上杉謙信の晩年と死因は?軍神でさえも勝てなかった病魔、脳卒中







上杉謙信は軍神と謳われ各地の大名たちが恐れをなした戦上手でしたが、軍神でさえ己の体を蝕む病魔に勝つことができませんでした。

上杉謙信の死因は諸説あり、信じがたい説には「実は女性で経血が大量に出たことによる失血ショック死」とするものまであります。

今回は、上杉謙信の晩年と一般的に死因と考えられている脳卒中説について解説いたします。

 

晩年の川中島合戦中、上杉謙信には死因となる高血圧や脳卒中が近づいていた

川中島合戦は北信濃の葛尾城主の村上義清が武田信玄に侵攻されて救援を要請したことから始まります。

上杉謙信は他国を侵略しようとする武田信玄の傍若無人なふるまいに天誅を与えんと立ち上がりました。

以後12年間に及ぶ歳月で5度戦ったのが、天下に名高い川中島合戦です。

第一次~第三次までの川中島合戦は小競り合いをした程度で武田信玄が退却をしたので、上杉謙信も追撃することなく終戦しました。

 

第四次が唯一の激戦で、上杉謙信は単騎で武田本陣に乗り込み武田信玄へ一太刀浴びせていますが、残念ながら軍配で防がれ傷をつけることができませんでした。

第五次では雌雄を決しようとする上杉謙信の誘いに乗らず、一カ月余り睨み合いを続けた後にどちらともなく陣払いをして川中島合戦の終わりを告げました。

そしてこのときすでに上杉謙信は死因となる脳卒中で一度倒れ、高血圧の持病を抱える身体になっていました。

 

晩年まで正義のためだけに戦い続けた上杉謙信

上杉謙信は晩年まで決して正義のない戦をしませんでした。

彼は戦国一の戦上手でありながら自国の領土拡大のための戦や政敵となる相手の討伐など侵略行為につながることは一切していません。

むしろ自分たちのために戦った戦は最低限度で、晩年まで戦ってきたほとんどの戦は同盟国の救援要請や侵略行為を妨害するための戦がほとんどでした。

 

第一回目の川中島合戦が行われる前年には、関東管領上杉憲政が北条氏康に侵攻されて援けを求め、出陣し、以後主家の失地回復のために尽力しています。

 

上杉主家の周りには有力な大名や武将が多くおり、上杉謙信が越後に帰還すると北条氏康が出てきて佐野昌綱、小田氏治、小山秀綱、成田長泰らが相次いで叛き、上杉謙信が再び天誅を下すべく遠征するとかの者どもは退散することを幾度となく繰り返し、いっこうに埒が明かない状況が続きました。

そうこうしているうちに織田信長に京都を追放されていた足利義昭より「毛利輝元と結託して信長を挟撃せよ」という下知を賜り、長綱連、柴田勝家らを破った勢いで京都へ攻め上る算段だったのですが、関東地方で北条氏がのさばっていると出陣要請がしきりに届いたため、一度帰国して関東を鎮圧してから上洛することを決定しました。

 

晩年の戦い 上杉謙信最初で最後の大動員令

 

上杉謙信が脳卒中で帰らぬ人となる晩年。

北条氏を征伐するべく春日山城へ凱旋した上杉謙信のもとに北条氏康からの和議を求める書状が武田勝頼を通じて届いたため、上杉謙信は関東への出陣を取りやめて、京都までの大遠征に軍事方針を切り替えました。

それにあたり、上杉軍団39名の武将に上野、越中、能登、加賀の諸将を加えた81名の武将の名を書き記し、「上杉軍団動員名簿」を作成しました。

上杉謙信は翌年の正月に名簿に記入した諸将に対して大動員令を発令し、雪解けを待って3月15日を出陣日と定めました。

ところが、いよいよ出陣が迫った3月9日。

上杉謙信は突然厠(かわや:トイレ)で倒れました。

その原因は脳卒中による脳内出血でした。

 

医師らの治療の甲斐もなく、上杉謙信は昏睡状態のままその月の13日に死因の脳卒中により、この世を去りました。

享年49歳。

葬儀は出陣日に定めた15日に執り行われ、織田信長は武田信玄と上杉謙信という二人の強敵の相次ぐ急死により、2度の危機を脱する結果となりました。

 

上杉謙信は死因となる脳卒中以外にも持病があった

上杉謙信には持病がふたつあったと言われています。

そのひとつは高血圧、もうひとつは直接の死因となった脳卒中予備軍です。

上杉謙信は日頃から無類の酒好きで、しかもつまみにする肴には梅干しやイカの塩辛、味噌など塩気の強いものを好んで食べました。

そのうえ、短気で激昂しやすい性分であったことから、アルコールと塩分、そして性格的にも高血圧になる要因を十分に整えていました。

高血圧の状態が続き動脈硬化に陥ると脳の血管は破裂しやすくなります。

 

事実、上杉謙信は一度40歳のときに脳卒中の発作に襲われた経験があります。

幸いこの時は回復したのですが、その後遺症として左足に麻痺が残りました。

これは右側の大脳に出血がおこり、その結果として左半身、とくに左足に運動障害をきたしていたことを意味しています。

脳卒中などの脳内出血というのは、一気に大出血が起きるのではなく、大脳半球のあちこちに少しずつ小出血巣が生じ、これらが寄り集まって大出血につながるのが一般的です。

このように上杉謙信の体は高血圧と脳卒中の発作がいつ起きるかわからない状態にありました。

 

最晩年の3月9日 上杉謙信の死因となった脳卒中で倒れた日

 

最晩年に京都へ上洛せんという上杉謙信の出陣命令に先立ち、6万人に及ぶ上杉軍団が府内に集結していました。

ところが、出陣を間近に控えた3月9日の正午、酒宴を催していた上杉謙信は酔いが回った状態でフラフラと厠(かわや:トイレ)へ用を足しに行きました。

けれどもなかなか上杉謙信が戻って来ません。

不信に思った家臣のひとりが厠へ様子を見に行くと、そこには白目をひんむいて顔を歪めてぐったりしている主君が転がっていました。

 

城内はたちまち大騒ぎになり、諸方の名医が急遽呼び集められました。

それと同時に高尚な僧侶たちも召集して病魔退散の祈祷が始まりました。

こうした治療のおかげで上杉謙信はその3日後に意識が戻ります。

うつろな目を宙に向けて、なにか言いたげな表情を浮かべていたが、それもつかの間のことで再び深い眠りにつきました。

そして次の日となる3月13日の午後2時ごろ、昏睡状態から醒めぬまま生きを引き取りました。

軍神上杉謙信とはいえ、脳卒中の及ぼす脳内出血にはあらがうことができませんでした。

 

まとめ

 

軍神上杉謙信の死因は脳卒中による脳内出血でした。

晩年の上杉謙信は織田信長と北条氏を討伐するべく、激戦を繰り広げていました。

 

また、上杉謙信は高血圧と脳卒中予備軍の持病がありました。

上杉謙信の飲酒と塩気の強いものを好んで食べる食生活、元来の性格のことを考えれば脳卒中が死因になることは避けて通れなかったことがわかります。

もし、上杉謙信の晩年までの間に塩気の強いものや飲酒が脳卒中の原因であると立証できていたのなら、上杉家中の家臣が止めたり上杉謙信自身が控えるといった行動をとったかもしれません。










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