『徳川家』に仇をなす、妖刀『村正』







刀剣に詳しくない人でも、一度は聞いたことがあるであろう妖刀として有名な『村正』は1本の刀ではなく、同じ銘の複数の刀剣のことを指します。

別称『千子村正』。

本来村正といえば伊勢国桑名の刀工の名です。

 

村正の銘は代々引き継がれ、3代までは少なくとも存在しています。

そして4代目からは『村正』から『千子』へと改称されます。

改称の理由は、『村正』によって徳川家が苦しんだからではないかと言われています。

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『村正』は真作も贋作も複数存在する

 

戦国時代に作られた村正と銘の付いた刀剣は打刀・脇差・短刀や槍など、戦場での消耗品として複数製作されていました。

『妖刀』として非常に有名な村正ですが、消耗品として使われていたことからも美術品としての価値は低く、『数打ち』の刀とされていました。

『数打ち』とはいかに安く、いかに早く大量に作れるかということを重視したもので、名刀には敵わないながらも村正は数打ちとは思えないほどの切れ味を誇っていたのだそうです。

 

かなりの知名度を持つ村正ですが、穂先に触れた蜻蛉が両断された『蜻蛉切』や、刀を振ることなく圧し付けるだけで棚ごと切ってしまった『へし切長谷部』のように名前の由来になるような逸話らしい逸話は残っていません。

妖刀と呼ばれるようになったのは、徳川家に害をもたらしたことから来ていると言われています。

しかしこの妖刀伝説は偶然と必然から成り立っている、背景が謎に包まれたものだったのです。

 

徳川家を苦しめた妖刀『村正』伝説

徳川家に何が起こったのでしょうか。

江戸幕府公式の記録『徳川実紀』によると、村正と徳川家康に関する事件が記載されていました。

 

  1. 祖父が殺害される際に使われた刀が『村正』だった。
  2. 父親を襲い殺害した刺客が『村正』の脇差を持っていた。
  3. 切腹した嫡男の介錯に使用されたのが『村正』だった。
  4. 家康自身も、何度も『村正』で負傷している。

 

さすがに4世代にわたって村正に傷つけられたということで、徳川家康本人が直々に村正の銘の付いた刀を持つことを禁じたのだそうです。

このことから『村正は徳川家に仇をなす妖刀だ』と言われるようになりました。

その後『村正』は徳川家から全て廃棄されることになり、危険だと噂を耳にした民衆さえも村正を避けるようになります。

しかし徳川家康が捨てるように命じた『村正』の銘を持つ刀ですが、全て無くすことは出来ませんでした。

 

切れ味の良い村正を手放したくない人達は、なんと『村正』の銘を削ったり酸をかけて溶かしたりして隠し持っていたのです。

奈良県の薬師寺で開催された『噂の刀展』では、『村正』の部分を何とかして消そうと削ったり溶かされたりと酷い傷のある村正をたくさん見ることが出来ました。

全て真作の村正だからこそ、隠蔽してしまおうとしたんですね。

 

一方徳川家と対立する倒幕派にとっては縁起物として扱われるようになり、幕府に敵対する立場にいる人たちは村正を集めたのだそうです。

大坂夏の陣で奇襲を仕掛けた真田幸村が、家康に向かって投げつけた刀も村正でした。

倒幕派が村正に固執して奪い合うまでになったことで、村正作だと偽って銘を打った贋作が大量に出回ってしまいました。

その贋作というのも、似ても似つかない粗悪なものから精巧に作られたものまでたくさん存在しています。

 

『村正』妖刀伝説は創作である可能性もある

 

家康の形見として村正を徳川美術館で管理することにした徳川家。

そのことからも分かるように、家康が村正を嫌って遠ざけていたという事実は無く、むしろコレクションしていたのではないかという説もあります。

刀工村正が刀を打っていた場所が徳川の領土に近く、村正作の刀がたくさん出回っていました。

四代に渡って徳川家の人間を傷つけたのが村正だったというのも、たくさんある村正がたまたま使われただけという可能性もあるのです。

 

徳川四天王の本多忠勝の槍『蜻蛉切』と、同じく徳川四天王の酒井忠次の刀『猪切』も村正一派である『藤原正真』の作です。

村正と関係のある刀剣を、重要な役割を担う家臣が持っていたということなので、たしかに村正を遠ざけているようには感じません。

 

1797年初演の歌舞伎『青楼詞合鏡(さとことば あわせかがみ)』に登場した村正は、妖刀として物語に登場しています。

この時にはすでに『妖刀村正』としての噂が広まっていました。

その後、1860年には『妖刀村正』に物語の中の重要な役割を負わせた『八幡祭小望月賑(はちまんまつり よみやのにぎわい)』の初演があり、大好評だったといいます。

以後様々な物語に『妖刀』として村正が登場したことで、現代でも『村正』といえば『妖刀』という認識になっていったのかもしれません。

 

しかしながら不思議なことに、家康の父親である広忠の死因は刺客に殺されたのではなく病死と記されている文献が多数あり、さらには嫡男切腹の時介錯に使われた刀についての記述はどこにも見られないというのです。

当時の小説家や歌舞伎に携わる人物が面白おかしく話を作り上げていて、それが史実として残ってしまったということもあるのでしょうか。

妖刀伝説の発祥や経緯などの情報は何一つ残っておらず、何が本当なのかは謎のままになっています。

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まとめ

 

妖刀として現代でも広く知られている『村正』は、非常に謎の多い刀であることが分かりました。

忌むべき存在として避けられてきたのであれば、美術館で家康の遺品として大切に保管されているのはやはりどう考えても不自然です。

多少の事実に尾ひれがついて、その内容に人気があったためにそういうことにしておこうと幕府内部の人間までも信じ込んでいったような、そんな感じがします。

 

量産品であるにも関わらず凄まじい切れ味と妖しい輝きを持つ村正は、妖刀伝説を信じ込ませるほどの魅力を持っているということなのではないでしょうか。










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