平安時代の文化である国風文化の代表例に『源氏物語』があります。
源氏物語は世界最古の長編小説のひとつとされていて、日本だけでなく世界的にもとても重要な作品です。
こちらの記事では、源氏物語の作者である『紫式部(むらさきしきぶ)』の人生について解説します。
紫式部 人生のはじまり
紫式部が生まれたのは、平安時代の真ん中くらい、西暦でいうと970年~978年と言われています。
実のところ正確な生まれた年と亡くなった年は未だに不明のままです。
そのため紫式部の生まれた年と亡くなった年については今まで多くの歴史専門家が研究をしていて、さまざまな記録や手紙の内容からこの970年~978年に生まれたであろうとうことが推測されました。
紫式部の父は藤原為時(ふじわらのためとき)といい、天皇の家庭教師を務めた方です。
『紫式部』の《式部》は父の職業の名前で紫式部の本当の名前ではありません。
お母さんは藤原為信の娘で、紫式部と同じようになんという名前であったのかは不明です(平安時代の女性は名前がない、もしくは父親の名前に女と書いていました)。
幼い時から文学の才能を開花させていた紫式部
紫式部には姉と兄がいたことがわかっています。
兄は父と同じ職業につき、越後守と言って今の新潟県を治めるお役人さんになった人物です。
紫式部は兄とともに父である藤原為時に漢文(中国語で書かれた文章)を習っていたところ、兄がなかなか覚えられなかったのに紫式部はすぐに覚えてしまったので「紫式部が男の子だったら将来すばらしい学者になれたのに、女の子だなんてもったいない…」と残念がっていたのは有名な話です。
紫式部は頭の良さはさることながら、気遣いもよくできた女性であったらしく男性のプライドを気傷つけないようにわざと漢字の「一」を書けないフリをしたり、知っていることでも「わからないから教えてください」と言って男性たちの気分をよくさせようと努力した女性だったと伝えられています。
紫式部の結婚
紫式部は28歳のときに父の親友で親子ほどの年齢差がある藤原宜孝(ふじわらののぶたか)と結婚します。
結婚から1年後に娘である藤原賢子を出産しますが、その2年後に宜孝は病気のためこの世を去りました。
わずか3年間というあまりにも短い結婚生活でした。
紫式部源氏物語を書き始める
紫式部はまだ幼かった賢子の子育てをしながら、夫に先立たれた寂しさを紛らわせるため小説を書き始めます。
その小説が後に世界最古の長編恋愛小説となる『源氏物語』です。
そしてこの源氏物語のおかげで紫式部は人生最大の味方を得ます。
その味方とされる人物が「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることも なしと思へば」という歌を詠んだ藤原道長(ふじわらのみちなが)です。
藤原道長と言えば平安時代に摂政、関白として日本を牛耳った男。その貴族のNo1が味方となったのですから、紫式部の生活は安泰です。
藤原道長は紫式部の書いた源氏物語を読み、「ぜひこの物語の作者に私の娘の家庭教師になってもらいたい」という強い希望で紫式部に宮仕えを頼みました。
紫式部の書く源氏物語は藤原道長の武器
この当時、藤原道長は兄である藤原道隆の娘である定子が一条天皇の皇后になったことに対抗して自分の娘の彰子を一条天皇の后に嫁がせました。
皇后がふたりいることは前代未聞のことで、藤原道長はなんとしても自分の娘である彰子に一条天皇の皇子を生ませなければ、摂政や関白の座に就くことができなかったので、なんとしても彰子と一条天皇が接触する機会を増やす必要がありました。
そして片や定子の家庭教師は枕草子を書いた清少納言で、当時貴族の間では人気の高かった宮女集団でした。
そこで藤原道長が考えたのが紫式部が書く源氏物語をダシにして一条天皇を彰子の部屋に誘いこむ作戦を思いついたのです。
一条天皇と藤原道長は紫式部のファンになった
紫式部の主な仕事は彰子の教育でした。
その教育はひらがな、カタカナだけに留まらず算術や漢文、化粧の仕方までなども教えたそうです。
そして夜は源氏物語を書くという毎日を送っていました。
このときすでに源氏物語は宮中で流行していて、一条天皇は源氏物語の続きを早く読みたいあまりに毎日彰子の部屋を訪れ、藤原の道長にいたっては紫式部の寝室の戸を叩いて「はやく続きを書いてたも~」とせがむほどだったといわれています。
10年という歳月をかけて源氏物語を書いた紫式部
一条天皇が藤原道隆の娘(定子)をとるか藤原道長の娘(彰子)をとるか、女同士、兄弟同士の政争の勝者は紫式部が家庭教師を務める彰子(藤原道長の娘)でした。
そして紫式部は西暦1010年ごろにようやく世界最古の長編恋愛小説である源氏物語を完成させます。
源氏物語は全部で54巻。400字詰の原稿用紙が約2400枚使わないと著(あらわ)せない文字数でした。
紫式部が源氏物語を書き始めてから約10年の歳月が流れていました。
源氏物語を書き終えた紫式部は彰子のもとを去る
源氏物語を書くという役目を果たした紫式部は、西暦1012年ごろに娘の賢子に跡を継がせて彰子のもとを去り、隠居生活を送ります。
そしてそれからほどなくして西暦1014年ごろ約40年という生涯に幕を下ろします。
40歳なら若いのではないかと思われるのですが、当時の宮仕えをしていた女性は日頃のストレスと過度の運動不足から病を患うことが多く、平均寿命は30~35歳の間でした。
そのため、紫式部は当時の宮女としては長生きをした女性です。
まとめ
紫式部の約40年という短い人生について説明しました。
紫式部書いた源氏物語は平安時代から現在まで読み継がれる名著で、映画や漫画の題材となったり最近では瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう=日本史上初の女性住職)さんが「源氏物語講談会」なるものを度々催して源氏物語のすばらしさや源氏物語から読み取れる当時の貴族の暮らし、仏教の教えと融合させて人生の教訓などをわかりやすく説明してくれています。
源氏物語の作者、紫式部の人生とは文学の才能を十分に発揮し、源氏物語によって日本の政治に大きな影響を及ぼした人生でした。
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