花園の地に46の塔頭が立ち並ぶ禅寺の町「妙心寺(みょうしんじ)」







京の洛西、花園に建つ妙心寺は、総面積13万坪を誇る、日本最大の禅寺です。

広大な境内には、大小の塔頭(たっちゅう:大寺院の敷地に建つ小寺院や僧の住居)が整然と並び、迷路のような小道が縦横に走ります。

 

厳しい修行を重んじる禅道場は、他の観光寺院とは一線を画し、ほとんどの塔頭が通常非公開です。

しかし、あえて在野で民衆に禅の教えを広めてきた妙心寺の境内は、年中開放されており24時間散策は自由です。

一般を対象の座禅会が開かれ、拝観時は20分間隔で案内もしてくれます。

通年公開されている法堂(はっとう)や美しい庭園など見どころも豊富、できれば半日かけてゆっくりと京の情緒を楽しんでください。

 

今回は、信長や光秀、秀吉などの戦国武将のみならず、春日局をはじめ多くの女性たちの庇護を受けた稀有な禅寺の、歴史と見どころなどをご案内します。

 

算盤面(そろばんづら)と呼ばれた妙心寺は、林下(りんか)の代表的寺院

 

鎌倉時代が終焉を迎え、室町・南北朝時代となったころ、花園の地に妙心寺は開創(寺院がひらかれること)されました。

五山十刹(ござんじっさつ:禅宗の官寺の格付け・室町幕府の庇護と統制下にあった)に属さない妙心寺は、大徳寺と並ぶ林下の代表的な寺院でした。

林下とは、権力に迎合せず、自力で教団を維持し布教に努める禅寺のことで、厳しい禅風が特色です。

 

やがて、応永の乱(1399年)が起こり、将軍足利義満の怒りを買った妙心寺は、開創からわずか60年余りで、一時途絶えることになります。

さらに、応仁の乱(1467年‐1477年)で伽藍のほとんどを焼失しますが、後土御門(ごつちみかど)天皇の命により、雪江宗深(せっこうそうしん)が、妙心寺を復興させます。

財政面からの再建を重視した雪江宗深は、節約を旨とし、きちんとした会計制度を作って、合理化した運営を徹底して行ったことから、「算盤面」と呼ばれました。

ちなみに千利休や三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)などと縁の深い大徳寺は、「茶面(ちゃづら)」と呼ばれています。

 

その後、多くの戦国大名などの帰依(きえ:神仏や高僧を信じすがること)を受け発展、最盛期には83の塔頭がありました。

現在も、臨済宗5700寺院のうち、約3400寺の大本山であり、在籍僧数は約7000人を数えます。

 

3400の末寺の頂点、臨済宗妙心寺派大本山の略年表

 

  • 建武2年(1335)花園法皇が花園の離宮を禅寺とし、大徳寺を開いた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が、正法山妙心寺と命名したのが始まり
  • 建武4年(1337)花園法皇が禅の師と仰いだ、宗峰妙超(大燈国師:だいとうこくし)が亡くなった建武4年を、開創の年とする
  • 暦応元年(1338)花園法皇が玉鳳院(ぎょくほういん)を建立
  • 康永元年(1342)宗峰が法皇に推挙した、関山慧玄(かんざんえげん)が開山(かいさん:寺院を開いた僧侶・初代住職)となる 開基(かいき:経済的に建立の事業を担った人・創立者)は花園法皇
  • 貞和4年(1348)11月11日 花園法皇崩御(52歳)
  • 延文5年(1360)12月12日 関山慧玄禅師死去(84歳)玉鳳院にある風水泉という井戸の傍らの大樹にもたれ、立ちながら亡くなったと伝わる(本有円成国師、無相大師)
  • 応永6年(1399)応永の乱が勃発、足利義満が妙心寺を没収 住持(住職)は青蓮院に幽閉され、龍雲寺と改名させられる
  • 応永11年(1404)退蔵院が創建される
  • 応永22年(1415)退蔵院の国宝「瓢鮎図(ひょうねんず)」が描かれる
  • 永享4年(1432)妙心寺が返され、日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)禅師が妙心寺を復興、荒れた地を整備し開山堂を建立
  • 応仁元年(1467)応仁の乱により妙心寺と龍安寺が焼失
  • 文明9年(1477)雪江宗深(せっこうそうしん)禅師が後土御門院(ごつちみかどいん)から妙心寺再興の命を受け、細川勝元(応仁の乱 東軍総大将)らの援助により再興
  • 永正6年(1509)後柏原天皇から紫衣勅許(朝廷が高僧に授ける紫色の法衣などの着用を許可すること)を得て、妙心寺は大徳寺から独立したとみなされる
  • 同年12月 利貞尼(りていに:関白 一条兼良の娘で、美濃の豪族 斎藤利国の妻)が、仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進 境内が広がり、7つのお堂や塔頭が建立される
  • 天正15年(1587)密宗和尚(光秀の母方叔父)が「明智風呂」建立 明暦2年(1656)に再建
  • 天正19年(1591)豊臣鶴松(秀吉の子)の葬儀が行われる
  • 寛永6年(1629)紫衣事件により、住持 東源慧等(とうげんえいとう)が流罪となる 後水尾天皇の紫衣勅許を無効とする幕府(徳川家光)に抗議した、大徳寺の沢庵宗彭(たくあんそうほう)ら4僧が処罰された事件
  • 明暦3年(1657年)法堂(はっとう)建立
  • 明治元年(1868)神仏分離令の発布後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、寺院が取り壊されたり、仏像や経典などが破棄される
  • 明治5年(1872)花園大学、花園高等学校の前身となる「般若林(はんにゃりん)」開設

