越後の龍や軍神と呼ばれ全国各地の戦国大名たちから恐れられた上杉謙信は、48歳という短い生涯で毘沙門天(びしゃもんてん)を信奉し続けました。
その信仰心は厚く、幾度となく上杉当主の座を明け渡して出家しようと試みたほどです。
上杉謙信が生涯信奉した毘沙門天とはどのような存在だったのでしょうか。
上杉謙信が信奉した毘沙門天とは
日本人、もといアジア圏内の人であれば「毘沙門天」の名を知らない人はごく少数でしょう。
毘沙門天とは、天部に属する仏神で持国天(じこくてん)、増長天(ぞうじょうてん)、広目天(こうもくてん)らと並び仏教を守護する四天王の一尊に数えられ、その役割は武神(戦いの神)です。
先に記述した天部というのは、仏神の4つの区分で4番目にあたるカテゴリーです。
仏神は最高位に大日如来(釈迦如来:ブッタのこと)が位置し、次に不動明王をはじめとする明王、その次に観音菩薩などの菩薩、そのまた次に毘沙門天など名前の語尾に「天」がつく天部が続きます。
仏教発祥のインドでは、毘沙門天のことを「ヴァイシュラヴァナ」と言います。
実はインドでは毘沙門天に武神の性格はなく、ヒンドュー教においてクベーラと呼ばれる富と財宝を司る神として信仰されています。
毘沙門天の像にはいろいろな姿があり、上杉謙信が崇拝していた毘沙門天の姿は天邪鬼(あまのじゃく)を片端で踏みつけ、右手を腰に左手に戟という武器を持っています。
腰をくねらせ牙を向く形相は悪を懲らしめる正義そのものです。
上杉謙信はその姿から学んだのでしょう。正義のない戦、侵攻は決して行わなかったそうです。
中国での毘沙門天
次に我が国のお隣、中国で毘沙門天がどのように解釈されているかを記載します。
日本に毘沙門天が伝えられたのは中国からなので、インドと日本の解釈の差を追求する手がかりとなります。
実はインドから中国へ仏教が伝わる過程で、毘沙門天には武神としての信仰が誕生していました。
仏教の守護神としての概念も中国で誕生していたため、必然的に日本に伝わるときにはすでに財神としての一面は失っていました。
「毘沙門」の表記は中国で「ヴァイシュラヴァナ」の音を当て字にしたもの。「ヴァイシュラヴァナ」には「よく聞くところの者」という意味も含まれているため、多聞天(たもんてん)とも訳されました。
毘沙門天と多聞天の区別
毘沙門天と多聞天。
それぞれ別々の仏様だと思われがちですが、どちらも「ヴァイシュラヴァナ」のことをさしています。
日本では毘沙門天または多聞天のどちらを呼称すべきか、定義を設けています。
まず多聞天と称する場合は、四天王のひとりとして安置するときに用います。
次に毘沙門天の場合は、独尊として安置するときに用います。
簡単に言うと、他の仏像と並べるときは「多聞天」、単体の仏像として置くときは「毘沙門天」と呼ぶように定義されています。
毘沙門天信仰発祥の地は鞍馬寺
日本において貴族以外が毘沙門天を信仰するようになったのは平安時代。
場所はかつて源義経が平清盛の情けで送られて鞍馬天狗に育てられたと伝わる鞍馬寺(くらまでら)です。
鞍馬はもともと市が栄えていたので、毘沙門天は本来の姿である財神として崇められました。
さらに、飢饉や疫病などに襲われてきたころには人々のすがりたい気持ちは仏に集まり、疫病を祓う神→無病息災を願う神としてシフトされました。
我こそは毘沙門天の化身 上杉謙信なるぞ
いま掲げたこのフレーズは、一騎打ちで名乗りを上げる際の上杉謙信の自己紹介です。
「人に名を尋ねるときはまず自分から」というマナーは武士の名乗りが由来しています。
