鎌倉幕府を開いた源頼朝の子孫はわずか3代で途絶えた!?源頼朝の子孫の歴史







日本で本格的に武家社会が始まるのは『源頼朝(みなもとのよりとも)』が鎌倉幕府を開いてからになります。

鎌倉幕府将軍家、すなわち源頼朝の子孫はわずか3代しか続かず、源頼朝の家系はとても短命な家系であったといえます。

鎌倉幕府将軍と言われても、鎌倉幕府を開いた『源頼朝』以外の名前はあまり一般的に知られていないと思いますので、この機会に知っていただければと思います。

 

本記事では、『源頼朝』没後の鎌倉幕府将軍家と頼朝の子孫たちについて説明したいと思います。

 

鎌倉幕府初代将軍 源頼朝の血を引く子たち

源頼朝

平安末期に平家を滅ぼして鎌倉幕府初代将軍となった源頼朝とその正妻北条政子の間には2人の息子と2人の娘がいたことがわかっています。

 

初子である長女の大姫(おおひめ)に続き、二代将軍の長男頼家(よりいえ)、右大臣と三代将軍を兼任した次男実朝(さねとも)、次女の乙姫(おとひめ)が二人の間の子です。

そして頼朝は側室の大進局(だいしんのつぼね)との間に貞暁(じょうぎょう)を授かっています。

頼朝と大進局との間に生まれた貞暁は幼くして出家させられました。

長女の大姫は頼朝が亡くなる前、すでに20歳という若さで死去していました。

 

頼朝の没後の鎌倉幕府将軍

二代目将軍 源頼家

源頼家

頼朝は42歳という若さで落馬して死去してしまいます。

その跡を継いだ長男の頼家(よりいえ)は自分の可愛がる家臣と、そうでない家臣をあからさまに差別して接するような将軍でした。

これを良く思わなかった母の北条政子は父と兄に頼家の腹心を討たせ、頼家を伊豆へ幽閉します。

頼家は幽閉されてから何度も家臣を自分の屋敷へ遣わすように母の政子に嘆願するのですが、政子はこれを断固として無視しました。

頼家はそれから2年後に政子の指示によって暗殺されてしまいます。

 

三代目将軍 源実朝

源実朝

兄とは正反対に育ったはずの次男実朝(さねとも)を三代将軍に就け、ようやく胸をなでおろせたはずの政子でしたが、次男の実朝は武家の子としてはふさわしくない教養がある、風流な男に育ってしまっていました。

 

今度も失敗したと思った政子は頼家の息子にして自分の孫である公暁(くぎょう)に「父上(頼家)を殺したのは叔父さん(実朝)だよ」と唆して公暁に実朝を暗殺させました。

そして、その次は君主に対して謀反を起こしたとして当時12歳だった公暁を死罪に処しました。

源実朝暗殺

 

※北条政子としている部分については北条氏とも言いかえることができます。(個人的には母親が子に対してこのような仕打ちをするのはなかなか考えられません)
北条政子は後に父親を幕府から追放するなど、親や子、孫などの肉親に厳しくあたったとされていますので、上記の事件には母である北条政子が関与した疑いが強いですが、事の真相については諸説あります。

 

頼朝と政子の長男『頼家』の子孫

 

源頼朝と北条政子の長男である頼家には、

比企(ひき)氏の娘との間に一幡竹御所(たけのごしょ)

賀茂重長(かものしげなが)の娘との間に公暁

一品(いっぴん)氏の娘との間に栄実(えいじつ)禅暁(ぜんぎょう)

という子供たちがいました。

鎌倉幕府を開いた源頼朝からすると孫たちです。

 

公暁は前述のように死罪にされ、北条氏による比企氏の討伐に巻き込まれて殺された一幡

謀反を起こした首謀者として自害させられた栄実

禅暁も実朝死後の将軍家後継者争いによって殺害されました。

それからしばらくして、西暦1234年7月、鎌倉4代将軍藤原頼経(ふじわらのよりつね)の正妻となっていた竹御所も亡くなりました。

 

翌月この情報が京都にもたらされ、これを聞いた藤原定家(ふじわらのさだいえ)は、

「頼朝の子孫は、竹御所が死んだことによって絶滅した。これは平家の血を引く者を赤子に至るまで殺戮した報いである」

と日記に記しています。

 

頼朝の子孫として唯一生き残った男子は出家した貞暁

 

頼家、実朝をはじめとして頼朝の血を引く子孫たちはいずれも短命であったり、事件に巻き込まれて非業の死を遂げています。

それは鎌倉幕府が成立する過程の政治的な動揺のなかで頼朝の血を引いているだけでかえってその生涯を縮めてしまった結果にありました。

その中で唯一天寿を全うできたのは頼朝と大進局との間に誕生した貞暁だけです。

 

政子の政略によって仁和寺に入れられた貞暁は、西暦1206年に道法法親王(どうほうほっしんのう)の称号を贈られ勝宝(しょうほう)・華蔵(かぞう)の両院を拝領しました。

それは彼が21歳のときです。

腹違いの兄3代将軍の実朝の招きにあって鎌倉にやってきたとも伝えられていますが、その真偽のほどは定かではありません。

ただ実朝の死後、貞暁は鎌倉幕府将軍を巡る兄弟、親戚間が争う中でただ一人世俗から離れてその場をやり過ごし、そのあとは源氏三代の鎮魂の司祭者として崇拝されるまでになりました。

 

西暦1223年、政子の助成を得て真言宗高野山に寂静院(じゃくじょういん)を建て、本尊の胎内に父頼朝の遺髪を納めました。

また、3代将軍である実朝の供養のために阿弥陀堂を建立しました。

そんな貞暁を鎌倉幕府は手厚く保護しました。

しかし、貞暁はそのあと病が篤くなり、同年寂静院にて短い生涯に幕を下ろしました。

 

そして貞暁の死によって頼朝の血を引く男子はすべて絶たれることになりました。

それゆえ、4代将軍には不本意ながら源氏の血を引く藤原頼経を擁立することになるのです。

 

まとめ

 

源頼朝の子孫たちは短命、または非業の死によって生涯を閉じましたが、正妻の政子の手によって潰されてしまったともいえます。

しかしながら、長男の頼家はリーダーとしての資質に欠けているし、次男の実朝は武士の棟梁として情けない一面があったのです。

 

将軍家だけではなく、実業家たちにとって後継ぎの自身の資質は大きな課題となり、今なおその悩みは尽きることがありません。

鎌倉幕府将軍家は後継ぎに恵まれず、源頼朝の子孫は3代(孫の代)までしか続きませんでした。










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