 

 

狩野探幽の傑作と、明智光秀ゆかりの風呂を拝観する

雲龍図

1657年、開山 関山慧玄国師の300年忌を記念して、「法堂」を建造しました。

天井の「雲龍図」は、狩野探幽(当時55歳)が、8年(構想3年、製作5年)かけて描いた大傑作です。

直径12mの鏡天井(円形の吊り天井)に描かれた「八方にらみの龍」の表情は、見る位置により変化し、どこから見ても巨龍に睨まれているようです。

龍神は仏法を守り、水を司る神とされ、当時火災を被ることの多かった寺院では、好まれて描かれたのでしょう。

 

お堂の片隅に安置されている国宝「黄鐘調の鐘(おうじきちょうのかね)」は、698年鋳造と刻まれた、現存する日本最古の鐘です。

浄金剛院から移された名鐘の美しい音色は、吉田兼好も「徒然草」の220段で絶賛しており、1973年までは鐘楼に吊るされ、時を知らせていました。

現在は、CDでその音色を聴くことができますよ。

 

三門の東にある浴室は「明智風呂」と呼ばれ、密宗和尚(光秀の母方の叔父)が、1587年に光秀の菩提を弔うために建てました。(1656年再建)

1582年6月2日、本能寺の変で織田信長を討った後、妙心寺に引き上げた光秀が、自害を決意し仏殿に礼拝していたとき、僧により戒められたと伝わります。

その後、山崎の合戦で討たれたとされる6月14日の命日には、浴室が一般に開放され(施浴)、光秀の冥福を祈ったそうです。

浴室中央の小部屋が蒸し風呂となっており、洗い場や休憩室が設けられ、1927年まで僧侶や一般の人が利用しました。

 

浴室の北側には、かつて春日局(かすがのつぼね)によって建立された、浴鐘楼(風呂が準備できた時に鳴らされる合図の鐘)がありましたが、焼失しました。

現存の鐘楼は、東山仁王門の信行寺の鐘楼(春日局が麟祥院に寄進したと伝わる)を譲り受け移築したものです。

 

※20分間隔での案内がある、法堂と浴室の拝観の詳細はコチラ

妙心寺公式サイト https://www.myoshinji.or.jp/

 

 

通年公開の塔頭で、名園と抹茶を楽しむ

1404年創建の「退蔵院」は、応仁の乱で焼失するも、1597年に亀年禅師によって再建された、妙心寺山内屈指の古刹(由緒ある古い寺)です。

 

1600年の関ヶ原の戦いの後、宮本武蔵(当時20歳前後)は禅の教えを乞うために、妙心寺を度々訪れ、退蔵院で「瓢鮎図(ひょうねんず)」を前に座禅をくみ、自問自答を繰り返したと言われています。

瓢箪(ひょうたん)と鯰(なまず)が描かれた日本最古の水墨画は、足利義持の命により山水画の始祖「画僧如拙(じょせつ)」が作成した禅図の傑作です。

 

瓢鮎図

 

岡山県の「宮本武蔵資料館」には、「瓢箪と鯰」がデザインされた、武蔵自作の刀剣の鍔(つば)が展示されています。

その後、武蔵は吉岡一門との3度の決闘に挑むことになります。

有名な「一乗寺下り松」の戦い後、武蔵は東寺の観智院に3年間かくまわれたと伝わり、その際描いた「鷲の図」と「竹林の図」が残されています。

 

約800坪の池泉回遊式庭園「余香苑(よこうえん)」は、1年を通じて美しい花々に彩られる昭和の名園です。

庭を一望する茶席「大休庵」で、四季を愛でながら、ゆっくりとお抹茶(お菓子付:1服500円)をいただきましょう。

夏場(5~9月)は、冷たいグリーンティーで一息もおすすめですよ。

※退蔵院ホームページ http://www.taizoin.com/

 

