日本史上現存する最古の書物「古事記」と次に古いと言われている「日本書紀」。
みなさん具体的にこの2つはどこが違うのかおわかりでしょうか?
本記事では「古事記」と「日本書紀」それぞれの特徴と違いについて解説していきます。
古事記と日本書紀はなぜ混同しやすいのか

天武天皇
そもそもなぜ古事記と日本書紀が間違いやすいのかについて分析してみましょう。
古事記と日本書紀はどちらも西暦700年代、時代区分でいうと奈良時代に完成されました。
そして、古事記と日本書紀を編纂(へんさん)することを命じたのはどちらも天武天皇です。
書きはじめとなる年代もイザナギノミコトやイザナミノミコトらが登場する神代~飛鳥時代までとなっていて、内容的にも重複した部分が多いです。
そのため、古事記と日本書紀は混同して覚えられることがしばしばあるのです。
天皇家の統治を正当化しようとした古事記《古事記の特徴》

古事記の作成された背景から説明しましょう。
教科書にはこう書いてあります。
古事記の編纂(へんさん)させることを考えた天武天皇は口伝で伝え聞いた天皇家の伝説や失われてしまった伝承を書き留めた「旧辞」や、天皇家の系譜を記す「帝紀」にある記述に矛盾やあいまいな部分が多いことに気づきました。
そこで天武天皇は「きちんと正しい記録を残そう」ということで古事記の編纂(へんさん)を命じました。
この教科書で習う古事記の作成された理由ですが、どうもこれは建前の理由であるそうです。
古事記が作られた真の目的は「天皇家が日本を統治することを正当化すること」らしいのです。
古事記の編纂を命じたのは天武天皇でしたが、古事記は天武天皇の存命中に完成しませんでした。
そして一度は編纂(へんさん)が中止されるのですが、天武天皇から3代後の元明天皇のときに改めて古事記を完成させるようにと勅命(ちょくめい:天皇陛下の公式な命令)が下されました。
それを命令された人物が太安万侶(おおのやすまろ)で、ときに平城京への遷都が行われた翌年の西暦711年のことでした。
古事記は先に記した「旧辞」や「帝紀」という書物に記述された内容を稗田阿礼(ひえだのあれ)という超スーパー文人がすべて暗記し、それらをまとめながら口頭で話す内容を太安万侶(おおのやすまろ)がひたすら紙に書いていって作られました。
古事記の完成品は元明天皇に献上されたのがときに西暦712年。
2度目の編纂(へんさん)を命ぜられてから完成に至るまで半年足らずで完了するというハイスピードな作業で作られました。
古事記は紀伝体というそれぞれの章でお話が完結する体裁で書かれていて、物語風なテイストになっています。
また、日本人が読んで意味が分かりやすいように変体漢文(漢文を日本風にアレンジした記述法)が用いられています。
先ほど紹介したように、古事記の編纂(へんさん)の第一の目的は天皇家による日本の統治、大和朝廷による中央集権体制を正当化することにあったとされています。
この時代では多くの豪族が群雄割拠したなかで最後まで勝ち残った一族が大王家(天皇家)を名乗るようになっていたのです。
それらの自称大王家の豪族へ向けて、天皇家の神々しい成り立ちを分かり易く記載することによって、その権威、正当性を主張していたのです。
天皇家の神話や伝承を母体として、服属したほかの有力豪族の神話・伝承を結びつけ、融合させたものの決定版。
それが古事記だと言えます。
外国の目を意識した日本書紀《日本書紀の特徴》

