紫式部(むらさきしきぶ)と清少納言(せいしょうなごん)は誰もが学生時代に国語(古典)や日本史の授業で名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。
紫式部は「源氏物語」、清少納言は「枕草子」を執筆して、その名と才能を後世に残しました。
この二人は日本において、史学的にも文学的にも重要な人物です。
皆様はこの平安時代を代表する作家である紫式部と清少納言が実はライバル関係にあったことをご存知でしょうか?
本記事では、紫式部と清少納言のライバル関係について解説していきたいと思います。。
紫式部と清少納言はライバル同士
紫式部は世界初の長編恋愛小説「源氏物語」、一方の清少納言は「おかしの文学」という異名をとる「枕草子」で平安時代中期にその名を轟かせ、後世において重要な文献を残し、皇室出身者以外の女性としては社会進出の先駆けとなった人物です。
偶然にも紫式部と清少納言はほぼ同年代で同時期に朝廷へ入り、しかも与えられた役職も同じときています。
同年代で同僚、しかも役職も同じとあるので紫式部と清少納言は仲が良いのかな?とイメージしがちですが、そんなことは全くありません。
なぜなら2人はライバル同士の間柄だったからです。
紫式部と清少納言は家庭教師
紫式部と清少納言は貴族の娘が嫁入り修行をする際の貴族お抱えの家庭教師として朝廷に入ります。
そして貴族の娘とは誰なのかというと清少納言が仕えたのが藤原道隆(ふじわらのみちたか)の娘である定子(ていし)、一方の紫式部が仕えたのが藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘である彰子(しょうし)でした。
- 清少納言→定子(藤原道隆(ふじわらのみちたか)の娘)
- 紫式部→彰子(藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘)
藤原道隆と藤原道長は実の兄弟で当時天皇に次ぐ地位を争い合っていたライバル同士でした。
まず先に動いたのは藤原道隆、彼は一条天皇(いちじょうてんのう)に娘の定子を嫁がせて中宮(平安時代の皇后)にします。
これに負けまいと藤原道長は自分の娘の彰子を一条天皇の中宮として入らせ前代未聞の中宮が2人いる状況を作りました。
この戦いはどのように決着がつくのかと言うと先に世継ぎ(皇太子)を産んだほうに軍配が上がります。
天皇に並ぶ身分の皇后は人並み以上の教養と品格がなければいけません。
そのため藤原道隆と道長は比類なき才能と称される知識人の清少納言と紫式部を娘の家庭教師として朝廷に招きます。
清少納言筆頭の定子サロンと紫式部筆頭の彰子サロン
平安時代の貴族の女性社会の実態は、有力な貴族の娘にそれに次ぐ地位にある貴族の娘が仕えてグループを形成していました。
そのあり様はまるで中世ヨーロッパで貴族の娘たちが集まってできたサロンのようなグループでした。
清少納言と紫式部が所属していた定子サロンと彰子サロンは定子と彰子の周りに未婚の貴族の娘が仕え、その娘たちに一度は朝廷を引退した未亡人や既婚者のベテラン女性が指導をするような集まりだったので、いわゆる貴族の女性たちの世代交代が行われる場でした。
先に頭角を現したのは清少納言
清少納言と紫式部はライバル関係にあったと記しましたが、実際ふたりは対面したことがありません。
ふたりが活躍した年代には5年ほどの差があり、当時の女性社会の厳しさもあってふたりが直接顔を合わせて文才を比べ合うようなことはありませんでした。
紫式部は結婚する前に一度、彰子ではないお姫様の下で宮仕えをしていたのですが、紫式部の才能を妬んだ同僚たちにいじめられ、結婚を機に引退しました。
そうしているうちに清少納言が頭角を現します。
このときに「枕草子の発表で有名になるのか?」と思いきや、清少納言は当初文学者という面よりも「接待がうまい」、「彼女と接すると気分がよくなる」といったように対人スキルの面で有名になりました。
当時お姫様と対面したいときは、最初にお姫様に仕える女性たちの筆頭が取次をし、客人の接待や所要の確認、決済の手続きなどを行っていました。
清少納言もこのような役割を担っていた女性だったので、多くの貴族と顔を合わせる機会があり彼女の立ち居振る舞いが大変優れていると朝廷中で噂されるようになりました。
清少納言はお姫様の準備が整うまでの間、訪問しに来た男性と歌や絵合わせなどで勝負をしたり、世間話やときには男性たちの悩み事の相談に親身になって乗ることで多くの支持を得ました。
要するに清少納言は男性の扱いがとてもうまかったわけです。
そしてある日、清少納言は定子から上質で高価な紙をもらいます。
これは藤原道隆が定子の勉強のために買い与えたものなのですが、定子が日頃のお礼にと清少納言に贈ったものでした。
せっかくなので清少納言はその紙を使って日記を書きはじめます。
この日記こそ皆様ご存知の枕草子です。
枕草子には当時の貴族の習慣や生活、清少納言本人が感じた感想などが書き綴られています。
さらに今このようなファッションが流行している、このような食べ物が好まれているなど宮中の最新情報を発信し、時には悪口もストレートに書かれており、たくさんの人々が好んで読む日記へと成長しました。