通年公開の大心院(だいしんいん)や桂春院(けいしゅんいん)の各庭園も趣があり、見ごたえ十分です。

信玄と信長の供養塔が並ぶ「玉鳳院(ぎょくほういん)」

本能寺の変(1582年6月2日)から約3か月後の9月11日、柴田勝家は信長の妹お市を喪主に立て、妙心寺で信長の百か日法要を営みました。

10月15日に大徳寺で行われた、秀吉による大々的な葬儀が有名なため、こちらはあまり知られていません。

また、信長の重臣 滝川一益は、「玉鳳院」に信長父子の供養塔を建てたと言われ、その隣には、関山派に帰依した武田信玄・勝頼・信勝・信豊の供養塔も見られます。

 

最も神聖な場所とされる玉鳳院は、山内最古の塔頭で、現在の方丈(ほうじょう:禅寺住職の居室)は、1656年に再建されました。

玉鳳禅宮とも呼ばれ、花園法皇が暮らし、関山禅師と問答を行なったと伝わります。

内陣(本尊を安置する奥の間)には花園法皇の木像が祀られ、武田家、織田家、豊臣家、徳川家の位牌が並びます。

 

1589年に豊臣秀吉と淀殿の長男として淀城で生まれた鶴松(棄丸:すてまる)は、3歳で病死しました。

1591年、鶴松の葬儀は妙心寺で行われ、祥雲院殿霊屋(しょううんいんでんおたまや:霊を祀る建物)が建立されました。

また、鶴松の木像や愛用品(木造玩具船、小型武具、守り刀など)も収蔵されています。

 

東福寺より移築された「開山堂」(重文) は、関山禅師の墓の上に建てられており、禅師の木像が安置されています。

平唐門には、応仁の乱の際に矢が刺さった跡が多数残っており、戦いの激しさが偲ばれます。

※玉鳳院 https://www.myoshinji.or.jp/worship/keidai/318

 

麟祥院(りんしょういん)は、春日局の菩提所

1633年、徳川家光が天神社を鎮守社として、春日局のために創建したと伝わります。

1634年、春日局が、我が子の稲葉正勝(いなばまさかつ)の死を悼んで建てたとも言われます。

 

1604年、明智光秀の家老 斎藤利三の娘「お福」は、徳川家康の孫 竹千代(後の徳川家光)の乳母になりました。

2代将軍 徳川秀忠の継室(後妻)お江(信長の妹 市の娘・浅井長政の三女)との、世継を巡る対立は定説ですが、近年は異論もあり真実は不明です。

しかし、家光を将軍職に就けるために尽力し、大奥の組織的な整備を行ったことは、間違いないでしょう。

1629年の紫衣事件に際しては、朝廷との調整に貢献し、春日局の称号を賜りました。

1643年に64歳で亡くなった春日局の木像(小堀遠州作と伝わる)は、御霊屋の内陣に安置されています。

 

特別公開される塔頭は?

 

・東林院 1531年、細川氏綱が建立した三友院が前身 秀吉と家康に仕えた山名豊国が東林院と名を改める 樹齢300年の沙羅双樹(さらそうじゅ)の庭園が見どころ

・大法院 1625年、松代藩主 真田信之(真田幸村の兄)の菩提寺として創建 真田一族や佐久間象山の墓がある 露地庭園が美しい

三門や霊雲院、天球院、慧照院、大雄院、養德院、大通院、龍泉庵も特別公開されることがあります。

※特別公開の予定はコチラ

京都デザイン https://kyoto-design.jp/event

 

妙心寺の基本情報

 

・拝観時間
9:10~11:50 12:30 13:00~15:40(11月~2月)
13:00~16:40(3月~10月)
※20分間隔で、法堂・梵鐘・浴室を拝観案内してくれます。

・拝観料
500円

・問合せ
妙心寺法務部
TEL:075-461-5226
FAX:075-464-2069

・アクセス
南門
:JR嵯峨野線「花園駅」 バス「妙心寺前」
北門:京福電鉄北野線「妙心寺駅」 バス「妙心寺北門前」

・駐車場
9:00~17:00 700円

・所在地
〒616-8035 京都府京都市右京区花園妙心寺町64

※妙心寺公式サイト https://www.myoshinji.or.jp/

妙心寺の広大な境内を巡り、歴史を楽しみましょう

 

室町時代、貴人らの山荘があり、美しい花々に満ちた「雅な地」に佇む妙心寺は、古来より「西の御所」と呼ばれ親しまれてきました。

この地を愛した花園法皇の発願(ほつがん:悟りを得て人々を救おうと決意すること)により開かれた妙心寺は、関山禅師により厳粛な禅寺として大発展を遂げることになります。

修行第一の禅寺ですが、一般の参拝者も座禅会や写経会などを通して禅の心に触れたり、逸話の残る文化財や美しい庭園を拝観できます。

禅の教えをもとめて帰依した、多くの有力者の足跡をたどる歴史の旅を、「妙心寺」でゆっくりとお楽しみください。










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