神武天皇が初代天皇陛下に即位してから現在まで約2600年以上の歳月が流れてきました。
その長い年月の中で日本には鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の3つの幕府が成立し、滅亡しました。
中でも室町幕府は誰がどうやって成立させたのかという知名度は大変低いと思っています。
本記事では、そんなあまり目立っていないように感じる室町幕府の成立について解説していきます。
室町幕府が成立する直前
実は鎌倉幕府が新田義貞(にったのよしさだ)の鎌倉攻めによって滅亡してから室町幕府が成立するまでの間はわずか5年間しかありません。
この5年の間には後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による建武の新政や北(京都)と南(奈良)に朝廷が置かれる南北朝時代、中先代の乱など日本国内でゴタゴタがありました。
【鎌倉幕府倒幕】
後醍醐天皇は2度目の倒幕計画が密告によって失敗した後、流刑に処されます。
それでも後醍醐天皇は倒幕計画を練り、西暦1332年に挙兵します。
当初は鎌倉幕府からこれを討伐するように命令されていた足利尊氏(あしかがたかうじ)は幕府に反旗を翻し、六波羅探題を攻め落とします。
それに呼応した新田義貞は3方向から鎌倉を攻め、執権の北条一族を自害に追い込み、鎌倉幕府は滅亡しました。
【建武の新政】
鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇は喜び勇んで建武の新政を開始します。
鎌倉幕府に不満を抱いていた武士や朝廷の貴族たちはみな後醍醐天皇の建武の新政に期待を寄せていました。
ところが建武の新政の実態はトンチンカンで横暴、かつ後醍醐天皇とその身内にしか利がない悪政だったので、武士や貴族たちは不満を抱くようになります。
貴族たちは自分がどれだけ頑張っても後醍醐天皇に評価されず、しかも一生懸命に仕事してもなかったことにされてしまうので優秀な貴族ほど引退し、武士は鎌倉幕府の再興を願うようになりました。
【中先代の乱】
西暦1335年、中先代の乱が勃発します。
中先代の乱は第9代執権北条高時(ほうじょうたかとき)の遺児時行(ときゆき)が鎌倉幕府の残党を率いて鎌倉を占拠し、朝廷に反旗を翻した反乱です。
この反乱に慌てた朝廷は足利尊氏にこれの討伐を命じました。
足利尊氏は鎌倉幕府の残党を殲滅して鎌倉を奪い返したのですが、その後鎌倉で自立の姿勢をとったため朝廷と対立することになりました。
【足利尊氏と朝廷の戦い】
足利尊氏は朝廷から乱を鎮めるように命令され、当初はそれに従っていましたがその後朝廷に対して反旗を翻します。
朝廷は足利尊氏を討伐するために軍を差し向け、足利尊氏は一度九州に逃げ延びます。
しばらくして足利尊氏は九州で兵力を回復し、反撃を開始します。
そのとき朝廷から足利尊氏討伐の命令を受けたのは新田義貞と楠木正成です。
かつて鎌倉幕府倒幕時の戦友同士の戦いとなりました。
しかし、足利尊氏は西暦1336年に逆襲し、湊川の戦いにて楠木正成を討ちました。
その破竹の勢いを保ったまま京へ上洛、都を制圧しました。
楠木正成に頼りきりだった後醍醐天皇は「楠木正成討死」の報を聞いて狼狽。
慌てて京の都を捨て、吉野(現奈良県)に逃亡しました。
室町幕府は足利尊氏によって成立された
さて、室町幕府が誰によって成立された(開かれた)のかというと、結論は足利尊氏です。
しかし、足利尊氏は「俺が将軍になってやる!!」という意気のある野心家ではありませんでした。
それではなぜ足利尊氏が室町幕府を成立させたのか?
足利尊氏の起こした反乱の動機が室町幕府成立にその後関わるので、その経緯を説明しましょう。
源氏方武士の名門出身だった足利尊氏
足利尊氏は源氏方の名門だった足利家の末裔でした。
足利家は源頼朝が挙兵したときからの腹心で、源平合戦時に大きな戦功を立て、代々守護職に就いて地方を支配下に置いていました。
守護は地方に一人ずつ置かれたので意外にも多くいましたが、足利家はその中でも名門と呼ばれる家柄です。
そのため、足利尊氏の人望は厚く、建武の新政下で不当な扱い(命がけで倒幕しても領地や身分を剥奪された)を受けた武士たちはみな足利尊氏に相談したのです。
「尊氏さん…俺たちはなんのために戦ったんだい?あんたは源氏の名門足利家なんだからあんたが将軍になって幕府を、武士の時代をもう一度作ろうよ」。
足利尊氏は周りの武士たちからこのように提案され、室町幕府を開くことを決意します。
室町幕府を成立しようとしたけど問題が…
足利尊氏は室町幕府を成立させようと考えたのですが、ひとつだけ問題がありました。
まず、幕府を開くためには武士の代表者が天皇陛下より「征夷大将軍」に任命されなければなりません。
しかし、時の天皇は足利尊氏と対立している後醍醐天皇です。
敵同士だから対談するのが難しいし、第一後醍醐天皇は天皇中心の公家政権を成立させるために流刑にされてまでも鎌倉幕府を倒幕した天皇ですので、「征夷大将軍」に任じられることはまず期待できません。
室町幕府は足利将軍家と天皇家の持ちつ持たれつの関係で成立
当時天皇家は「持明院統(じみょういんとう)」と「大覚寺統(だいかくじとう)」という2つの派閥に分かれ、どちらか一方に正統後継者がいなければもう一方の正統後継者が天皇に即位するという取り決めがありました。
この時、乱を機会に後醍醐天皇は吉野に逃げていたので、京の都には天皇がいない状況でした。
後醍醐天皇が大覚寺統系の出身だったため、足利尊氏は持明院統の皇子(後の光明天皇:こうめいてんのう)のもとへ行き
「私があなたを天皇に擁立するので、その代わり征夷大将軍に任じてください」
と頼みにいきました。
持明院統の天皇家もまさに渡りに舟。
光明天皇は足利尊氏の援護を受けて即位します。
そして西暦1338年、足利尊氏は光明天皇によって「征夷大将軍」に任命されました。
まとめ
室町幕府を成立させたのは初代室町幕府将軍足利尊氏と持明院統出身の光明天皇でした。
室町幕府が成立することになったのは、後醍醐天皇による建武の新政が発端です。
天皇を中心とする公家政権で武士が不当に扱われるようになったため、全国各地の武士が幕府の再興を願い名門足利家当主の足利尊氏が武士の代表となって室町幕府を成立させました。
足利尊氏が征夷大将軍に任命されたのは西暦1338年ですが、室町幕府の実質的な成立は1336年といわれています。
室町幕府はこの1336年から1573年まで、200年以上も続くことになりました。
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