こちらに示すフレーズの通り上杉謙信は自分のことを「毘沙門天の生まれ変わりである」と本気で信じていました。
また、上杉謙信の毘沙門天に対する信仰心は常軌を逸しています。
その傾倒っぷりを以下に記載してみました。
- 居城である春日山城に「毘沙門丸」という別棟を建設させた
- 毘沙門丸の中には毘沙門堂という上杉家専用のお堂を建設させた
- 戦で使う旗印に毘沙門天の「毘」の字を採用
- 白地の陣羽織の装飾は「毘」の一文字だけ
- 兜の前立てに仏像を装飾
- 手紙の最期の署名(花押しという)に「毘」の文字を崩してデザイン化したサインを書いていた
- 平時は朝昼晩、毘沙門天の前で勤行(読経すること)に励んだ
- 戦場に毘沙門天像を持ち込んだ
以上に書いたとおり、上杉謙信の頭の中は毘沙門、毘沙門、毘沙門…。
朝起きてから夜寝るまで頭の中は毘沙門天一色でした。
上杉謙信が毘沙門天の化身であるとした根拠
上杉謙信は日ノ本最強の大名だと言われています。
48年という生涯で戦績は全部で70回、そのうち勝てなかった(引き分けか敗戦かがわからない)戦はたったの2回だけ。
なんと勝率97%を誇る戦国大名でした。
そして、上杉謙信はなぜ戦に強いのか、その理由を「自分が軍神:毘沙門天の化身であるからだ」という答えに辿りつきました。
上杉謙信とともに合戦に参加した 泥足毘沙門天
上杉謙信が居城の春日山城に毘沙門堂を建立し、その中で毘沙門天を崇めていたことは先に記述しました。
その毘沙門堂についてのエピソードがあります。
上杉謙信が合戦の遠征から春日山城に帰り、いち早く向かったのは毘沙門堂。
戦勝の報告と家臣らの犠牲が少なかったことに対する感謝の意を伝えるため毘沙門堂に入室した上杉謙信は摩訶不思議な体験をしました。
毘沙門堂の戸を開けてみると、足の形をした泥の跡が点在していました。
上杉謙信がその足跡をたどってみると、それは毘沙門堂に安置した上杉謙信所有の毘沙門天像のところで消えていました。
それを見た上杉謙信は「ああ、毘沙門が我とともに戦に同行してくれていたのだ」と解釈し、それ以降毘沙門堂に安置された高さ40cmほどの毘沙門天像は「泥足毘沙門天」と呼ばれるようになりました。
上杉謙信が日本初の軍神
「軍神」という称号は、古代中国から用いられました。
三国志に登場する劉備玄徳の義弟:関聖帝君こと関羽雲長や斉の軍神蘭陵王(高長恭)、唐代の李靖。
モンゴルでは漢を幾度となく襲い小国ながら高祖劉邦に降伏させた冒頓単于(ぼくとつぜんう)も軍神と称され戦場で大活躍しました。
ところが、日本では戦国時代まで数々の戦はあれど、軍神とあがめられるほどの武将はいませんでした。
上杉謙信こそ名実ともに日本初の軍神と言えます。
まとめ
上杉謙信が崇拝した毘沙門天について説明しました。
上杉謙信が信奉した泥足毘沙門天は上杉謙信の死後、上杉謙信の霊柩(遺体)とともに謙信の霊廟に祀られました。
そして、江戸時代が終わり明治時代に突入すると上杉謙信の霊柩を現在の上杉廟所へ泥足毘沙門天はその近くにある法音寺に移されることになりました。
傷みの激しかったこの像は昭和に入ってから修復され、同時にかけらを胎内に入れた分身仏が作成されました。
その分身仏は春日山城跡に再建された毘沙門堂の本尊となっており、上杉謙信が戦勝祈願、家内安全、無病息災を願った場所が再現されています。
気になる方はぜひ新潟県上越市にある春日山城跡地へ足を運んでみてください。
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