女をもうけますがお阿栄(えよ)さんという娘だけを自分の弟子にして引き取ります。

子供が6人もいたのにお阿栄さんだけを弟子にしたのは「他の子に絵の才能がないから」ということだけでした。

ちなみにお阿栄さんは美人画のジャンルにおいては父親の葛飾北斎をしのぐ絵師になります。

また、葛飾北斎は人生で93回も引っ越しをした人物で、多い時には1日に3回も引っ越しをしたそうです。

 

偏屈者としての極めつけは葛飾北斎の描写スタイルです。

葛飾北斎ほどの絵師なら自分のアトリエとなる作業場で絵を描いているように思えますが、葛飾北斎は寝室で布団を被って絵を描くというおかしな恰好で絵を大量生産しました。

 

漫画家のルーツは葛飾北斎?

 

葛飾北斎が50代も半ばとなると彼に弟子入りしたいという若者たちが多く入門してきます。

葛飾北斎がとった弟子の数は人生を通しておよそ1000人もいたそうです。

 

教えなければならない弟子が1000人ともなると一人ひとりに絵を教えることができなくなります。

葛飾北斎の絵画教室はお寺の大広間を貸し切り、弟子を並べられるだけ並べてウロウロと歩き回りながら教えるスタイルでした。

しかし、それでも弟子の多くに指導が行き届いていないことに気づいた葛飾北斎はいろいろな場面やキャラクターを描いた「北斎漫画」を描きます。

 

漫画の漫は様々な場面、雑多なこと、目的がない様という意味があり、葛飾北斎は北斎漫画を「これを手本として学べ」と言って弟子に配布します。

当初は絵の手本として発行したものでしたが、鼻息でろうそくの火を消したり、木登りをする男や相撲をとるカエルなどの絵が面白いと評判になり大衆向けにも販売されるようになりました。

 

死に際しても絵を極めようとした葛飾北斎

葛飾北斎 自画像

葛飾北斎は98歳で亡くなるまでの間に多くの名画とたくさんの弟子を輩出しました。

最早日本国内に絵で葛飾北斎の右に出るものはいないという言われる巨匠であったのにタコや魚をモチーフとした絵や春画(男女の性交を描いた絵)、動物を擬人化した絵など新しいジャンルに挑戦します。

 

老衰と病気によって布団から起き上がれなくなってもなお、葛飾北斎は布団で絵を描き続けます。

そしてついに病魔の苦しみに耐えきらなくなり、娘のお阿栄や多くの弟子に看取られながら98年の人生に終止符を打ちます。

そして亡くなる寸前葛飾北斎は手に筆をとりながらこのように言ったそうです。

「天があと10年、いや1年でも寿命を与えてくれていたのなら、私は絵を極められたのに」。

 

まとめ

 

世界的にも有名な絵師としてその名を現在に伝える葛飾北斎

葛飾北斎は類稀なる天才画家(天才絵師)です。

葛飾北斎が天才だと言われる理由は多くありますが、ひとつは壮年期を過ぎてもありとあらゆる画法を渡り歩き水墨画や西洋画など多方面の作品の画法を吸収して己の技へと昇華させたことでしょう。

 

そして死に際してもいまだ絵を極めようという意思を表した葛飾北斎の人生は、ただひたすらに絵を極め続けた人生だったといえるでしょう。










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