日本書紀の編纂(へんさん)を最初に命じたのも天武天皇だと言いました。
しかしながら、日本書紀もまた天武天皇が存命中に完成することは叶いませんでした。
天智天皇に日本書紀の編纂責任者(へんさんせきにんしゃ)を命じられたのが、天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)で、当時は文学者のなかで一番文才があると聞こえた皇子でした。
日本書紀は古事記に比べると大規模なプロジェクトでした。
舎人親王(とねりしんのう)を代表とする皇子と朝廷でも文才に長けた文人の総勢6名によって編纂(へんさん)され、完成したのは古事記に遅れること約8年後の西暦720年でした。
よく古事記は神話集で日本書紀は歴史書だと言われますが、それは現代の見方であって編纂当時(へんさんとうじ)はそのような意識はありませんでした。
ただ古事記のほうが和風な漢文で書かれていたのに対し、日本書紀は純粋な漢文で書かれていることから唐(当時の中国)や新羅(しらぎ:当時の韓国)の人の目に触れることを意識して作られている可能性が高いです。
要するに、日本書紀は外国向けに「日本の王は天皇だ」ということを示すために書かれたものです。
「古事記」「日本書紀」はどちらも神話・歴史を扱っているものでありながら、対象とする時代や分隊、固有名詞、出雲神話の取り扱いなどに大きな違いが見られます。
特に日本書紀の出雲神話に対する扱いは冷淡すぎます。
また、日本書紀は編年体(へんねんたい)という体裁で書かれており、「いついつ 誰が なにをした」という簡潔な表現で時代の経過を意識した書き方になっています。
さらに日本書紀は公式な日本の歴史書として天皇家や朝廷に仕える官吏が必修しなければいけない書物となって後世に伝えられていきます。
「古事記」と「日本書紀」それぞれの生みの親
「古事記」を世に生み出した2名の偉人
学校のテストで人名を答えることはないと思いますが、穴埋め問題の文章中に登場する可能性が高いので重要なポイントを説明しましょう。
学識豊かな官吏
太安万侶(おおのやすまろ)
太安万侶(おおのやすまろ)は朝廷に仕える官吏であると同時に優れた学者でもありました。
官位は従五位下、従五位上を経て従四位下に。
官職は亡くなるまでに民部卿(みんぶきょう:民政を司る長官)にまで登りつめています。
太安万侶(おおのやすまろ)が古事記の編纂(へんさん)を命じられたのは、その学識の高さを天皇陛下から評価された為です。
家庭環境からして学業に向いていたのか、彼の出身氏族は平安時代以降、宮廷神事の歌舞音楽を司る官職を歴任しました。
非凡な記憶力の持主
稗田阿礼(ひえだのあれ)
太安万侶(おおのやすまろ)とともに古事記の編纂作業(へんさんさぎょう)で重要な役割を担った人物です。
天武天皇の舎人(とねり:警護や雑用をする役人)でしたが、非凡な記憶力を買われて古事記に編纂(へんさん)メンバーに加えられました。
稗田阿礼(ひえだのあれ)は名前が有名なわりに肝心なことが一切わかっておらず謎の多い役人として伝えられています。
そもそも男性か女性かという問題も発生していて舎人(とねり)という職業上男性である可能性が高いとする説もあれば、天之宇受売命(あめのうずめのみこと)の末裔と伝えられていることから女性とする説も根強く唱えられています。
天之宇受売命(あめのうずめのみこと)は天の岩戸(あまのいわと)事件の際、天照皇御神(あまてらすおうみかみ)を誘き出すために半裸で舞いを披露した女神です。
「日本書紀」を世に生み出した偉人
文才に恵まれた皇子
舎人親王(とねりしんのう)
日本書紀の編纂責任者(へんさんせきにんしゃ)の大役を引き受けたのは天武天皇の第三皇子だった舎人親王です。
母は天智天皇の娘である新田部皇女(にいたべのひめみこ)。
万葉集にも彼の短歌が載せられていることから文才にどれだけ恵まれていたのかがわかります。
生前の役職は知太政官事(ちだだだじょうかんじ)にまでなり、死後に太政大臣(だじょうだいじん:現内閣総理大臣のような大臣)を追贈されています。
仏教の振興にも尽力し、唐からの渡海中に何度も難破し失明した鑑真(がんじん)を日本に招き寄せたのも舎人親王の提案によるものだと伝えられています。
まとめ
「古事記」と「日本書紀」、混同しやすいふたつの書物について、それぞれの特徴と違いを説明しました。
本記事のおさらいとして違いや重要なポイントを表中にまとめてみました。
古事記 | 日本書紀 | |
編纂命令者 | 天武天皇 | 天武天皇 |
編纂責任者 | 太安万侶 (おおのやすまろ) | 舎人親王 (とねりしんのう) |
巻数 | 上中下の3巻 | 全30巻 |
表記 | 変体漢文(和風の漢文) | 漢文 |
構成 | 紀伝体(きでんたい:章ごとに完結) | 編年体(へんねんたい:いついつ~があった) |
完成 | 712年 | 720年 |
対象時期 | 神代~推古天皇 | 神代~持統天皇 |
編纂目的 | 国内に向けて日本は天皇家が統治することの正当化するため | 外国へ向けて日本の王は天皇だと主張するため |
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