織田信長の最良の理解者『平手政秀』 織田信長と平手政秀の関係







尾張のうつけ殿と呼ばれた織田信長を天下統一の礎を築く大物に育て上げた平手政秀(ひらてまさひで)は残念ながら、その偉業を目にすることなく織田信長の行動を諫めるために命を捧げます。

そして、その話は美談として後世に伝えられています。

織田信長の成長を誰よりも近くで見守り、曲がった行動を正すために命を持って真っ直ぐに戻した『平手政秀』

本記事ではそんな平手政秀と織田信長の関係について解説します。

 

織田信長の育ての親 平手政秀(ひらてまさひで)

織田信長

平手政秀は天下統一の礎を築く、第六天魔王こと織田信長の養育係を務めた織田家の家臣です。

平手政秀は織田信長の父信秀から多大な信頼を寄せられる忠臣でした。

戦国大名は己が最も信頼できる関係にある家臣に子供の養育を任せることが一般的な時代、織田信長は父信秀の英才教育のおかげで3歳のころから那古野城主を任され、両親、兄弟たちと引き離されて、平手政秀や乳母である池田恒興の母、侍女たちによって育てられました。

 

平手政秀の実像

 

平手政秀はしばしば漫画「信長協奏曲」「信長のシェフ」などで優しそうな老人として登場します。

しかし、平手政秀の実像は文武両道に長けたかなりの切れ者でした。

その証拠として織田家の家老にあたる『宿老』という役職を務めています。

平手政秀は織田家に仕える尾張志賀城主の嫡男で、織田家中では名門の出身でした。

平手政秀は主君である織田信秀の代理として朝廷の内裏修繕の任を承る交渉人として京都へ派遣され、他の戦国大名たちからその役目を勝ち取ったり、戦国大名たちと敵対する石山本願寺に赴き、証如上人と面会して無駄な血を流さず一揆をおさめるなど、交渉人としては凄腕と上方中で噂された人物でした。

 

織田信長と平手政秀の関係

 

織田信長が13歳で元服をしたとき、養育係の平手政秀はすでに55歳という老臣となっており、父親というよりはおじいさんのような存在であったと推定されます。

織田信長は平手政秀のことを厚く信頼しており、また尊敬さえもしていたそうです。

平手政秀は織田信長をただ養育するだけでなく、立派な君主にするために身を粉にする苦労をいとわずあたりました。

 

そのひとつは信長という名前です。

平手政秀は親しい関係の禅僧沢彦宗恩(たくげんそうおん)に幼名から実名に改名する際の縁起のよい実名を考えるように依頼しました。

信長の意味は「他日国家を掌握する者」というおめでたい意味があります。

 

次に示すべきは織田信長の結婚です。

平手政秀は他国への侵略や自国防衛を重ねながら、主君の嫁取りに奔走しました。

織田信長の初陣では平手政秀がその後見役を務め、初陣を飾らせた後すぐに美濃の斎藤道三に撃追される信秀を救わんと己の政治手腕をもって敵方の主に交渉を持ちかけるのです。

それが、織田家と斎藤家の同盟を結ぶことと織田信長と濃姫の政略結婚です。

敵方の本拠地に乗り込み、戦争の和睦と主君の結婚、そして同盟を一気に締結させた平手政秀の数ある功績の中でも1位2位を争う偉業です。

 

平手政秀は織田信長の良き理解者

 

両親や兄弟たちと引き離されて育った生い立ちからか、織田信長は不良少年へと成長しました。

織田信長は7歳のときにはすでに「悪様(わろさま)」というあだ名をつけられていたことが、後世に伝わっています。

 

織田信長は那古野城主でありながら毎日の仕事は平手政秀や乳兄弟の池田恒興、丹羽長秀らに任せて自身は城下町に繰り出して遊び放題でした。

当時の織田信長のファッションは、ちょんまげに女ものの派手な着物を身に着け、裾をたくし上げて腰にひょうたんと刀をぶら下げるというもので、どう見ても一城の主には見えない装いでした。

 

さらに、信長の奇行はそれだけに留まりません。

会議中にいきなり外へ飛び出して何も告げることなく水泳をしに行ったり、執務中に消えたかと思えば城下町にある妓楼で女踊りを踊っていたなど誰も予想のできない行動をとることが珍しくなかったのです。

しかし、そんなときに主に代わって家臣たちをすぐにまとめ上げ、城中を平常運転させ誰よりも早く織田信長を迎えに行ったのが平手政秀でした。

 

織田信長のこのような奇行の数々から、織田家家中では織田信長を当主としてふさわしくないという声や「うつけ殿(バカ殿)」というように不満を漏らす声が止むことがありませんでした。

 

そういった中で平手政秀は

「悪様(わろさま)はけっしてうつけではない。悪様の考え方が斬新すぎてみんながついて行けていないだけなんだ。我々は家臣として悪様の心中を察する努力をするべきだ」

と諫めたそうです。

家臣たちにはそのように声をかける一方で、織田信長には城主としての在り方や政治運営、国家経営に至るまでを厳しく指導したと言われています。

 

己の死を持って織田信長を諫めた平手政秀

 

織田信長の養育係である平手政秀の最期は、諫死(かんし)であると言われています。

諫死とは主君に対しえあえて苦言を呈する代わりに自害をしてより強く訴求することです。

 

平手政秀の諫死については、織田信長の一代記である信長公記にも美談として書かれています。

同書では平手政秀の行った諫死についてこのように記しています。

「平手中務丞(平手政秀のこと)、上総介信長公(織田信長のこと)実目に御座なき様体をくやみ、守り立て候しるしなく候へば、在命候ても詮無き事と申し候て、腹を切り相果」

つまり平手政秀は織田信長の実目(真面目でない勤務態度)を悔やみ、守り立てる甲斐もなく、また先代当主の信秀期待に答えられなかった不甲斐なさと織田信長の前途に悲観して切腹したと書かれているのです。

 

まとめ

 

平手政秀(ひらてまさひで)は織田信長が尊敬し、厚い信頼を寄せる家臣でした。

織田信長が生涯名乗り続ける名前も生涯添い遂げる伴侶、政治や戦術に関する戦国大名にとって必要不可欠な教えを授けてくれた織田信長にとってなくてはならない関係にある人物でした。

 

平手政秀の諫死はうつけ殿と呼ばれた織田信長にとっても衝撃的な事件だったようで、実の父や兄弟が死んだときよりも悲しんだと伝えられています。

織田信長は平手政秀の遺体を丁重に葬り、墓までも建てて、毎年供養したそうです。

大名によって家臣の墓が立てられるのは大変異例なことで、亡き父の位牌に遺灰を投げつけるような織田信長が毎年供養したことから、平手政秀は織田信長にとって実の家族を超えた関係にあったことがわかります。

平手政秀はこの世を去っても、天国で織田信長の成長を見守り続けたに違いありません。












<script>

よろしければシェアお願いします!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です