キリシタン大名小西行長の最大の謎 商人出身なのになぜ大名になれたのか?







下克上の風潮が渦巻く戦国時代には美濃の斎藤道三、後の天下人豊臣秀吉など、商人や農民出身だった者が大名に立身出世を果たすレアなケースが起こりはじめます。

豊臣秀吉の家臣でキリシタン大名であったことでも知られる小西行長(こにしゆきなが)も商人の出身でありながら戦国大名へと登りつめたひとりです。

 

小西行長は実のところ具体的なことについてはほとんどわからなかった謎の多い武将でしたが、近年の歴史研究者たちによって徐々に謎多き小西行長の実像が暴かれてきています。

そして、小西行長の最大の謎だったのが商人出身の小西行長がなぜ戦国大名へと成り上がれたか?その理由でした。

 

今回はそんな小西行長について、大名に成り上がれた理由も含めてご紹介していきます。

 

小西行長の祖先も商人

 

小西行長の祖先は堺で商人を営んでいた父親までしかわかっていません。

小西行長の父親は小西隆左(こにしりゅうさ)と名乗り、堺で商人の地位についていた薬問屋でした。

その薬問屋の次男としてこの世に生を受けたのが小西行長です。

 

小西行長の父は日比屋氏という貿易商と姻戚関係(いんせきかんけい)を何度も結んでいました。

日比屋氏は大阪の堺に拠点を構える貿易商で、九州と堺をつなぐ海上輸送ルートを確保して巨万の富みを築いていました。

当時の堺は日本屈指の大きな商業都市で外国人も出入りする国際都市でもありました。

後に小西行長は海上輸送で注目を浴びるようになるのですが、それは父祖の代から続く日比屋氏とのコネクションを大いに活用したからこそ可能だったのです。

 

小西行長はキリシタン専用ルートを活用した商人

 

姻戚関係にあった小西行長の家と日比屋氏はともにキリシタンです。

もちろんキリスト教の布教活動を行っていた宣教師とのつながりは、信仰心からくるところもあったでしょうが、小西行長はキリスト教を商売に上手く利用していたことがわかっています。

小西行長はキリシタンのみが独占していた貿易ルートを商売に上手く活用していたのです。

 

小西行長は宇喜多氏にヘッドハンティングされ武家の道へ進んだ商人

小西行長

商人であった小西行長はその広い人脈を活かし、まずは宇喜多秀家の父である宇喜多直家の家臣となって武家の道を進み始めます。

この時代の商人が武家の家臣になるのは並大抵のことではありませんでした。

そんな商人出身の小西行長がいかにして武家の家臣になったのかご紹介しましょう。

 

先に記すとおり、小西行長は薬問屋の商人の次男として誕生しますが、商人の次男は実際その店の後を継ぐことは難しく、将来店の主人となる兄の手下として働くか、その庇護のもと一生独身で生きていく人生が決まっていたような立場でした。

そんな生まれながらに不利な状況であった小西行長に転機が訪れます。

 

備前国福岡の商人の阿部善定手代を務めていた源六養子となることになるのです。

手代というのは経営者の商人を補佐し、実務を取り仕切る役職のことで現代の企業に例えると部長クラスの立場にある役職です。

源六は後に魚屋九郎右衛門と改名し、岡山下之町へ出て呉服商で独立しました。

 

小西行長は養父の魚屋九郎右衛門、実父の小西隆左、そして母方の叔父にあたる日比屋氏の人脈を利用して有名な商人や大名家とも取引を交わすようになります。

そして小西行長は商売のため度々宇喜多直家のもとを訪れるようになります。

宇喜多直家は当時、連戦連勝の猛将として知られる人物です。

 

宇喜多直家は小西行長と何度も取引をするうちにその才能にほれ込み、是非自分のところにきてほしいと交渉。結果、小西行長を自分の家臣として大抜擢します。

 

その後、小西行長は宇喜多直家の使臣として豊臣秀吉が三木城を攻めていたころに遣わされます。

このときに豊臣秀吉が小西行長の才知を気に入って、豊臣秀吉配下の家臣になるのです。

 

商人だった小西行長が大名になるまでの活躍

 

小西行長がいつから豊臣秀吉に気に入られて家臣になったのか、その詳細はまだ知られていません。

しかし、豊臣秀吉からヘッドハンティングされたことは確かで、そのあと25歳のときに小豆島の管理を命ぜられ、28歳には豊臣秀吉の紀伊・四国攻めに水軍を束ねて参加しています。

そのことから、宣教師のルイス・フロイスによって小西行長は「水軍司令長官」と評されたのでした。

その後も兵糧輸送を任されるなど水軍の指揮官として活躍、さらには朝鮮との外交交渉にあたるなど外交官としての手腕も大いに発揮しています。

そのようにして次々と豊臣秀吉の期待に応えて着々と出世街道を歩んでいきます。

 

豊臣秀吉によるキリシタン最大の危機をうまくかわす

上記の活躍の数々から順風満帆に見えた小西行長に衝撃の危機が訪れます。

それは豊臣秀吉による伴天連追放令です。

今まで懇意に支援してきたキリスト教を豊臣秀吉が自分の権威を脅かす存在だとみなし、弾圧を開始したのです。

 

キリシタンだった小西行長はこのときに大いに困ってしまいました。

小西行長は所領に滞在させていた宣教師を一度は退去させたと見せかけましたが、本当はかくまいました。

これは貿易を独占していたイエズス会とのつながりは小西行長にとっては自分の存在価値を発揮するために大変重要なものだったからです。

こうして小西行長は表向きは豊臣秀吉に服従しながらも、実際はキリシタンをかくまい、貿易時のイエズス会全宣教師が保有するキリシタン専用貿易ルートをしたたかに確保していました。

 

まとめ

 

小西行長が商人の出身でありながら戦国大名のひとりとして成り上がることのできた要因は2つありました。

1つ目は実父と養父、母方の叔父にあたる名だたる商人の人脈やノウハウを活用して大名家との取引を頻繁に行うことで、実力を見出してもらう機会を作ったこと。

2つ目は、親や親戚が懇意にしていたキリシタンと友好的な関係を結ぶことで、親や親戚がすでに独占していた貿易ルートに加え、キリシタン専用の貿易ルートを通って海上輸送や海外との貿易で力を発揮したことです。










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