零戦と戦艦大和にみる日本のモノづくり







零式艦上戦闘機、通称「ゼロ戦」。戦時中から使われた名前で戦後に付けられた名前ではありません。

「ゼロ戦」と「零戦」で半々くらいだったという戦後も生き残った搭乗員の発言もあります。

 

そして戦艦大和、太平洋戦争に興味が無い人でも「宇宙戦艦ヤマト」や、「艦これ」で名前は知っている人は多いでしょう。

 

このふたつは、太平洋戦争中の日本を代表する兵器であることは間違いないです。

そして、日本人がこの兵器を造り上げたことは、戦後日本人の誇りの核になっていたのではないでしょうか?

黒船がやってきて、零戦、大和が作られるまでの間が約70年。ちょうど現代と黒船来航の中間地点になりますね。

このふたつの兵器がどのように作られ、日本人のモノづくりにどんな影響を与えたのか?

その点を考察してみました。

 

技術の最先端で最新鋭ではない兵器

零戦戦艦大和も、実戦に投入されるべき兵器であったのです。兵器に大切なことはなんでしょうか?

 

それは、どのような工業製品でも同じです。

スマホでもパソコンでも、そのソフトも同じで、想定される使用環境に対し、使用者が十分に満足できる要求仕様がなされ、それを実現することです。

そもそも、零戦は「戦艦による艦隊決戦」の補助戦力としての存在として作られました。

艦隊上空の制空権を維持し、敵の観測機を排除すること。敵の攻撃機を排除すること。

そのために、長大な航続距離がもたらされました。

あれは結果論でして、要求仕様は「滞空時間」であったのです。

 

 

零戦の要求仕様は過酷であったという言説が今も強いです。

それは設計主務者の堀越二郎氏の主張によることが大きいのですが、実際のこところ、最高速度時速500㎞はすでに、実戦で実現されている実用機のレベルでした。

確かに、いくつか難しい問題はあったのは事実ですが、それはエンジンの開発が遅れていたため、それを基準として「無理、困難」と堀越氏は主張したのです。

実際、1000馬力級のエンジンの機体とすれば、さほど最先端の尖った性能を狙った機体ではなかったのです。

むしろ、96式戦闘機の後継を担う順当な進化の途上にある真っ当な要求仕様であったといえます。

 

戦艦大和についても、全く同じです。

機関はわざわざ、デチェーンをして安全性を高めています。戦艦としては今までの戦艦をそのまま大きく強力な大砲を積むという流れで造られたものです。

確かに、いろいろな難問はあったでしょうが、それまでの技術を一新するような画期的な手法は設計段階では何も導入されていません。

戦艦進化の正当な先にあったのが大和でした。

 

零戦に対する誤解

零戦には発展性は無かった。出来た時点が最高で、後は空戦性能が落ちてしまい、最新鋭のアメリカ軍機対抗できなくなったという通説は根強いです。

しかし、零戦は正当な進化を続け最後の52型丙では、極めて強力な戦闘になっています。

ただ、エンジン製造トラブルで、搭載するエンジンが以前のモノを使わざるを得なかったのが不幸でした。

零戦は機体の発展性が無かったわけではないのです。

 

1944年の段階でも、アメリカ海軍の最新鋭機であるF6FやF4Uとの対戦では、十分に対抗しています。

戦史家の梅本弘氏の研究ではラバウルを中心とした防空戦で零戦は敵と互角以上に戦っていたことが撃墜数、被撃墜数の突合せで判明しています。

 

初期の零戦である21型は、機体を左右に傾ける横転性能が悪く、決して傑出した性能の戦闘機ではなかったのです。

むしろ鍛え上げられた海軍の搭乗員の技量に助けられた面が大きかったでしょう。

その後の52型が零戦の完成した型であり、前線における52型の評価は高かったのです。

 

大和の価値は設計ではなく、製造だった

大和は世界最大の46センチ砲を積み、最大410ミリの20度の傾斜付の舷側装甲板と、上部甲板装甲に200ミリを超える装甲を装着したまさに、攻防能力では世界最高の戦艦でした。

よく、大和とアイオワ級が戦ったらという話をネットや本でみます。

そもそも戦艦は単艦での戦闘など想定して作られていませんので、このIF自体にあまり意味がないものではあるのですが、少なくともアイオワの16インチ砲では大和の倍たるパートの装甲板を打ち抜く距離は非常に限られたものとなります。

かなりの接近戦でなければ、勝機はなかったでしょう。

 

よくレーダー射撃の精度や火器管制システムの優越からアイオワ有利という話も出ますが、実戦でアイオワが優れた命中率を発揮したことはありません。まあ、同じことは大和にもいえますが。

おそらく一対一で戦えば、お互いに弾があまりにもあたらないという事態になったかもしれないです。

 

そもそも、大和の価値はそのような船を設計したことではなく、本当に造ってしまったことに価値があります。

それも画期的なプロジェクト管理体制で大和は作られました。

戦後あまり口を開くことの無かった造船士官に西島亮二氏がいます。

大和の建造、その現場におけるプロジェクトリーダーでした。

彼が生み出した、生産管理技術。工程管理、進捗情報の一元管理、製造工程の問題の共有化などの、技術こそが、戦後の日本の産業界の財産になったのではないかと思います。

大和の工数は姉妹艦である武蔵に比べて圧倒的に少なかったのです。

普通は後から作られる艦の方が工数の少ないのが普通でした。

 

戦後の日本のモノづくり

零戦は日本人のモノづくりの心の支柱、精神的な核になったのではないかと思います。

正確に言うならば、零戦を含む日本の航空産業でしょうか。

 

基本的な技術で大きく欧米に遅れていた日本が、欧米を上回る兵器を開発したという事実は非常に大きいです。

それは、自動車産業がアメリカを席巻している1980年代――

日本の自動車技術者は「アメリカは零戦に対抗して新鋭機を生み出した、このままで済むわけない」というコメントを残しているのを私は見たことがあるのです。

日本人技術者の頭の中には零戦は刻み込まれていたのだと思います。その成功と失敗の両方が、戦後日本技術者の糧となったはずです。

 

そして、戦艦大和は巨大なプロジェクトを動かすときの日本人の能力を大きく引き上げたのではないでしょうか。

戦後、いち早く立ち直り、外貨を稼いだのは造船業でした。

造船業に止まらず、生産現場の効率化、いかに生産性を上げるかという面において、日本は世界をリードしていきます。

その源流を辿ると、戦艦大和建造プロジェクトがそこにあったのではないかと思うのです。










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