一条天皇も枕草子のファンとなり、毎日のように定子サロンに通うようになりました。
清少納言に対抗する紫式部
一条天皇が毎日のように定子サロンへ通う光景を見て身の危険を感じたのは藤原道長です。
せっかく娘を天皇へ嫁がせたのに一条天皇が毎日定子サロンへ通ってしまえば次期天皇の母親に定子がなるのは時間の問題です。
このままでは自分も娘も立場が危ういということで藤原道長が頼ったのは藤原家の才女、紫式部でした。
紫式部は宮仕えに良い思い出がなかったので子育てを理由に何度も断るのですが、再三に渡る藤原道長の誘いにようやく応じ宮仕えを決意します。
紫式部を呼んだことで彰子サロンに光が戻るだろうと思っていた藤原道長でしたが、その思惑は脆くも崩れていきます。
紫式部は高飛車な女性で男性たちからのウケが悪く、清少納言を支持層に変化は起きなかったのです。
そこで藤原道長は次なる対抗策を思案します。
それは、紫式部がかねてより執筆していた源氏物語の執筆活動を支援して清少納言の枕草子に代わる読みものとすることでした。
藤原道長から支援を受けたことで紫式部は源氏物語の執筆活動を精力的に行います。
実家で執筆活動をしていた頃は紙の入手が困難だったり、手伝う仕事の忙しさから執筆を中断することもしばしばあったのですが、紙や筆記用具は藤原道長から無限に与えられ、適宜人事や作業分担を支持して昼間でも執筆活動ができる時間を確保してもらえました。
さらにそれだけでなく、源氏物語をひたすら写本(本を書き写す)する人や飲食物の給仕、墨をする要員など紫式部の執筆活動を手伝うアシスタントまでを雇用していました。
その数なんと20名。
紫式部が執筆した源氏物語は藤原道長の期待通りに大ヒット。
一条天皇も源氏物語の魅力に惹かれて彰子サロンに通うようになりました。
紫式部と清少納言のドロドロな戦い
紫式部が源氏物語と並行して執筆していた紫日記には清少納言を恨んでいることを匂わせる記述があります。
それは清少納言が枕草子の中で紫式部の夫である藤原宣孝(ふじわらののぶたか)をバカにしたことに起因します。
清少納言は枕草子で藤原宣孝が天皇とともに神社に参拝をするときのことをこのように書いています。
「帝が参拝は質素な身なりで行くぞと言って帝自身も粗末な服装をしていたというのに…。藤原宣孝と言ったらひとりだけたいそう立派な紫の袴に白い狩衣を着て来たわ。しかも山吹色の上着を羽織るといったようなゴテゴテファッション。ただ綺麗なものを着ればいいってもんじゃないのよ。まったくセンスがないわ。ひとりだけ周りから浮いているし…。他の参拝客にもいまだかつてこんなに華美な服を着て来たやつはいないって言われたそうよ。」
この記述に対しては紫式部も復讐の執念を燃やしました。
紫式部は紫日記の中でよく同僚の愚痴や悪口をオブラートに包んで書いているのですが、清少納言に対してはものすごくストレートに書いています。
「私は清少納言の口ぶりとか立ち振る舞いが気に入らないわ。女のくせに殿方に張り合って政治のことに口出ししたり、漢文とか書いちゃうのだから。私だって本当は漢字くらい書けるのよ。でもね、私は一も書けないふりをするし、それくらい知ってるよって思ってもわからないから教えてくださる?って聞くようにしているの。そうしたほうが殿方って女のことを可愛いって思うものなのよ。あっでもね。清少納言は頭もいいし、尊敬に値する人だと思うの。ほんとよ。でもねやっぱり私こういうことできますとか私こういうことを知ってますみたいな清少納言の態度は気に入らない。」
最終的には紫式部の勝利
紫式部と清少納言を筆頭とする定子サロンと彰子サロンの戦いは最終的に紫式部が率いる彰子サロンに軍配が上がりました。
定子サロンでは定子が亡くなり、清少納言は娘に後事を託して宮中を去り出家しました。
その後も枕草子の執筆を続け、引退してから約8年後に他界しました。
一方、紫式部は清少納言というライバルが宮中を去り、次期天皇の母親に学問を教えた大御所として格別の扱いを受けるようになります。
紫式部は彰子の出産を見届け、子育てのやり方を教えながら源氏物語をどんどん終結の方向へ進めていきました。
紫式部は物事の一切を彰子に教え切ると源氏物語に結末を与え、12歳の娘に自分の後を継がせて隠居しました。
それからわずか約5年後、紫式部はこの世を去ります。
まとめ
日本史上において女性の社会進出の先駆けとなった紫式部と清少納言はどちらも比類なき才能を見込まれて時の有力者から娘の家庭教師を依頼されたライバル同士でした。
清少納言は定子を紫式部は彰子を次期天皇の母親に育てあげるという重責を担いながら日本文学の名著である枕草子と源氏物語をこの世に残した文学者です。
直接対面したことはないとされる二人ですが、清少納言は紫式部の書いた源氏物語を紫式部は清少納言の書く枕草子を読んでいたことが彼女たちの日記の記述から読み取れます。
もしかするとお互いにライバルとして認め合い、互いの著作物を読むことでインスピレーションを受けたり執筆活動の意識を高めていたのかも知れません。
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