『この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』
(この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない)
上記の歌は藤原道長(ふじわらのみちなが)が詠んだものです。
藤原道長の娘の威子(いし)が後一条天皇の中宮(ちゅうぐう:正妻)となった夜、祝宴の席で道長が詠みました。
これは、天皇も東宮(皇太子)も自分の外孫であり、太皇太后(天皇の祖母)、皇太后(天皇の母親)、中宮(皇后)という三后をすべて自分の娘で固めた道長の歓喜の歌でした。
このように血縁関係によって不動の摂政・関白となった道長は藤原氏の最盛期を迎えますが、その後は”もののけ”や”呪い”に苦しめられることになりました。
この記事では、栄華を極めた藤原道長の”もののけ”や”呪い”に苦しめられた晩年をご紹介します。
藤原道長は栄華を極めたその後“もののけ”に悩まされた?
月が満ちて満月になればそれが欠けるのも世の習いです。
藤原道長を最初に襲ったのは、小一条院の女御、寛子(かんし)の死でした。
寛子は生前“もののけ”に悩まされていました。
”もののけ”とは、人に憑りついて病気などのたたりをする霊のことです。
”もののけ”には生きている者の怨念が霊体となった生霊と死者の死霊があります。
寛子に憑りついたのは左大臣藤原顕光(ふじわらのあきみつ)とその娘、延子(えんし)の死霊でした。
寛子の夫である小一条院敦明親王(あつあきらしんのう)はもともと三条天皇の東宮(皇太子)でした。
しかし、敦明親王は道長の圧力によって東宮を辞退するはめになります。
それと引き替えに、道長は自分の娘だった寛子を嫁がせました。

敦明親王
それでおさまらなかったのが敦明親王に娘の延子を嫁がせて外戚の座を狙っていた藤原顕光でした。
すでに延子と敦明親王との間には6人の皇子と皇女が生まれていましたが、敦明親王の東宮退位によってその願いは無残にも打ち砕かれてしまいました。
それだけでなく、敦明親王の愛情は権威を振るう道長の若い娘である寛子にすっかり移ってしまいました。
延子は悲しみのあまり病床に伏せ、寂しいまま病死してしまいます。
娘に先立たれた藤原顕光は、道長と寛子親子を激しく呪い、その気持ちを抱いたまま亡くなります。
このように怨念を抱えたままこの世を去った親子の死霊が寛子に憑りついてしまったのです。
寛子がついに危篤に陥ると、道長は顔面蒼白となって娘の見舞いに参上しました。
すると寛子が激しく痙攣し、道長の袖をつかんでこう言います。
「あなたの小一条院へのなさり様はひどい。その恨みで私は死んでしまったことが悔しくてなりません」と。
これは寛子が発した言葉ではなく、延子が寛子に憑りつき寛子の口を借りて訴えた言葉でした。
やがて道長は寛子が確実に死を迎えることを悟り、臨終の儀式を執り行います。
ここに至ってようやく寛子に憑りついていた顕光と延子親子の死霊は、「今ぞ胸あく(今こそ胸のつかえがとれた)」叫んで成仏したと言われています。
過去の権力者から恨まれ、呪われるようになった藤原道長

藤原道長はたくさんのライバルを蹴落として摂政・関白の地位に就きました。
ライバルであれば実の兄でさえも手にかけたその様子はまるで地獄絵図のようです。
権力を手中におさめるということは、それほどの恨みや反感を受けることでもありました。
ある日道長は自身の屋敷の正門から帰宅しようとしたところ、道長が放し飼いにしていた飼い犬が道長の袴の裾を必死に引っ張って歩かせまいとしました。
「なぜこいつはこんなに引き留めるのか?」と疑問に思った道長はその足で陰陽師安倍晴明(あべのせいめい)を訪ねました。
安倍晴明が道長の屋敷を訪れると、正門の入口を指さして
「道長殿、あなたが御飼いになっている犬に感謝すべきです。ここに壺が埋められているはずなので、掘り起こしてください。」
と指示しました。
道長は家人に命じてその場を掘らせると、地中から壺が出てきました。
その壺のふたを開けると、ムカデや毒蜘蛛などの無数の毒虫がうごめいていました。
それは蟲術といって古代中国から伝わる呪いの呪術でした。
藤原氏の最盛期を迎えてから病気がちになった道長
「この世をば…」の歌を詠った頃から藤原道長は病気がちとなっていました。
その原因としては寛子に憑りついた顕光と延子親子の他に病のため関白となって10日で没した兄の道兼(みちかね)や道長の権力に屈して退位した三条天皇の怨霊の仕業ということが噂されていました。
道長は発作的な発熱や胸の痛みを訴えており、時には意識がなくなってしまうほどの重大な症状が出ていたと言われています。
道長が患った病は今でいう心臓病、糖尿病、白内障の併発であったようです。
さて、寛子の死から1カ月後、東宮后(皇太子妃)が後の後冷泉天皇(ごれいせんてんのう)を出産してすぐに亡くなります。
これも顕光と延子親子の怨霊の仕業とされました。
それから2年後、今度は皇太后(道長の娘)が死去してしまいます。
そして道長は娘の後を追うようにしてそれから2カ月後に重篤に陥りました。
病床に伏せてから10日後には水すらも喉を通らなくなり、下痢もあって衰弱がかなり進行しました。
つい数年前まで「この世をば…」と歌を詠み、絶大な権勢を振るった人物とは思えないほどの変わりようです。
道長は死の間際、9体の阿弥陀如来像の手から5色の糸をひき、自分の手に括り付けて念仏を唱えながら臨終しました。
息絶えた後も口が動き、あたかも念仏を唱えていたようであったと伝えられています。
まとめ
平安時代に栄華を極めた藤原道長は最盛期を迎えた後、“もののけ”や“呪い”に悩まされ続けました。
“もののけ”のたたりによって相次いで娘の命が奪われ、ついには自分も呪われる対象となり、病に倒れて病没したのでした。
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